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天女の行方──六角牛神社と綾織・光明寺伝説

平泉・達谷窟の弁財天女
▲平泉・達谷窟の弁財天女

 六角牛山の天女(天人児)伝説には、二つの後日譚があるようだ。『遠野物語拾遺』第三話の末尾に、それは暗示されているといってよいかもしれない。天女が天へ帰る羽衣を取り戻すために、手自ら織った「曼荼羅」と、水浴をしていて羽衣を盗まれたという池(沼)の神にまつわる話である。

曼荼羅は後に今の綾織村の光明寺に納めた。綾織という村の名もこれから始まった。七つの沼も今はなくなって、そこにはただ、沼の御前[ごぜん]という神がまつられている。

 沼は六角牛山からの伏流水の湧出によってできたものだろう。第三話は「七つの沼も今はなくなって」と書いていたが、第四十三話には、そうではないらしい話が書かれている。

 青笹村の御前の沼は今でもあって、やや白い色を帯びた水が湧くという。先年この水を風呂にわかして多くの病人を入湯せしめた者がある。たいへんよく効くというので、毎日参詣人が引きもきらなかった。この評判があまりに高くなったので、遠野から巡査が行って咎[とが]め、傍にある小さな祠まで足蹴[あしげ]にし、さんざんに踏みにじって帰った。するとその男は帰る途中で手足の自由が利かなくなり、家に帰るとそのまま死んだ。またその家内の者たちも病気にかかり、死んだ者もあったということである。これは明治の初め頃の話らしく思われる。

 読み飛ばすには穏やかでない話が書かれている。天あるいは六角牛山へ帰っていなくなった天女の代替のようにしてまつられた「沼の御前という神」(水神)だったが、それが「多くの病人」を救う神徳をもつ一方で、たとえ「巡査」という公権力であろうとも、神への不遜行為がなされたときは強烈な怒りを発するという劇的な変貌が暗示的に書かれている。「これは明治の初め頃の話らしく思われる」とは、柳田國男の所感だが、「明治の初め頃」という推定が、話をよりリアルなものにしている。明治期初頭には、皇国(天皇の国家)の神まつりにふさわしくない庶民の神々は邪神・淫神とみなされ、政府による廃神意図の猛威が全国に荒れまくっていたといってよく、そういった国家の神祇策を、遠野郷の現場末端で体現していたのが、物語における「巡査」だった。
 ところで、六角牛山の山神をまつる社として、六神石神社と六角牛神社がある。六神石と六角牛はともに「ろっこうし」と訓むが、しかし、両社には、その祭祀姿勢に大きなちがいがある。

六神石神社【社頭】
▲六神石神社【社頭】

六神石神社【大瀧神社─社殿】
▲太瀧神社(六神石神社本殿の真裏にまつられる)

 六神石神社は、由緒に「大同二年(八〇七)時の征夷大将軍坂上田村麻呂、蝦夷地平定のため蒼生の心伏を願い、神仏の崇拝をすすむ。時に六角牛山頂に薬師如来、山麓に不動明王、住吉三神を祀る」としている(『岩手県神社名鑑』)。しかし、江戸期の宝暦九年(一七五九)、盛岡藩による社堂調べの記録『御領分社堂』には、六角牛山大権現の項に、別当は「真言宗善応寺」、「縁起無之、但開基大同年中ト申伝候」とあり、時代がだいぶ下った昭和十四年の『岩手県神社事務提要』(岩手県神職会)においては、同社祭神を「大己貴命、誉田別命」としている。田村麻呂が住吉三神ほかをまつったとする現行の由緒がつくられるのは、昭和十四年以降、あるいは戦後という可能性さえあるのである。
 この六神石神社の本殿の真裏には太瀧神社がまつられているが、そこの説明板には、「大同年間坂上田村麻呂将軍が六角牛山麓に祀られたのがはじまりと云われ、祭神は日本武尊[やまとたけるのみこと]で、昔は不動明王と云い、お不動様と親しまれて来た」などと書かれている。太瀧神が「お不動様と親しまれて来た」ことは事実だろうが、その「お不動様」と習合する滝神を「日本武尊」とする不自然さは目に余る。

六角牛神社【社頭】
▲六角牛神社【社頭】

六角牛神社【拝殿】
▲六角牛神社【拝殿】

六角牛神社【社殿─六角牛山】
▲社殿から六角牛山を望む

 もう一方の六角牛神社は小さな社だが、ここは六神石神社とはちがい、社殿を拝む先には六角牛山が聳えている。つまり、山岳信仰の基本的な姿がここには認められる。境内の「記念碑」と題された石碑の文面を読んでみる。

 六角牛山は、太古より遠野郷三山の三姉妹の大姉神が鎮座せられる御山で、現在此の社にはふくよかな薬師如来立像、脇士に飛天が御祀りされてあります。
 昔、私達の先祖が御山に様々な祈願を致しましたが、現在も同じく、時代を越え、子子孫孫まで未来永劫、六角牛山の美しい山霊に敬神の心を捧げ、昭和六十二年十月吉日社殿を再建し記念として神前に此の碑を建立するものであります。

 六神石神社の祭祀からはみえてこなかった六角牛山の天女(天人児)は、ここ六角牛神社においては「飛天」の名でまつられている。「六角牛山の美しい山霊」が、ここではくっきりと信仰の対象となっている。「遠野郷三山の三姉妹」の母神として瀬織津姫神があり(上郷町来内・伊豆神社)、その瀬織津姫(不動尊を本地とする滝神でもある)の分神(子神)が、この小さな社において大切にされている。六神石神社とはあまりに対照的である。
 別当の小水内氏の案内で内陣を拝見させていただいたところ、そこにはなぜか薬師如来はみあたらないものの、内陣奥に飛天(天女)像がまつられている。その像姿は、神遣[かみわかれ]神社の三女神石像の一神(六角牛山の女神像)と同系のようだ。

六角牛神社【神体─女神像】
▲六角牛神社の飛天(天女)像

神遣神社【三女神─石像】
▲神遣神社の三女神石像(向かって右が六角牛山の女神像)

 さて、六角牛山の天女(天人児)が織った「曼荼羅」は、「今の綾織村の光明寺に納めた。綾織という村の名もこれから始まった」としていたのは『遠野物語拾遺』第三話だったが、それとの関連話としてある、第四話も読んでみる。

 綾織の村の方でも、昔この土地に天人が天降[あまくだ]って、綾を織ったという言い伝えが別にあり、光明寺にはその綾の切れが残っているという。あるいはまた光明寺でない某寺には、天人の織ったという曼荼羅を持ち伝えているという話もある。

 遠野郷における天女伝説は、天女が自ら織った織物(「曼荼羅」「綾の切れ」)が実在しているとする。伝説をただの伝説に終わらせないとするのは、遠野物語の全体的傾向でもある。

光明寺【寺頭】
▲光明寺

 拾遺の第三話・第四話に共通して出てくるのが綾織の「光明寺」である。同寺は、曹洞宗の寺で、正確には照牛山光明寺という。いただいた案内によると、曹洞宗・照牛山光明寺としての開創は永禄三年(一五六〇)だが、本尊・釈迦牟尼仏の脇本尊とされる阿弥陀如来立像(遠野市文化財)は室町時代のものとされ、また『善明寺文書』には、金光上人(一二五七年寂)が綾織の光明庵に立ち寄ったという記録があり、草創はかなりさかのぼることが考えられる。
 宗派のことはともかく、かつての光明庵、あるいはその前身となる寺の本尊が阿弥陀如来だったのかもしれない。『いわてのお寺さん──南部沿岸と遠野』(テレビ岩手事業部)によれば、この阿弥陀如来は、永禄三年の光明寺開創時、廃寺跡の土中より掘り出されたもので、光明寺本尊・釈迦牟尼仏の「裏本尊」として祀ったとされる。現在は「脇本尊」といっているが、いずれにしても、光明寺との仏縁の深さを伝えている阿弥陀如来である。

光明寺【お曼荼羅】
▲お曼荼羅

 光明寺へうかがえば、この天女伝説ゆかりの「曼荼羅」を見せてもらえる。案内「お曼荼羅と地名『綾織』の由来」には、次のように書かれている。

 この《お曼荼羅》光明寺に伝わった経緯は詳らかではないが、光明寺に伝わる伝説によれば、その昔、天女(天人児=てんにんこ)が天から舞い降りて来て、猿ヶ石川の御前淵で羽衣を岸辺の松の枝に掛けて水浴をしていたとき、そこを通りかかった猟師が見つけて、その羽衣を遠野の街に持って行き商人に売り、その代価で酒を飲み、良い機嫌で帰ってきた。
 一方、羽衣がなくなったことに気がついた天女は、猟師を待ちうけて「あの羽衣がなければ私は天に舞い戻ることができません。どうか返して下さい」と猟師に頼みました。それを聞いた猟師は大変気の毒なことをしてしまったと思いましたが、羽衣を売ったお金で酒を飲んでしまい、羽衣を買い戻すことができず、ただ謝るばかりでした。
 そこで天女は「それでは羽衣よりも立派な織物を織りますから、それと羽衣を取り替えてもらって下さい」といい、それから天女は蓮沢の沼(今の長岡部落にある地名、蓮沢という屋号の家もある)の蓮から糸をつむぎ、川向いに平屋(今も向部落の駒形神社の手前に平屋という屋号の家がある)を建ててもらい、そこで機織りをして立派な織物を織って猟師に託しました。
 猟師は早速それを遠野の商人のところへ持って行き、羽衣と取り替えて天女に返しました。天女は喜んでその羽衣を身に着けて天に舞い戻ったといいます。
 その時に天女が織ったという織物が、今ここに伝わる《お曼荼羅》です。この織物が生地に斜めの線が入った「あやおり=綾織」であったことから、現在の地名「綾織」が生まれたと伝えられています。

 この話は「光明寺に伝わる伝説」とあり、仮に物語拾遺に全文が採録されていたとしてもおかしくないかもしれない。この伝説は「綾織」の地名譚ばかりでなく、地元の屋号とも関連づけられ、より緻密なリアリティーを伝えている。その意味で、伝説としては完結の円環を閉じようとしている。
 ところで、光明寺へうかがって興味深いとおもえるのは、この寺が南面ではなく東面していることだ。つまり、東に聳える六角牛山と対面するように建立されている。山と寺を結ぶ東西のラインを考えると、想起されるのは、六角牛山には薬師如来がまつられていたことだ。とすると、光明寺からみて、六角牛山(の彼方)は薬師如来の浄土(東方浄土)ということになる。さらにいえば、光明寺の前身本尊は阿弥陀如来だったから、六角牛山からみれば、光明寺(の彼方)は阿弥陀如来の浄土(西方浄土)ということにもなる。これら東西の浄土を結ぶようにして天女伝説が存在していると仮定してみると、地上の束縛とは無縁の天女、それを象徴する自在な飛行姿も想像されてくる。
 曼荼羅の織物の上には、優美な天女像が描かれた額が架けられている。その横には、次のような解説が書かれている。

天女のいわれ
 天女とは、天上界に住み、仏を守りたたえる天人のことで、空中に舞うことから飛天ともいいます。絵画として描かれるようになったのは、中国の唐時代のことで、今から一四〇〇年前に敦煌壁画に見られます。これは、かつての中国の首都・西安よりさらに奥地に入ったところにあるシルクロードの敦煌・莫高窟の一一二窟に描かれている「舞楽図」の一部です。平成十二年に住職が敦煌をたずねた時に、保存のため写真撮影が一切禁止されているため現地の絵師に正確に模写をしていただいたものです。
 敦煌・莫高窟の壁画には、この外にも多くの飛天が描かれていますが、この飛天の絵像が遣唐使や遣隋使などにより、日本の法隆寺に伝わり、各地の羽衣伝説の主人公になったと思われます。

光明寺【敦煌・舞楽図】
▲敦煌壁画の天女図(模写、光明寺所蔵)

 仏教世界には複数の天女がいるが、この画像の中心にいる天女は琵琶を背にして奏[かな]で、また、これが「舞楽図」の一部とあり、あるいは、日本で最もポピュラーな弁財天女(弁才天女)の原像であるかもしれない。光明寺へうかがう目的が伝説の「お曼荼羅」の拝見にあるにしても、この敦煌壁画の模写絵と対面できるのは、別様の価値があるだろう。
 曹洞宗本山・永平寺の鎮守は白山妙理大権現だが、日本あるいは早池峰・遠野郷には、仏(仏教)の守護神ともなり、白山妙理大権現かつ弁財天女(弁才天女)と深く関わる天女神(水神)が一神いることをあらためておもう。
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