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宇和海の守護神・鳴滝神──八幡浜・大島の龍神伝説

大島全景
▲宇和海・大島全景(中央の小島が三王島)

 愛媛県八幡浜[やわたはま]市の宇和海沖合に、戸数約二〇〇戸、人口約三五〇人が住む「大島」があります(平成二十年現在)。八幡浜と大島は一日二往復の定期船によって結ばれていて、片道の所要時間は二五分ほどですから、離島の印象はそれほどつよくないかもしれません。
 この宇和海の大島は、厳密には大小五つの島から成り、その主島は東から地之大島・三王島・沖之大島の三島、ただし、人が住むのは西の沖之大島(大島本島)のみで、あとの二島は「神の島」の観があります。もっとも、寛文二年(一六六二)に「開島」される前の大島の歴史をいえば、かつて朝廷を震撼させた天慶の乱(九三九~九四一)の主役・藤原純友の支塞が地之大島にありましたから、純友にとっての「神の島」は三王島に限られましょうし、これは、現在の島民の信仰にとっても変わらないようです。
「島から昇り、三王島に沈む太陽は神秘性を秘め、人々に神の宿りを信仰させた」──、これは、山本巌「大島の歴史と信仰」の書き出しのことばですが(『八幡濱史談』第三七号所収)、三王島の信仰的特異性をよく表現しています。
『八幡浜市誌』をはじめ山本氏もそろって指摘するところですが、三王島には大島「開島以前の古社」とされる山王神社があります(現地の石碑は「三王神社」と刻む)。市誌の記載を読んでみます。

大島【三王島─三王神社】
▲三王神社

山王神社(大島三王島)
主祭神 市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命・須瀬理姫命・大物主神・木花開那[ママ]姫命・綿津見神
例 祭 旧六月初申の日
建造物 本殿・拝殿・鳥居・石灯籠
由緒・沿革 勧請年代は不詳である。開島以前の古社であり、棟札などによると一五七二(元亀三)年に修造、一七三九(元文四)年に再建、一八一二(文化九)年に再建されたといわれる。

 神社境内の「三王神社再建」石碑(裏)の「三王神社由来記」も、ほぼ同内容の沿革記事を刻んでいますが、島名・社号に共通してみられる「三王」は、どうやら三女神(市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命)に由来するようです。このことは、石碑(表)の筆頭祭神に「三女神(市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命)」と刻んでいることに表れてもいますが、しかし、石碑祭神をよくよくみますと、市誌の記載とは微妙に異なる祭神名が刻まれていることに気づきます。それは、「須瀬理姫命」ではなく「瀬理姫神」と石碑に刻まれていることです。

大島◆【三王島─三王神社─再建碑─由来記】

大島【三王島─三王神社─再建碑─瀬理姫神】
▲三王神社石碑

 主祭神に配祀されている筆頭神に、この「瀬理姫神」があり、「大物主神」がつづきます。
 山本氏の先の論考の副題を含めたタイトルは、「大島の歴史と信仰──“太陽神信仰”と『大島の伝説』」とされるも、氏は「太陽神」への直接的な言及は避けています。しかし、その書き出しや副題をみるかぎり、大島(三王島)には秘された太陽神がいるだろうことを示唆・暗示しています。
 このことをもう少し際立たせてみます。
 江戸期、大島の「開島」あとの元文元年(一七三六)、沖之大島(大島本島)にまつられた神社に「若宮神社」があります。市誌によれば、その主祭神は「天児屋根命・太玉神・手力雄命・天宇受女命」とされます。大島の全島民が氏子といわれる若宮神社ですが、島民の生活とは交差しようもない神々の名が並んでいます。しかし、記紀神話を想起するならば、これらが、岩戸隠れした天照大神を岩窟から引っ張り出すのに活躍した神々であったことに気づきます。

大島【若宮神社】
▲若宮神社

 大島開島以前の古社である三王神社の石碑「三王神社由来記」には、祭神は「大島の海の守護神」また「安産の神」とも刻まれています。島民にとって、若宮神社の神々よりも三王神社のそれに、生活に根ざす信仰がより深くあるだろうことはいうまでもありません。この古社に対して新たに創建されたがゆえに「若宮」を名乗ったとみられ、その祭神表示には、専門神職の思惑が働いているだろうと想像するしかないようです。その上で指摘できるのは、大島の神まつりには、岩窟から出てきたはずの「天照大神」がどこにも存在しないということです。
 山本氏が論考の巻頭で「三王島に沈む太陽は神秘性を秘め」と記していたことを受けますと、三王神社の配祀神に、「瀬理姫神」とともに「大物主神」という秘められた男系太陽神がいたことは重要にみえます。三輪山伝説はつとに知られるところですが、大物主神の本身が蛇体(大蛇)であったこととおそらく無縁ではない、大蛇(龍神・龍王)伝説を色濃く伝えるのが大島でもあります。

大島【三王島+大島】
▲三王島(左の小島)と大島(右)

 以下に、大島に伝わる龍神伝説を、山本論考から引用します。

 いつのころか、五反田保安寺裏の小池に男の龍神が住んでいた。成長するにつれ池が小さくなり、何処かへ居を移したいと考えていたが、大島の大入池に目をつけた。ある日、龍神は娘に化身し、舌間の海岸に出た。一人の貧乏な漁師が通りかかった。親切な漁師は、龍の化身の娘が大島に渡りたいと話すと、快く引き受け船を漕ぎ出した。船は今にも沈みそうに重く、やっとの事で大島に着くことが出来た。船から下りる時龍神は身の上を打ち明け、お礼として「わたしの事を誰にも話さなければ、この船はいつも大漁にする」と告げて別れた。それから、この漁師は大漁続きで大分分限者になった。ところが人に問い詰められるままに、龍神渡海の事を話したので、たちまち不漁続きとなり、またもとの貧乏な漁師に戻ったという。

【仙井山保安寺】
▲仙井山保安寺

 大島における龍神伝説は八幡浜・五反田村の「保安寺裏の小池」からはじまります。引用の伝説だけを読みますと、さして面白みもない話ですが、「男の龍神」には「女の龍神」がつきものというべきか、次の伝説が加味されて話は展開します。

 三瓶町周木にある池の浦は、大きな池であった。この池にもいつのころからか、女の龍神が住んでいた。大島の大入池と池の浦は、海をはさんで真向かいにあり、呼べば応えるほどの近距離である。やがて男女の龍神の互いに思い合う心は一つになり、ついに、女の龍神がある夜美しい娘に化身し、漁師に渡してもらい、大入池に入ったのである。以来両龍神は大入池の主となり、仲良くここに住んでいるという。

 男の龍神には連れ添いの女龍神ができ、二龍神の安住の地(池)として「大島の大入池」が語られます。この大入池は、大島のなかの「地之大島(地大島とも)」に実在する池で、異称は龍神ゆかりの「龍王池」ともいわれます。
 龍王池(大入池)の前には龍王神社がまつられ、市誌によれば、その祭神は「闇御津羽神」、「勧請年代は不詳」とされ、祭神が男女龍神に対応していないところが、まさに「伝説」の域を出ない伝説話かともおもわせます。
 しかし、大島の龍神伝説の根幹には、引用とは別に雨乞い伝説があるようで、伝説の結部は、次のような話でしめくくられます。

 大入池に入った龍神は、かって育ててもらった保安寺に対して、いつも恩を感じていた。そのお礼として、保安寺の住職が雨乞いをする時は、七日間の断食の上、大島へ渡り祈願すると、どんな干ばつでもたちまち雨を降らせてやる事を、一世三度に限り約束した。以来、数回の雨乞いに雨の降らぬ事は一度もなく、保安寺の雨乞いは、この地方の人々に信頼されてきた。

 鶴ならぬ龍神の恩返しは、ここでは保安寺の雨乞い譚を陰でサポートしていたと読めますが、ここで神仏習合の観点からいいますと、龍神と習合する「神」に対する忘却の度合いに応じて、伝説はより伝説化される法則を指摘すべきかもしれません。
 大島在住の松本竜子氏は、平成十八年八月八~十日の三回にわたって『八幡浜新聞』に「大島の龍神伝説」を寄稿しています。このなかに、佐多岬・三崎町の龍神異聞として、大島の龍神は三崎町井野浦地区の阿弥陀池に住まいを移そうとしたが住民から断られ、やむなく大島に帰ってきたという逸話が紹介されています。松本氏は、「大島の龍王池に帰った龍神は夫婦龍として、仲良く池畔にその影を映し島人や宇和海の守護神として尊崇されている」と逸話を結んでいますが、この「宇和海の守護神」とみなされる龍神の神徳は、三王神社の「大島の海の守護神」という神徳と重なります。
 大島の海(宇和海)の守護神として、龍王池の龍神と三王神社の神がともに語られることが意味するのは、両神の秘められた習合関係の存在でしょう。では、三王神社にまつられるどの神と龍神は習合関係をもっているのかという問いとなりますが、これについては、大島の外にまで伝承・伝説探索の視野を広げてみることが必要のようです。
 ところで、この新聞連載記事において、「神」は龍神から八大龍王へと変身するさまが書かれるも、その初源(の神)に遡及されることがないのは、おそらく「龍神の生地と伝えられる仙井山保安寺」との筆者の認識が示すように、大島の龍神伝説は保安寺からはじまることを伝説考証の前提としているからなのでしょう。
 しかし、大島の龍神伝説は、保安寺からはじまるのではなく、保安寺に至るまでのもう一つの龍神伝説の過程があってこそ誕生したものでした。その「もう一つの伝説」にこそ、大島の龍神と習合する初源の「神」の名がみられるのは重要です。
 大島の龍神伝説は現在、龍神・八大龍王の伝説として語られるのみで、同島の神まつりとクロスする道筋を浮かびあがらせるのは容易ではありません。これは、地之大島(地大島)の龍王神社と三王島の三王神社の祭祀が、あたかも無縁であるかのごとくにそれぞれ独立してみえることとも関わっています。

大島【地大島─龍王神社Ⅰ】

大島【地大島─龍王神社Ⅱ】

大島【地大島─龍王神社Ⅲ+龍王池】
▲龍王神社と龍王池

 ところで、龍王池(大入池)のある島は、大島(本島)に対して地之大島(地大島)と「地」をあえて冠省して呼ばれています。この「地」の意味は、江戸期に開島された大島に対して、藤原純友伝承にみられるように、開島が古く先行するものであったことを示す命名でしょう。また、このことを神まつりの視点からいいかえれば、地之大島(地大島)には大島全島の「地」の神(先住神)が存在し、それが龍神・龍王と信仰されたきたものともみられます。全島が「神の島」(神域)とされる三王島ですが、この島神は、龍神・龍王とともに、「大島の海(宇和海)の守護神」とみなされていることから、三王神社には、龍神・龍王と習合していた神も、ともにまつられているはずでしょう。
 神は仏や仏教の守護神(大島では龍神・龍王)と長く習合・一体化し、明治期のことですが、今度は神と仏の強制分離がなされます。そこで分離されてはじまる神まつりが、元の神の祭祀の復元を果たしているかといえば、それはほとんど稀で、多くは「神の変質」「神の差し替え」がなされて現在に至っています。これは、龍王神社の現祭神が「闇御津羽神」とされることに象徴されますが、島の人々はただ「龍神さん」と親称してきたもので、この龍神・龍王と習合していた神を「闇御津羽神」と人々が認識してきたものではないでしょう。
 龍王池にまつられる龍王神社の古い石柱には「八幡濱龍神」と刻まれています。大島(地之大島・地大島)の龍神・龍王は八幡浜のそれであるという認識が、この石柱の建立者にはありました。

大島【地大島─龍王神社Ⅳ─八幡浜龍神】
▲八幡龍神

 八幡浜の郷土史研究者・菊池住幸氏の著の一つに『やわたはま龍王傳説』があります。氏の探索は当然ながら大島にまで及んでいますが、本書の最大の特徴は、八幡浜の「龍神発祥の地」を仙井山保安寺とすることなく、龍神伝説発祥の初源(地)が語られていることです。大島の龍神伝説は、この八幡浜のそれから派生し、より伝説化されたものですが、以下に、「もう一つの龍神伝説」を紹介します。

 昔むかしの事です。千丈鳴滝の近くに、胎宝院様という若くて偉い方が住んでおられました。
 或る日の事です、胎宝院様が滝の近くを通ると、それはそれは美しい一人の姫に会われました。その美しさに心を奪われた胎宝院様は、次の日も又、次の日も滝の姫に逢いに行かれました。姫の名は「瀬織津姫[せおりつひめ](比賣[ひめ])」と云い、まもなく二人は結ばれ幸な日々を送り、やがて姫は身ごもりました。

 現在「千丈鳴滝」(通称は「鳴滝」)は林道によって分断され、また水量も減り、その「千丈」の滝の景観は過去のもので今は想像するしかありませんが、これは現存する滝です。その「滝の姫」として瀬織津姫神の名が刻まれています。
 徳の高い「胎宝院様」は修験者・仏教徒の一人でしょうが、彼と滝姫神の交合・婚姻に、すでに神仏習合の傾向が比喩されています。瀬織津姫の懐妊のその後は、次のように語られます。

 いよいよ臨月の時、姫は胎宝院様へ不思議な約束をさせました。それは「私に子供が生まれても、どうか室[へや]には入らないで下さい。」と申すのです。生まれたはずの赤子の顔さえ見れぬ、泣き声さえ聞こえぬ姫の室への不審は募るばかりです。とうとうある夜、そっと姫の室を覗いた胎宝院様は肝を潰さんばかりに驚きました。室には姫の姿はなく、一匹の大きな紅い蛇が盥をかかえ、中に居る数拾匹の蛇の子と戯れているではありませんか。実は、姫とは鳴滝の精霊で、蛇の化身だったのです。正体を知られた姫は、最早胎宝院様のそばに居る訳にはまいりません。翌朝、姫は悲しげに胎宝院様に別れを告げ滝に帰って行きました。滝に帰った姫の悲しみは一方ではありません。遂に姫は胎宝院様への想いを断つべく鳴滝を去る決心をします。滝壺には雌渕[めんぶち]という蛇の抜穴があり、郷川へと続いていたのです。

 姫(瀬織津姫)は「鳴滝の精霊で、蛇の化身だった」と明かされ、この「蛇」の転身のドラマが伝説の基調をつくります。鳴滝には郷川へとつづく「蛇の抜穴」があったとありますが、「郷川」は現在の千丈川の上流部の名称です。以下、流浪する「蛇」の伝説物語がつづきます。

 この郷川に出た蛇は千丈川を下ります。松尾川では暫し佇み滝の山を仰ぎ、郷里[ふるさと]へ胎宝院様へ、最後の名残りをおしみます。(この場所は鳴滝神社からは鬼門の方角に当り、小さな祠が祭ってある。)北茅、南茅の川を下り、五反田川を少し上り、川沿いにある保安寺の庭の池でしばらく住んでいたといいます。〔中略〕
 成長するにつれて寺の池がだんだん狭くなって来ました。或る日、寺の和尚はやさしく蛇にいいました。「お前は蛇ではなく龍神の子であろう。おまえが安住するによい所がある。」と申され、大島の大入池を教えられました。

 流浪する「蛇」は、「保安寺の庭の池」をしばしの安住の地としますが、だんだん体が大きくなってきて、庭の池では狭くなってきたようです。保安寺の和尚は、「お前は蛇ではなく龍神の子であろう」と見抜き、最後の安住地として「大島の大入池」の存在を教えます。大島の龍神伝説では、保安寺には「男の龍神」がいて大入池(龍王池)へと渡ってきたとされますが、八幡浜の伝説では、「滝の姫」としての「蛇」が語られます。この流浪の蛇姫は「大島の大入池」へと向かうことになります。

 蛇は新しい棲家をめざし海へと旅立ちます。粟野浦~舌間~川名津と海岸の浅瀬を伝いながら、穴井と周木との間にある「池の浦」へと辿り着きました。もうここまで来ると大入池のある大島は間近に迫ります。沖には鮫が屯[たむろ]し、容易に渡る事が出来ませんでした。この池の浦に住む頃の蛇の体のしまは鱗と変り、すっかり小龍神に成長していました。

 保安寺の五反田川から千丈川を下って海に出た蛇姫は、浅瀬の海岸をたどって、大島の真向かいにある「池の浦」へとたどりつき、そこにしばらく住んでいたようです。体はさらに大きくなり「すっかり小龍神に成長していました」とも語られます。大島の龍神伝説では、保安寺の「男の龍神」、池の浦の「女の龍神」、両龍神が渡海して大入池で夫婦の龍神となるという伝説に変わりますが、八幡浜の伝説では、すべて「女の龍神」の話のようです。
 鳴滝の滝姫は蛇体から小龍神へと成長し、ついに大島へ渡ります。その渡海にあたって、善良な漁師の協力を得たことは大島・八幡浜の両伝説で語られるところですが、成長した龍神が雨にまつわる神力(神通力)を身につけることが、八大龍王への変身譚として語られ、伝説はここで終盤を迎えます。伝説の最後は、雨乞いの史実の匂いを残して結ばれます。

 大入池に移った龍神は天に昇る修行を積みやがて神通力を得、雲を呼び、雨を降らす飛龍、八大龍王の一つ娑伽羅龍王(娑竭羅龍王とも書く)となったのです。龍神は五反田の保安寺に住み大入池を教えてもらった御礼に仙井山保安寺住職は一代の内、三度までは大島の大入池まで雨乞いに参籠すれば、どんな日照り続きの夏でも雨を授ける事を告げ、「雨乞いの寺」「龍神の棲んだ寺」として古くから人々に知られ、藩政時代、宇和島藩からの雨乞いの礼状や記録が現在でも寺に保存されています。

 仙井山保安寺住職は、「大島の大入池まで雨乞いに参籠」するとありますが、この渡海の前段階の雨乞いの行を記していたのも『やわたはま龍王傳説』でした。

 雨乞いの行事が決まると、(保安寺)和尚は先ず鳴滝の水で身を清め「火物断」と称し火を使って料理したものは一切取らず精進潔斎し、寺内に奉る八大龍王の前で七日七晩、昼夜の別なく祈念します。更に「神ヶ森」に登り遙か大島大入池を拝します。

 保安寺住職(和尚)だけは、大入池の龍神(八大龍王)誕生の故地である「鳴滝」を忘れていないことが伝わってきます。「先ず鳴滝の水で身を清め」るという行為から、鳴滝の滝姫(鳴滝の精霊)である瀬織津姫神が禊神としてもあることをよくよく認識していたものと想像されます。『やわたはま龍王傳説』の最後には、著者・菊池氏による八幡浜の龍神伝説の「まとめ」のことばが読めます。

 龍神発祥の地「鳴滝」は土地の人からは「鳴滝様」といって親しまれ、遠い昔より水が涸れた事がなく、滝をすべる水は龍の形に似て、落ちる水はあたかも龍が吼えるが如く林に響き渡っています。全国で唯一ヶ所「瀬織津姫(比賣)」を奉るこの神社は、善男・善女を引き逢す縁結びの神でもあり、瀬織津とは速い流れの水の意味で、諸々の悩み、汚れを大海原に早く押し流すと云う悩みを解消する神であり、また子供に恵まれない夫婦にとっては、胎宝院様は子授けに御利益ありとされ、「胎宝」の字の如く健康な母胎で安産必定、子宝に恵まれ子孫繁栄、世はまさに万々歳であります。
 縁を結び、子宝を授け、海の幸、山の幸を人々にもたらし、護国豊饒、この霊験灼[あらた]かなる龍王の功徳は大きく真に計り知れないものがあります。

 京都の貴船神社─橋姫神社の伝承では、瀬織津姫神は「縁切りの神」とみなされていましたが、八幡浜の千丈鳴滝(鳴滝神社)では逆で、ここでは「善男・善女を引き逢す縁結びの神」とされます。引用の最後にみられる、龍王と化した瀬織津姫神のもつ神徳(功徳)の数々に、わたしも同意するものです。
 ところで、地之大島(地大島)の東端には、へその緒のような砂洲でつながっている小島があります。名は貝付小島といいます。この小島を対岸(三瓶町・四国本土)から望見しますと、そこには白い灯台が設置されていて、もし灯台がなければ、たしかに夜の闇の海では、この小島は航海するに危険な障害物と化すにちがいありません。日中の景観美は、夜には危険な表情に一変するとおもわれます。

大島【地大島─貝付小島】
▲貝付小島

大島【地大島─龍王神社分社】

大島◆【地大島─龍王神社+貝付小島】
▲龍王神社分社と貝付小島

 龍王神社は龍王池にまつられるのが本社としますと、この小島を正面に見据えるところに小さな分社が勧請されていて、地之大島(地大島)には龍王神社が二社あるということになります。大島の全体を歩けばまだあるのかもしれませんが、龍王神が航海の守護神とみられているのは、この分社勧請によく表れているといってよいでしょう。
 蛇体から龍神・龍王と変化[へんげ]した「鳴滝の精霊」(滝姫)こと瀬織津姫神でした。八幡浜の龍神・龍王伝説からみえてくるのは、龍王神社の祭神が「闇御津羽神」と現行表示される不自然さです。このクラミヅハノカミという神名は、谷の水神・蛇神といった意味を表すもので、瀬織津姫という滝神との近似的な性格を表してはいるものの、龍王神社に龍神以外で祭神表示するならば、やはり瀬織津姫神がもっとも適切でしょう。
 また、大島の最古社である三王(山王)神社の主祭神とされる三女神(市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命)とも深く関わる瀬織津姫神です。しかし、大島の龍神伝説は、八幡浜のそれとは異なって、「鳴滝の精霊」神を忘却したかたちで語られてきたことが示すように、瀬織津姫という神名を島内に正確に伝えてこなかったことが考えられます。それでも断簡の記憶に基づいたものでしょう、三王神社石碑には「瀬理姫神」の名が刻まれていました。
 日本の神まつりにおいて、最良質の秘神として瀬織津姫という神(の名)はあります。伝説とはいえ、この神の名を伝えてきた八幡浜の信仰土壌は軽視できないものがあります。八幡浜の龍王伝説は、瀬織津姫神の祭祀空間として、千丈鳴滝あるいは鳴滝神社の存在を教えてくれています。
 ただし、『八幡浜市誌』は、山王神社や龍王神社の記事は載せても、鳴滝神社のそれを紹介しておらず、関係記事は、次の一つに限られるようです。

松柏[まつかや]神社(松柏野中)
主祭神 龍神・瀬織津媛・伊邪那岐命・伊邪那美命・闇靇神・句句廼馳命・保食神・田心姫命・湍津姫命・市杵嶋姫命・天忍穂耳尊・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野橡日命
例 祭 四月一九日
建造物 本殿・拝殿・鳥居・狛犬・灯籠
由緒・沿革 一九一〇(明治四三)年四月八日に、千丈村の鳴滝神社(松尾)、白王神社(松柏)、貴船神社(松柏)、榎田神社(古谷)、八王子神社(松柏)を合併、翌年の一九一一(明治四四)年五月二〇日に鳴滝神社へ他の四社を奉遷して松柏神社と改称した。

 市誌の記事からは各社の「由緒」は不明であるものの、松柏神社成立の「沿革」だけはわかります。それにしても、明治期末の神社合祀の猛威は全国的なもので、八幡浜も例外ではなかったことがよく伝わってきます。しかし、この短い沿革記事からみえてくることが、少なくとも二つはあるようです。
 一つは、鳴滝神社祭神として、「龍神・瀬織津媛」があるらしいこと、もう一つは、「鳴滝神社へ他の四社を奉遷」とあるように、この地区の中心社・重要社として鳴滝神社はあったということです。
 市誌は、鳴滝神社に各社を合祀し、社号を松柏神社と改めたと書いていましたので、その松柏神社を訪ねてみました。ここから少しミステリアスな話となりますが、当該地区には松柏神社はみあたらず、土地の人に尋ねても、そんな神社は聞いたことがないという答えばかりです。消えた(?)松柏神社を探し出すために半日近く時間をとられましたが、結論からいえば、松柏神社の社号表示はどこにもないものの、鳴滝神社に「奉遷」されたはずの白王神社が松柏神社のことでした。
 市誌の記載はあくまで登録上のことだったようで、現地には、合祀されたはずの白王神社や貴船神社は健在で(ほかは未確認)、鳴滝神社も同じくでした。鳴滝神社には、そのご神体というべき「千丈鳴滝」という滝がありますから、こちらは行方知れずということはありません。
 千丈もあろうかというかつての滝は林道によって分断されてしまいましたが、しかし、この林道のおかげで、神社近くまで車で行くことができます。ただし、林道を車で登ってゆくにしてもかなりで、神社は想像以上に高いところにまつられています。つまり、滝の落ち口(銚子口)近くに社殿が建立されていて、林道がなければ、ここは秘境の滝、あるいは秘境の神社だったといえます。

鳴滝神社【旧参道】

鳴滝神社【旧参道Ⅱ】

鳴滝神社【拝殿】

鳴滝神社【本殿】

鳴滝神社【神体─鳴滝】
▲鳴滝神社と鳴滝

「八幡浜龍神」の発祥地は、人里から隔絶したような山奥(の滝)にあります。市誌からは鳴滝神社の由緒はみえませんでしたが、『愛媛県神社誌』の松柏神社の項に、次のように記されています。

鳴滝神社
 夜昼峠は夜昼を辨ぜぬ森林で老松繁茂し、その麓を松尾と呼び、山中に飛瀑がある。瀑水は千丈の上から落下し瀑渕となってその深さ幾十尋か知れず、瀑音は破鐘の響をもって数十町に聞え、鳴瀧と名付けられている。深渕に洞穴があり、此の瀑渕に雌雄の大蛇が棲み人畜を害したので、八幡宮の神主清家平太夫の祈禱で、大蛇は真穴村の大島の池に去り、清家平太夫は蛇霊に、後年瀬織津姫神を合祀して鳴禱明神と称え、産土神として奉斎した。真穴村の大島の池には、大蛇の子孫今も存在すると云う。

 由緒内容は戦前に書かれたものという印象を受けますが、往時、鳴滝が尋常ならざる滝であったことが活写されています。
 それにしても、神社側(神道)が作成する由緒においては、そこに「大蛇」は登場しても「龍神」が語られることはないようです。「大島の池」へと放逐されたのはあくまで「大蛇」だと語られます。しかし、現地の池畔には龍王神社が、あるいは龍神・龍王が人々の信仰の対象となっています。これは、八幡浜の龍神伝説にみられる保安寺の存在、つまり、仏教側の大蛇解釈が優先されて人々に受容されていることを示しています。
 由緒には、「瀑渕に雌雄の大蛇が棲み人畜を害した」とあります。大蛇が破壊・悪のイメージで語られるのは、記紀神話の八岐大蛇を濫觴とみてよいですが、この悪イメージは、先住神の「荒ぶる心」を神話的に表現したものでしょうし、現象的あるいは象徴的には「洪水」イメージが付着しています。
 鳴滝の大蛇の大島への放逐は「八幡宮の神主清家平太夫の祈禱」によるものでした。神主はさらに、「蛇霊」に瀬織津姫神を「合祀」して産土神と崇めたとあります。これは、瀬織津姫神によって大蛇(先住神)の荒ぶる心を鎮めたということでしょうが、わたしがここで感心するのは、八幡宮の神主は、神道世界では禁忌[タブー]の筆頭神ともいえる瀬織津姫という神をよくここにまつったなということです。
 瀬織津姫をまつることで、先住神あるいは大蛇の荒ぶる心はなぜ鎮まるのか──。こういった問い立てをしてみますと、日本の大蛇伝説のルーツともいえる出雲の八岐大蛇と瀬織津姫神が深く関わっていたことが想起されてもきます。あくまで討伐すべき対象として大蛇を描くことはしても、決して龍神を登場させなかった記紀神話でした。神話上、スサノオによって討伐された八岐大蛇の尾から取り出された神剣(のちの草薙剣、三種の神器の一つ)に憑依する神として、天照大神荒魂こと瀬織津姫神はありました。この神剣をまつる熱田神宮の禁足地(本殿斜め背後)に、この神が今も秘祭されていることはなにごとかです(菊池展明『円空と瀬織津姫』下巻)。
 出雲においては、斐伊川源流部の船通山・鳥上滝の滝壺が八岐大蛇の棲家とされ、これは鳴滝も同様です。鳴滝の「雌雄の大蛇」は大島へ去ったと書かれていましたが、同島の三王神社には、大物主神という男系の蛇体神(日神)がまつられています。
 八幡浜の龍王伝説は、女系の蛇体神(月神・水神に相当)を龍神・龍王へと昇華させ、明治期以降は龍王神社の「神」となります。
「八幡浜龍神」の伝説発祥地とされる鳴滝神社ですが、市誌や神社誌によれば、同社の筆頭祭神は「龍神」で、この龍神と習合あるいは「合祀」された神として瀬織津姫神の名があります。仏教の守護神といった神格にこだわらなければ、龍神もれっきとした「神」ということなのでしょう。
 伝説が語るように、瀬織津姫は「滝の姫」(滝の精霊)の意をもつ神名で、この滝姫・滝神といった神格は三王神社主祭神の三女神の一神・湍津姫のものでもあります。実際、湍津姫の代わりに瀬織津姫の名で三女神をまつる神社祭祀も各地にみられ、この三女神は八幡祭祀においては比売大神と同体とされますから、八幡宮神主が、自社祭祀に瀬織津姫神が深く関わっていることを知らなかったはずはありません。
 鳴滝神社の由緒文は短いものですが、しかし紙背から、鳴滝の滝神として瀬織津姫神をここにあえてまつった、当時の八幡宮神主・清家平太夫の勇気と良心は読み取ることができます。

八幡浜八幡神社【社頭】

八幡浜八幡神社【八幡浜地名由来記】

0623◆八幡浜八幡神社【拝殿】0036

八幡浜八幡神社【本殿】
▲八幡浜・八幡神社

 この清家神主が代々奉仕する八幡神社ですが、その創祀は養老元年(七一七)とされます。同社境内の石碑「八幡濱地名由来記」は、「当神社ノ御祭神ハ八幡大神(ヤハタノオホカミ)ナリ」と、応神八幡[はちまん]の祭祀が展開する前の呼称を唱っています。また、由緒記(「総鎮守八幡神社御由緒記」)は、宇佐神宮は当社の分霊をまつるもので、「宇佐神宮の御本源」として当社があることを複数の史料とともに明かしています。宇佐神宮の前に、「八幡大神」の本源祭祀に関わっていた清家神主家でした。
『愛媛県神社誌』は、八幡神社の境内社に龍王神社があることを記載しています。しかし、その祭神は「龍神・罔象女神」とされ、かつての清家神主がもっていた認識・見識は、鳴滝神社(の由緒)に残存するのみのようです。
 大分県中津市の闇無浜神社は、豊日別宮・龍王宮・太神龍宮などの異称をもっています。同社主祭神の瀬織津姫神について、社伝は「中津に垂迹の時、白龍の形に現じ給ふに依りて、太神龍[たいしんりゆう]と称し奉るなり」と、瀬織津姫神の顕現の姿を「白龍」とし、ゆえに「太神龍」(大いなる神龍・龍神)と尊称するとしています。
 水と龍が合体して「瀧」の字は構成されますが、滝神である瀬織津姫神が「龍」の姿で顕現することは、もっと積極的に認めてよいのかもしれません。

【大島全景─対岸・須崎観音から】
▲大島全景(対岸の須崎観音から)
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