月の抒情、瀧の激情
自由な思索空間──「月の抒情、瀧の激情」へようこそ。
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大通智勝仏と十六王子──大山祇神社の本地仏たち
大山積神と同体と考えるのが自然であろう三嶋龍の存在や、大山祇神社の元宮・横殿宮の水霊神・御手洗神としての大山積神をみますと、そこには、龍神かつ御手洗神でもあった瀬織津姫神、つまり、伊勢・神宮祭祀においては天照大神荒魂と仮称される絶対禁忌の神が秘められていた、あるいは「神神習合」されていたようです。
大山積神を祖神と仰ぎまつる越智氏は物部氏であり、にもかかわらず、物部氏の祖神とされる天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を、大三島あるいは大山祇神社の祭祀に読むことは、現在、事実上困難といえます。神宮祭祀とは別系のニギハヤヒという男系太陽神を消去することが越智氏の自由意志であったはずがなく、この太陽神と一対の月神でもあろう后神をまつることも自ら封じた越智氏でしたが、越智氏と同族の河野氏になると、その本拠地である風早郡で、この祖神祭祀をそれなりに展開していたことは特記に値します(国津比古命神社・櫛玉比売命神社)。
また、河野氏は、風早郡において信仰霊山として仰いでいた高縄山の西麓に、小さな社ではあるものの「荒魂神社」をもまつっています。『愛媛県神社誌』は、同社祭神を「天照大神」としていますが、その社号が端的に語るように、正確な祭神名は「天照大神荒魂」、つまり、三嶋龍でもあった瀬織津姫神を表しています。同社神紋は大山祇神社と同じで、越智─河野氏が、中央祭祀への順化・同化を全面的に受容していたわけではなかったことを告げてもいます。



▲荒魂神社
越智─河野氏による、中央祭祀への抵抗は、高縄山という信仰霊山を中心とする風早郡の祭祀に顕著にみられますが、これは、越智郡大三島・大山祇神社本社においても別様に読み取ることは可能です。
大山祇神社境内には、八世紀初頭、本社が横殿宮から遷宮すると同時にまつられた祓殿神社があります。同社は現在、「伊豫国総社」と「葛城神社」との三社合祭殿として一宇にまつられていますが、祓殿神社の祭神は「大禍津日神・大直日神・伊豆能売神・速佐須良姫神」とされ、他社一般からいえば、ここに瀬織津姫神を祓殿の神として表示してもおかしくはありませんでした(葛城神社祭神は一言主神)。大祓祝詞に出てくる速佐須良姫神を表示するも、同祝詞の最初に出てくる瀬織津姫神をあえて祭神表示していないことは示唆することが多いです。ここには、瀬織津姫神を単純に大祓神(祓戸大神)としないという大山祇神社の祭祀意志の痕跡があります。
中央の祭祀思想からすれば、新たな本殿祭祀において、また境内社・祓殿神社においても、両方から伊勢の絶対禁忌の神の名が消えたことで、おそらく所期の「勅命」意図は実現されたはずです。しかし、越智氏は、大山祇神社本社においては、中央の祭祀思想を受容するも、本社と摂社あるいは末社関係にあった早瀬神社に、この伊勢の秘神の名を残していました。
早瀬神社は、もともと越智七島の一島・津島にまつられていた社で、同社は現在、祓殿神社と対面する、もう一つの境内社・十七神社にまつられています。

▲津島

▲十七神社
十七神社は、その名が示すように、十七の社の合祭殿ですが、そのうちの一社として早瀬神社があります。もう少し正確にいいますと、大山祇神社の周辺の島々には、衛星群のように摂社・末社が配されていて、そのうちの一社が早瀬神社です。ここでいう「早瀬」は、川の早瀬ではなく海の早瀬、つまり、潮流・瀬戸を意味していて、瀬織津姫神は瀬戸・海峡の守護神とみなされていたものとおもわれます。大山祇神社の元社・横殿宮が鼻刳瀬戸[はなぐりせと]の海浜にまつられていたこととも、当然ながら関係しているといえます。
大山祇神社に神仏習合の思想が持ち込まれるのは平安時代末のことですが、本社の衛星群のように配されていた十六の摂社・末社も、本社とは一体のものという考えから、大山積神の本地仏は大通智勝仏とし、その十六王子を摂社・末社にあてはめることになります。この十六王子社を、諸山積神社(祭神:大山祇命・中山祇命・麓山祇命・正勝山祇命・志藝山祇命)とともに合祭したのが十七神社です。
この十七神社という合祭殿が成立する過程については、『大三島詣で』は、次のように書いています。
宝亀十年(七七九)越智七島の浦処々に鎮祭したが、その地隔絶して風雨の時祭祀調はず、正安四年(一三〇二)二月遙拝十六社を諸山積神社と相並べ合せて一棟とした。神社古図に「一の王子、十六王子」とある。
この由緒記述を信用するならば、瀬織津姫神を含む十六社の創祀は奈良時代末の宝亀十年(七七九)となりますが、この神は大山祇神社の元宮祭祀に関わっていましたから、これは復活祭祀といえます。越智氏は、「越智七島」という北斗七星の「七」の思想に習合させて、瀬織津姫神をそこに紛れこませるようにして復活祭祀をはたしたものかもしれません(大山祇神社における妙見・北辰信仰についてはあらためてふれます)。
さて、『大山祇神社略誌』は、大山積神の本地仏は大通智勝仏、この仏には、出家前に十六の王子があり、その十番めの王子が早瀬神社・瀬織津姫神に相当するとしています。さらにいえば、この十番めの王子は西方を守護する役目をもち、その仏徳は「度一切世間苦悩」と、『仏教大辞典』を援用して説明しています。「度一切世間苦悩」は、一切の世間の苦悩を度す(救う)という意味で、ほかの十五王子とは別格の仏徳が語られています。
白山信仰の秘伝書(『白山大鏡』…上村俊邦編『白山信仰史料集』所収)においても「瀬織津比と云う神、苦業の因[もと]を救うべし」という文言がみられ、この神は白山信仰・白山祭祀の根幹に関わってもいます(菊池展明『円空と瀬織津姫』下巻)。加賀・越前・美濃・飛騨国の境界山・水分山である白山と瀬戸内海の大三島という、一見遠隔の地に、瀬織津姫という神に共通して寄せられた信仰感情がみられるのはきわめて重要です。
ところで、『大三島詣で』は、横殿宮(横殿神社)の項で、次のように書いています。
潮音山向雲寺(上浦町瀬戸)の境内には横殿神社の祭神大山積神の本地仏である大通智勝仏の仏体御神像を安置する十劫山大通庵の御堂がある。
東西南北四方八方を守護するとされる大通智勝仏ですが(『大山祇神社略誌』)、この仏(「仏体御神像」)の像容はあまり一般に知られることがありません。向雲寺境内の「十劫山大通庵の御堂」は、現地では「横殿大明神本地堂」と堂標に記されていて、ここには、大通智勝仏ばかりでなく、その王子とされる十六王子(如来)がまとめてまつられていて貴重です。

▲潮音山向雲寺

▲横殿大明神本地堂

▲堂標

▲横殿大明神本地堂の内景


▲十六王子(如来)【右】


▲十六王子(如来)【左】
大三島において、瀬織津姫神の名をそのままに、唯一確認できるのが、十六王子の十番めにあたる早瀬神社で、この十番めの王子(如来)が瀬織津姫神の本地仏(「仏体御神像」)ということになります。
十六王子の如来名称を記した説明紙には「苦悩如来」と簡略化して記されていますが、当該仏の台座部分には「第十 西方 度一切世間苦悩如来」と書かれています。個人的な印象では、大山積神の本地仏とされる大通智勝仏に比して、仏像というよりもやはり神像に近い印象を受けます。さらに私感をいえば、大通智勝仏よりもよほどチャーミングでさえあります。はるか遠くにまで、おだやかな視線をはせているのも印象深いといえそうです。

▲大通智勝仏


▲瀬織津姫神の神像(度一切世間苦悩如来)
大山積神の本地仏とされる大通智勝仏、その王子(子)の仏の一つを本地仏とするのが瀬織津姫神です。こういった親子関係を偽装した神仏習合思想にも、大山積神と瀬織津姫神がとても近しい関係にあったことが表れています。
八世紀初頭、中央の祭祀思想(の強制)を受容した越智氏でしたが、その後の神仏習合の場面をみますと、大山積神が秘める三嶋龍の本姿を捨てていなかったこと、このことだけは指摘しておきたくおもいます。
大山積神を祖神と仰ぎまつる越智氏は物部氏であり、にもかかわらず、物部氏の祖神とされる天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を、大三島あるいは大山祇神社の祭祀に読むことは、現在、事実上困難といえます。神宮祭祀とは別系のニギハヤヒという男系太陽神を消去することが越智氏の自由意志であったはずがなく、この太陽神と一対の月神でもあろう后神をまつることも自ら封じた越智氏でしたが、越智氏と同族の河野氏になると、その本拠地である風早郡で、この祖神祭祀をそれなりに展開していたことは特記に値します(国津比古命神社・櫛玉比売命神社)。
また、河野氏は、風早郡において信仰霊山として仰いでいた高縄山の西麓に、小さな社ではあるものの「荒魂神社」をもまつっています。『愛媛県神社誌』は、同社祭神を「天照大神」としていますが、その社号が端的に語るように、正確な祭神名は「天照大神荒魂」、つまり、三嶋龍でもあった瀬織津姫神を表しています。同社神紋は大山祇神社と同じで、越智─河野氏が、中央祭祀への順化・同化を全面的に受容していたわけではなかったことを告げてもいます。



▲荒魂神社
越智─河野氏による、中央祭祀への抵抗は、高縄山という信仰霊山を中心とする風早郡の祭祀に顕著にみられますが、これは、越智郡大三島・大山祇神社本社においても別様に読み取ることは可能です。
大山祇神社境内には、八世紀初頭、本社が横殿宮から遷宮すると同時にまつられた祓殿神社があります。同社は現在、「伊豫国総社」と「葛城神社」との三社合祭殿として一宇にまつられていますが、祓殿神社の祭神は「大禍津日神・大直日神・伊豆能売神・速佐須良姫神」とされ、他社一般からいえば、ここに瀬織津姫神を祓殿の神として表示してもおかしくはありませんでした(葛城神社祭神は一言主神)。大祓祝詞に出てくる速佐須良姫神を表示するも、同祝詞の最初に出てくる瀬織津姫神をあえて祭神表示していないことは示唆することが多いです。ここには、瀬織津姫神を単純に大祓神(祓戸大神)としないという大山祇神社の祭祀意志の痕跡があります。
中央の祭祀思想からすれば、新たな本殿祭祀において、また境内社・祓殿神社においても、両方から伊勢の絶対禁忌の神の名が消えたことで、おそらく所期の「勅命」意図は実現されたはずです。しかし、越智氏は、大山祇神社本社においては、中央の祭祀思想を受容するも、本社と摂社あるいは末社関係にあった早瀬神社に、この伊勢の秘神の名を残していました。
早瀬神社は、もともと越智七島の一島・津島にまつられていた社で、同社は現在、祓殿神社と対面する、もう一つの境内社・十七神社にまつられています。

▲津島

▲十七神社
十七神社は、その名が示すように、十七の社の合祭殿ですが、そのうちの一社として早瀬神社があります。もう少し正確にいいますと、大山祇神社の周辺の島々には、衛星群のように摂社・末社が配されていて、そのうちの一社が早瀬神社です。ここでいう「早瀬」は、川の早瀬ではなく海の早瀬、つまり、潮流・瀬戸を意味していて、瀬織津姫神は瀬戸・海峡の守護神とみなされていたものとおもわれます。大山祇神社の元社・横殿宮が鼻刳瀬戸[はなぐりせと]の海浜にまつられていたこととも、当然ながら関係しているといえます。
大山祇神社に神仏習合の思想が持ち込まれるのは平安時代末のことですが、本社の衛星群のように配されていた十六の摂社・末社も、本社とは一体のものという考えから、大山積神の本地仏は大通智勝仏とし、その十六王子を摂社・末社にあてはめることになります。この十六王子社を、諸山積神社(祭神:大山祇命・中山祇命・麓山祇命・正勝山祇命・志藝山祇命)とともに合祭したのが十七神社です。
この十七神社という合祭殿が成立する過程については、『大三島詣で』は、次のように書いています。
宝亀十年(七七九)越智七島の浦処々に鎮祭したが、その地隔絶して風雨の時祭祀調はず、正安四年(一三〇二)二月遙拝十六社を諸山積神社と相並べ合せて一棟とした。神社古図に「一の王子、十六王子」とある。
この由緒記述を信用するならば、瀬織津姫神を含む十六社の創祀は奈良時代末の宝亀十年(七七九)となりますが、この神は大山祇神社の元宮祭祀に関わっていましたから、これは復活祭祀といえます。越智氏は、「越智七島」という北斗七星の「七」の思想に習合させて、瀬織津姫神をそこに紛れこませるようにして復活祭祀をはたしたものかもしれません(大山祇神社における妙見・北辰信仰についてはあらためてふれます)。
さて、『大山祇神社略誌』は、大山積神の本地仏は大通智勝仏、この仏には、出家前に十六の王子があり、その十番めの王子が早瀬神社・瀬織津姫神に相当するとしています。さらにいえば、この十番めの王子は西方を守護する役目をもち、その仏徳は「度一切世間苦悩」と、『仏教大辞典』を援用して説明しています。「度一切世間苦悩」は、一切の世間の苦悩を度す(救う)という意味で、ほかの十五王子とは別格の仏徳が語られています。
白山信仰の秘伝書(『白山大鏡』…上村俊邦編『白山信仰史料集』所収)においても「瀬織津比と云う神、苦業の因[もと]を救うべし」という文言がみられ、この神は白山信仰・白山祭祀の根幹に関わってもいます(菊池展明『円空と瀬織津姫』下巻)。加賀・越前・美濃・飛騨国の境界山・水分山である白山と瀬戸内海の大三島という、一見遠隔の地に、瀬織津姫という神に共通して寄せられた信仰感情がみられるのはきわめて重要です。
ところで、『大三島詣で』は、横殿宮(横殿神社)の項で、次のように書いています。
潮音山向雲寺(上浦町瀬戸)の境内には横殿神社の祭神大山積神の本地仏である大通智勝仏の仏体御神像を安置する十劫山大通庵の御堂がある。
東西南北四方八方を守護するとされる大通智勝仏ですが(『大山祇神社略誌』)、この仏(「仏体御神像」)の像容はあまり一般に知られることがありません。向雲寺境内の「十劫山大通庵の御堂」は、現地では「横殿大明神本地堂」と堂標に記されていて、ここには、大通智勝仏ばかりでなく、その王子とされる十六王子(如来)がまとめてまつられていて貴重です。

▲潮音山向雲寺

▲横殿大明神本地堂

▲堂標

▲横殿大明神本地堂の内景


▲十六王子(如来)【右】


▲十六王子(如来)【左】
大三島において、瀬織津姫神の名をそのままに、唯一確認できるのが、十六王子の十番めにあたる早瀬神社で、この十番めの王子(如来)が瀬織津姫神の本地仏(「仏体御神像」)ということになります。
十六王子の如来名称を記した説明紙には「苦悩如来」と簡略化して記されていますが、当該仏の台座部分には「第十 西方 度一切世間苦悩如来」と書かれています。個人的な印象では、大山積神の本地仏とされる大通智勝仏に比して、仏像というよりもやはり神像に近い印象を受けます。さらに私感をいえば、大通智勝仏よりもよほどチャーミングでさえあります。はるか遠くにまで、おだやかな視線をはせているのも印象深いといえそうです。

▲大通智勝仏


▲瀬織津姫神の神像(度一切世間苦悩如来)
大山積神の本地仏とされる大通智勝仏、その王子(子)の仏の一つを本地仏とするのが瀬織津姫神です。こういった親子関係を偽装した神仏習合思想にも、大山積神と瀬織津姫神がとても近しい関係にあったことが表れています。
八世紀初頭、中央の祭祀思想(の強制)を受容した越智氏でしたが、その後の神仏習合の場面をみますと、大山積神が秘める三嶋龍の本姿を捨てていなかったこと、このことだけは指摘しておきたくおもいます。
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