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早池峰信仰圏の措定──奥州藤原氏と新山祭祀

早池峰山と薬師岳【荒川高原から】
▲早池峰山(奥)と薬師岳(前)

 早池峰山(一九一七㍍)は全国的に知られた霊山ではないが、岩手県においては岩手山(二〇三八㍍)に次ぐ高山である。しかし、このローカルな山が全国に誇れる特徴が、ハヤチネウスユキソウなどの稀少な高山植物を有することといった自然とは別に、信仰面において、少なくとも一つある。それは、記紀神話にまったく登場してこないばかりか、伊勢・熊野・白山といった各地霊地・霊山が歴史的に消去せんとしてきた神を、全国で唯一、この早池峰山のみが山神・滝神として今に伝えてきていることだ。
 早池峰山のほぼ東西南北の山麓には、四社の早池峯神社がある。しかし、早池峰大権現こと瀬織津姫神を最初にまつったという自認が、山の南方にあたる遠野郷の早池峯神社にはあり、それが、「本社早池峯神社」というように「本社」を冠省して名乗らせている。
 遠野・早池峯神社は明治のはじめに「社録没収」を蒙り、結果、社格が「村社」とされたわけだが、これは遠野郷の附馬牛[つきもうし]村という一村の社というように限局されたことを意味する。昭和三年の「御大典」にあわせて、社格見直しの名のもとに社格昇格の申請をさせ、あらためて神社の祭神・由緒の洗い出しがなされる。しかし、当局によるこういった隠れ意図はあったものの、早池峯神社を信奉する遠野郷一町九ヶ村の町村長(柳田國男に『遠野物語』の原話を語った佐々木喜善は当時土渕村の村長をしていて、彼の署名もある)は、これを好機として、村社から県社への昇格に向け一丸となり、県内の各町村に対して、早池峯神社の崇敬者がどれくらいいるかの「崇敬者調べ」を依頼している。むろん、全町村がそれに協力的だったはずはないが、それでも、遠野側の依頼に応えた町村は多かった。この「崇敬者調べ」の資料(「証明書」と小題されている)は、「岩手県上閉伊郡附馬牛村鎮座 村社 早池峯神社」の崇敬者数を記入の上「右証明ス」とし、各町村長の署名と公印による捺印という形式で統一し、そして、「早池峰神社昇格申請書」に添付されたのだった。
 昭和三年時点、「岩手県上閉伊郡附馬牛村鎮座 村社 早池峯神社」の崇敬者の分布が、鎮座地の附馬牛村はいうまでもなく、また遠野郷にとどまるものではないことを知る上で、この「右証明ス」とされた各町村の「崇敬者調べ」は、早池峰信仰圏の概要を知る上で資料的価値がある。ただし、崇敬者数の累計は申請書に計算ミスがみられ(これを踏襲した『エミシの国の女神』の崇敬者数もここで正す)、以下、当時、どういった町村が早池峯神社の「崇敬者」を「証明ス」としていたかを、各町村の「証明書」を基に書き出してみる。なお、町村名のあとの括弧内の数字は「崇敬者」数を表すが、これは人数ではなく「戸数」であることを断っておく。

■上閉伊郡……三町十二村 計一〇五三四戸
遠野町(一三〇〇)、綾織村(四二〇)、鱒沢村(三五〇)、小友村(三五〇)、宮守村(五三〇)、松崎村(三五〇)、附馬牛村(三六五)、上郷村(四五〇)、青笹村(三五〇)、土渕村(四五〇)、甲子村(一二〇)、釜石町(三二〇〇)、鵜住居村(三〇〇)、栗橋村(三五二)、大槌町(一六四七)、
■稗貫郡……一町二村 計五八〇戸
八幡村(三八〇)、湯口村(五〇)、花巻川口町(一五〇)
■紫波郡……五村 計一四五二戸
志和村(五〇〇)、赤沢村(五〇)、赤石村(四〇〇)、乙部村(五二)、見前村(四五〇)
■和賀郡……五村 計一三〇〇戸
横川目村(二〇〇)、岩崎村(一五〇)、谷内村(四〇〇)、立花村(二〇〇)、小山田村(三五〇)
■江刺郡……四村 計九八〇戸
米里村(四〇〇)、藤里村(二〇〇)、羽田村(三〇〇)、伊手村(八〇)
■胆沢郡……三村 計七七五戸
佐倉河村(二二〇)、南都田村(一五〇)、古城村(四〇五)
■東磐井郡……六村 計一三四四戸
田河津村(三〇九)、八沢村(三〇)、折壁村(五)、舞川村(三〇〇)、矢越村(四〇〇)、川崎村(三〇〇)
■西磐井郡……二村 計六〇〇戸
日形村(二〇〇)、真滝村(四〇〇)
■気仙郡……十一村 計二二一五戸
広田村(五八)、立根村(二〇)、日頃市村(一三六)、下有住村(二一〇)、世田米村(四五〇)、綾里村(五〇)、上有住村(五二〇)、竹駒村(一九六)、小友村(四〇五)、矢作村(一〇〇)、横田村(七〇)
【四町五〇ヶ村 合計一九七八〇戸】

 遠野郷附馬牛村一村の「村社」の枠を超えて、広範といってよいかとおもうが、崇敬者の県内分布がみられる。ただし、ここに記されていない市郡名にふれておくならば、盛岡市・下閉伊郡・岩手郡・九戸郡・二戸郡の一市四郡となる。これらの市郡は、早池峰山頂を基点としてほぼ東西にラインを引いたとき、その北部地域ということになる。しかし、そこに早池峰信仰がなかったという意味ではない。たとえば、下閉伊[しもへい]郡には、早池峯神社が二社あり、同郡の崇敬者はそこに集約されたものと考えてよいし、西南域の稗貫[ひえぬき]郡にしても、大迫[おおはさま]町内川目に早池峯神社が存在し、資料に表れていない稗貫郡の村々の崇敬者は、こちらの早池峯神社がもっているはずである(『大迫町史』によれば、大正十年時点、一町五村、二二九六戸の崇敬者があったとされる)。
 早池峰信仰圏の北限について私見をいえば、早池峰山(東西に連なる峰々を含む)を水源として、北と東へ流れ出す沢や川がすべて流入する閉伊川の流域をもって区切られるものとおもう。閉伊川本流は、西の区界[くざかい]高原から発して東流し、宮古湾・太平洋に注いでいる。区界という地名は、奥州安倍氏時代(平安持時代後期)の「奥六郡」の一郡である岩手郡(現在は盛岡市)と「奥六郡」外の閉伊郡(現在は下閉伊郡)の境界を指していて、この区界高原の兜明神岳(一〇〇五㍍)には、前九年の役で安倍貞任が早池峰山へ逃げるときに経由した山との伝説がある。兜明神岳の名を負う兜神社には閉伊川の水源神、あるいは、郡界の境界神(関神)がまつられていたとみられるが、昭和十四年の『岩手県神社事務提要』には「祭神不詳」とあってはっきりしない。『川井村郷土誌』には「明治三年其筋の厳達により保食[ウケモチ]神を祭神となせし」云々との証言記録がみえ、ここには「其筋」がよほど表に出したくない神がいるらしい。兜神社は、現祭神について、「品陀和気命(保食大神)」と苦しい表示をしている。
 現在、下閉伊郡の早池峯神社二社の祭祀は、残念ながら盛況とはいえないかもしれない。宮古市小国の早池峯神社、その社殿の佇まいは特に寂しくみえる。同市門馬の早池峯神社は、早池峰山への北の登拝口に、かつ、閉伊川に面してまつられている。閉伊街道から閉伊川を渡る橋は「早池峯橋」、早池峰山への登拝路は「御山川」に沿って設けられているが、この御山川の「御山」が早池峰山を指しているのはいうまでもない。御山川にかかる登拝路の橋は「早池峯宮橋」とあり、登拝信仰の盛んだった面影が、これら二つの橋名にみられるようだ。
 閉伊川流域の下閉伊郡片巣村(当時、現:宮古市片巣)には新山神社もある。これは昭和十四年当時の社号表示で(『岩手県神社事務提要』)、明治期の前は、ここも新山権現で、村の古老たちは、今でも「権現さん」といっている。片巣村のいちばん古い神様で、ご神体は権現様(獅子頭)だという。早池峰大神(権現)が里に下りると、その神姿を獅子頭に変えるというのは早池峰関係の諸社によくみられることだ。
 たとえば、大迫町内川目の早池峯神社境内には早池峯大権現社がまつられてもいて、ここでは、本社と境内の大権現社の二社に、同じ瀬織津姫神をまつっている。神仏習合時代の名残りである早池峯大権現社には、迫力ある表情の権現様(獅子頭)がまつられていて、わたしなどの不信心・不徳な参拝者には、今にもかみつかんとしている。
 さて、早池峰信仰圏を総合的にみるならば、その信仰圏域は山の南方に展[ひら]けているといえそうだ。
 遠野側の「崇敬者調べ」の依頼に応じなかった早池峰山南域の村々の中にも、早池峯大権現を新山大権現の名でまつってきたところが複数みられる。祭神を「瀬織津姫命」としている新山神社(早池峰峯神社)について、この資料に表れていない村々を北から挙げれば、新山大権現から早池峯神社へと社号変更した紫波郡土橋村、新山神社をそれぞれ有する和賀郡更木村、同郡水押村、江刺郡広瀬村、同郡稲瀬村がある。
 遠野郷一町九ヶ村の町村長の連署による「崇敬者調べ」の依頼は、決して強制力をもったものではなかった。この資料は、早池峰信仰を総合的にみようとするときの一指標にすぎないのだが、それでも、多くの、あるいは遠方の町村が協力したことがみえる。
 資料は仮の指標ではあるものの、早池峰信仰圏を措定する参考にはなるだろう。たとえば、内陸部信仰圏の南端は西磐井郡日形村(現在の一関市花泉町日形)で、ここは北上川流域の村でもある。この日形村のすぐ北にある真滝村は現在の一関市滝沢となるが、四〇〇戸の崇敬者が報告されている真滝村の村社は瀧神社(拝殿の扁額は「熊野白山瀧神社」)で、ここには、坂上田村麻呂が祓戸大神としてまつったとされる瀬織津姫神の名がみられる(ほかに伊弉諾尊・伊弉册尊をまつる)。ここが祓戸大神・熊野大神・白山大神の三大神の合祭社にもかかわらず、社号を瀧神社としているところに、同社の密かな主張があると理解できる。この瀧神社の氏子諸氏は、早池峰信仰をも共有していたことが想像される。
 また、和賀郡立花村は二〇〇戸の崇敬者がいると報告されていたが、同村にある多岐神社は祭神を「稲倉魂命」とするも、本殿背後に秘するように「新山様(新山宮)」をまつり、そこには「新山様は子を授け安産護りの子孫繁栄の宮です」、「瀬織津姫ノ命を祀る女性の神様です」と説明されている(詳細は「北上・多岐神社(新山宮)──妙見信仰の残照」参照)。
 ところで、早池峰信仰圏域が内陸部に限定されるものでなかったことは、気仙郡の多くの村々が「崇敬者調べ」に応じていることに表れている。これは「海からの早池峰信仰」を考える指標ともいえるが、三陸沿岸部をいえば、気仙郡北隣の上閉伊郡沿岸部(釜石町・甲子村・大槌町・栗橋村・鵜住居村)も加える必要があろう。これらの合計は、二町一四ヶ村で七八三四戸の崇敬者となり、早池峰信仰圏が三陸沿岸部に深く浸透していたことを想像させる。
 三陸沿岸信仰圏の南端にあたる気仙郡の村々を地図帳に落とし込んでいくと、かなりくっきりとみえてくることが二つある。一つは、気仙川流域に早池峰信仰が濃厚であること(源流部から川に沿って下るように列挙すれば、上有住[かみありす]村・下有住村・世田米[せたまい]村・横田村・竹駒村・矢作[やはぎ]村と集中している)。二つは、唐桑半島の北対岸にあたる広田半島の二村(広田村・小友村)が早池峰信仰圏域としてあること(この両半島にはさまれた広田湾に注ぐのが気仙川である)。
 資料の「崇敬者調べ」の依頼は岩手県内に限定していて、広田半島対岸の唐桑半島は宮城県になり、県外にまで調べの依頼はなされなかったにちがいない。唐桑半島には、熊野本宮神として瀬織津姫神をまつる、その名も瀬織津姫神社があり(現状は二〇一一年三月十一日の大津波で流され現存しないが)、この社の親称は「室根さん」で、室根山の大元神をまつることを告げていた(詳細は「室根山祭祀と円仁──業除神社・瀬織津姫神社・御袋神社が語ること」参照)。
 気仙川流域の横田村には、多藝[たき]神社・瀧神社・清瀧神社・四十八瀧神社・大瀧神社があり、いずれも滝神として瀬織津姫神をまつっている(滝神としてではないが、洪水鎮護、つまり川の守護を願ってまつられた舞出神社もある)。瀬織津姫神が集中してまつられる気仙川の河口にあるのが高田村(のちの陸前高田市の中心部となる)だが、この神は高田村にもまつられている(現:陸前高田市高田町洞の沢)。『陸前高田市史』第七巻は、高田村の総社は天照御祖神社で、同社の末社に大瀧神社を記載し、祭神を「瀬織津姫命」としている。現地を訪ねてみれば、大瀧神社という社号は「禊瀧神社」と変えられ、大地震の疵痕も深いが、その衰退は眼をおおいたくなるほどだ。

大瀧(禊瀧)神社【拝殿】
▲大瀧(禊瀧)神社【拝殿】

 この大瀧神社(→禊瀧神社)は天照御祖神社の北方の小丘陵地にあり、市史は、天照御祖神社について、「本社は明治以前は神明社と称し、高田古館の中腹に巽の方向を臨み、町の安穏繁栄を願って建立」、神主の先祖は「羽黒派修験」と説明している。現在は南面するように遷宮・建て替えがなされているが、明治期の神社明細帳らしき記録には「此神社勧請年暦相知不申候」とあり、その創祀は定かでない。大瀧神社については「但 東瀧ニ鎮座」とあり、ここが当社の故地である。相原友直『気仙風土草』(宝暦十一年)は、「東瀑布。不動堂あり祭日三月二十八日。瀧の高三丈余岩壁上より直下す。水幅三尺余なり。其勝景胸次を凉ふし類ひ希なる壮観なり。昔此不動堂の別当を明王院と云。今其末葉修験清浄院」と説明している。大瀧神は不動明王と習合する神でもあった。
 大瀧神社が東瀧(東瀑布)の地から現在地にまつられるのは明治期のことらしく、その遷座経緯の詳細は実のところはっきりしない。ただし、大瀧神社(禊瀧神社)の宮司・村上家からの聞き書きを元に、管野不二夫氏によって書かれた「禊瀧神社(通称お不動様)由来」には、興味深い逸話が書かれている。曰く、明治二十九年(一九〇六)、高田村が大火に遭ったときのこととして、「現在の玉家のあたりの葛屋根の家だけ一軒焼け残った。回りが皆焼けた中で不思議に思い訪れて見ると、その家には火を払う神が祀られていた」──。この「一軒焼け残った」家が宮司・村上家らしく、その後、木曽の御嶽神による「氷上の中腹次郎太郎杉に本尊あり」という夢告があり、この杉近くの滝中から本尊を発見、それを現在地にまつり「禊瀧神社」としたという。夢告による創祀のことはともかく、「火を払う神」という神徳を瀬織津姫神がもっていた同話は、遠野郷綾織村の愛宕神社にも伝えられていた(昭和七年『綾織村誌』、『円空と瀬織津姫』上巻所収)。
 この大瀧(禊瀧)神社の前身は、相原友直によれば、東瀧(東瀑布)の「不動堂」で、ここは氷上山を水源とする川原[かわら]川(祓川)の上流になる(氷上神社の傍らを流下する)。
 海側の早池峰信仰圏を貫流する気仙川流域には、現在、瀬織津姫神を滝神とする祭祀が、この大瀧神社を含めれば六社みられるのだが、ここに、少なくとももう一社を加えることができるので、それにもふれておく。この社は高瀧神社といい、気仙郡住田町世田米字野形に鎮座している。『住田町史』第四巻は、次のように説明している。

高瀧神社
 世田米に野形という集落地帯があり、国道より奥地に沢伝いに入ると、氷上神社の分神だとするお社がある。大きな音を立てて滝が落下していることから「高瀧神社」、「大瀧神社」などと称する。また、この地に散在していた神々をこのお社に合祀したという伝えがあり、そのため「高瀧十柱神社」とも呼ばれている。
 明治四十二年(一九〇九)十一月再建とあるので、それ以前のかなり古くから建立されていたものであろう。このお社は当初から修験山伏(明治四十二年の棟札には「祭主 藤原吉房法印」の名がみえる…引用者)が関与していたことは、奉納されている品々によって明らかである。宝剣(鉄製)や鳥居の絵馬などが、数多く献納されていて、当町のお社では珍しいほどである。大きい宝剣もあるが鉄製の「わらじ」一足もある。宝剣は、武運長久を祈願するため奉納される風習であるが、現在は家内安全、病魔退散など、それぞれ願いごとは異なるものの、守護神としての神仏習合の風習は消えていない。
 本尊は、「不動明王」ではなかったかと思われる。不動明王は修験山伏の信仰仏であり、右手に剣、左手に縄を持って岩の上に座す。背に火炎を負い、顔は水波のひだを引き、右牙は上に出して左牙は下に向き、怒りのお姿をしている。病魔退散や家内安全を守る仏として全国いたる所に祀られているが、特に水に縁が深く、川や滝のそばに御堂が建立されている例が多い。〔中略〕
 そして、水に神霊がこもっていると信じていたので「滝」は、すなわち神であった。その滝の水は、悪病を流して、悪魔を追い払うというので、「お滝さま」から水を貰ってきて、家中でこれを飲むという風習もあった。

 町史は、これだけの説明をしていながら、高瀧神社(大瀧神社)の神の名を記していない。現別当の泉氏を訪ねてみるも、書かれたもの(社記の類)がまったくなく、祭神不明だという。これは奇妙な話だが、よくある話でもある。町史は明治期の神社明細帳等を参考として稿を起こしたものと推察されるが、しかし、文面には、高瀧神(大瀧神)は「氷上神社の分神」とあり、この伝承があることはとても貴重である。
 奥州市江刺区梁川に鎮座する氷上神社(祭神:瀬織津姫命)の由緒は、「本社の創建は元和三丁巳歳(一六一七)三月。別当内野三蔵院、気仙郡高田村(現陸前高田市)に鎮座せる氷上神社の御分霊を小梁川右膳地行の御除地たる烏帽子山頂に勧請せしに始まる」としている(『岩手県神社名鑑』所収)。同じように「氷上神社の御分霊(分神)」をまつる高瀧神社(大瀧神社)である。瀬織津姫神は滝神を根本性格としていて、高瀧神(大瀧神)が祭神不詳というのは、もう成り立たないだろう。
 ちなみに、氷上神社本社についていえば、神仏習合時代、氷上山頂では「氷上山大権現」、里宮では「氷上権現」と呼ばれていたらしい。『気仙風土草』には、「一、氷上山大権現。氷上山上にあり。又日神山とも書けり。当郡(気仙郡)の総鎮守也。後世伝を失て何れの神なる事を詳にせず」とあり、『気仙風土草』が成る宝暦十一年(一七六一)頃には祭神不詳が常態となっていた(『延喜式』神名帳の陸奥国気仙郡三座、つまり、理訓許段神社・登奈孝志神社・衣太手神社の祭祀を当社にまとめるというのはいかにも無理がある)。また、『風土草』は「本地仏東は薬師・中如意輪観音・西弥陀の円き板の面に。像を高く刻み付たるあり。古代の物なり。今朽損して其形分明ならず」と書いていて、熊野三山系の本地仏の懸仏があったようだ。中尊の如意輪観音は、熊野においては那智の青岸渡寺(西国三十三観音巡礼第一番札所)の本尊でもあるが、当地では、気仙三十三観音の「第三十一番 氷上本地」にあたり、その御詠歌は、次のようなものだ。

  つみきえて 登るうれしひのかみの たいひのつかひ たのもしきかな
 (罪消えて登る嬉し氷上(日神)の大悲の使い頼もしきかな)

 氷上神(の本地)には「罪滅」「大悲」の功徳が期待されているらしい。ちなみに、青岸渡寺(那智山如意輪堂)の御詠歌は、「補陀落や岸うつ波は三熊野の那智の御山にひゞく滝津瀬」である。氷上神(高瀧神・大瀧神)の故郷は、遠く熊野の那智にあるとみてよさそうだ。気仙川河口の気仙町は県境の町で、この県境を越えると宮城県気仙沼市唐桑町である。藩政時代(以前)は、ここも気仙郡だった。唐桑半島には、養老二年(七一八)に熊野大神が上陸し、その地に、那智の「滝津瀬」の神でもある(日輪天女とも秘称される)瀬織津姫神をまつる小さな社が二つみられる(業除神社・瀬織津姫神社)。これらの小さな古社から、熊野の大いなる滝神・神霊がまつられた先は、室根山一山ばかりではなかったのかもしれない。
 高田町の天照御祖神社は、その飛び地の末社を「大瀧神社(→禊瀧神社)」として、自らの親社であろう神宮(伊勢)の地主神(の一神)を「禊瀧神」としてまつっている。気仙郡の代表的河川といってよい気仙川(江戸期は「今泉川」と呼んでいた)流域の諸村が、昭和の初めの記録ではあるが、早池峰信仰圏であることを表明してもいた。気仙川流域が、早池峰大神こと瀬織津姫神を滝神として集中してまつってきた姿は、より鮮明になったのではなかろうか。もっとも、その祭祀には、修験者・山伏が深く関わっていた。
 昭和三年(一九二八)は昭和天皇の即位式「御大典」の年で、明治維新にはじまる国家神道の補強・再興期にあたってもいた。各神社の氏子にとって、それまでの社格が不本意のとき、この昭和三年に向けて、遠野・早池峯神社のように、社格の昇格申請のために多くの情熱が動員されている。伊勢神宮を頂きとする社格大系の階段を一つでも上にという志向は、なにも遠野・早池峯神社ばかりではなかった。
 和賀郡更木村(現:北上市更木町)に鎮座する新山神社(祭神:瀬織津姫命)は、明治期に「無格社」とされ、それが氏子諸氏にとっては不本意で、ここでも社格昇格の申請がなされている。こちらの申請書の標題は「社格変更願」、早池峰信仰の内実もよく伝えていて、これも貴重な資料といえる。以下、その申請文を書き写しておく(宮司・遠藤氏よりご提供、漢字は基本的に新字体に改めて引用)。

社格変更願
  岩手県和賀郡更木村大字更木第三十二地割百四十一番地
  無格社  新山神社
右神社延文二年里閭篤信ノ人々ノ請ヒニテ当神社現社掌ノ祖先ナル修験者ニ依リテ本県第二位高山タル早池峯ニ鎮座サルゝ新山宮ヲ勧請シタル由口碑相伝フ
早池峯ハ本村ノ高地タル水乞森(水乞森ニハ早池峯遙拝所アリ)ヨリ東北ノ彼方遙ニ雲表ニ聳エ岩手山ト相双ビ古来郷人崇敬ノ標的ニシテ男子一度ハ必ズ登山参拝スルノ慣例今ニ依然タリ
斯カル由緒アル神社ナルヲ以テ古来郷土ノ崇敬篤ク天正三年 寛政七年 及び 慶應元年ノ三回社殿ノ改造毎ニ其ノ規模構造ヲ大ニシ来リタルノミナラズ同神社ノ御縁日ハ村ノ祭日トナリ社殿ノ修繕等ハ殆ント更木村一円ニテ負担シ社格ハ無格社ナルモ事実ハ村社ニ等シク殊ニ旧藩時代ハ藩主南部氏ノ支族南家ノ祈願所ニテ社領一石ノ寄進アリ 例祭日ニハ代参者ヲシテ神饌幣帛ヲ供進サルゝヲ例トシ供進使ノ参着ヲ待チテ開扉スルノ慣ヒニテ維新前ニ至ル
斯カル由緒アル本神社ノ無格社トシテ今日ニ至リタルハ維新当時ノ大変動期ニ際シ適任ノ社掌ヲ欠キシ為メニシテ氏子一同之レヲ遺憾トシ来リシガ近年敬神思想ノ勃興ニツレ氏子ノ熱誠ナル敬神表示ハ列格申請ノ計画トナリ大正八年ヨリ新山講ヲ組織シテ基本金ノ造成ヲ企テ本年ニ至リテ第一次ノ予定額金一千二百円ニ達シタルト同時ニ境内地並ニ山林畑等ノ寄附ヲ見ルニ至リタルヲ以テ茲ニ村社列格ノ申請ヲ議決仕リ候
右事由ニ依リ社格変更相成度 由緒 境内及工作物図面 氏子数 維持方法 基本財産調相添ヘ此段願上候也
 大正十四年
  岩手県和賀郡更木村大字更木第三十二地割百二十七番地
               社掌             遠藤重治郎【印】
(以下、村内各地区の氏子総代者七名の署名・捺印がつづくが略す)

 更木・新山神社は、延文二年(一三五六)、信心篤い郷人の要請に応え、当社神職の祖先である修験者が早池峰山の新山宮を当地に勧請したのを創祀とする。当村の「水乞森ニハ早池峯遙拝所アリ」とも書かれ、早池峰・新山宮の神には、水神的神徳が期待されていたようだ。また、この水乞森より東北に聳えてみえる早池峰山は、古来、岩手山とともに郷人の崇敬の対象であったという。
 この勧請譚で興味深いのは、早池峰山を崇敬する郷人の要請に修験者が応えていることだろう。ここには、民心に寄り添うように修験者が存在していた実態が証言されている。宮司・遠藤氏に、祖先の修験者について尋ねると、羽黒修験とのことである。田村麻呂伝説に仮託して自社由緒を語りたがることが圧倒的に多いなかで、これは信用できる勧請譚といえる。
 氏子の総意あるいは熱意が通じたというべきか、更木・新山神社は無格社から村社へと社格昇格が実現したようだが、祭神を瀬織津姫命とする新山神社をみると、この更木・新山神社を除けば、あとはすべて無格社のまま戦後を迎えている。そのなかで、由緒に修験者の勧請を記している新山神社がもう一社ある。『岩手県神社名鑑』の由緒記載を読んでみる。

新山[にいやま]神社
  通 称 峯崎の新山様
  旧社格 無格社
  鎮座地 江刺市(現:奥州市江刺区)稲瀬字広岡九八番地
祭 神 瀬織津姫命
例 祭 四月九日
由 緒
 鎌倉時代、京都の修験日曜山礒元法印が国家鎮護を祈願し、この地に祀ったといわれている。
〔中略〕
宝 物 聖観音座像懸仏(市指定文化財)
氏 子 三三〇戸
崇敬者 一五〇〇人

 氏子・崇敬者の数をみるかぎり、無格社ではなく村社であったとしてもおかしくはないが、それはおくとして、このあっさりとした由緒のなかに、勧請者として「京都の修験日曜山礒元法印」とある。
 しかし、社務所でいただいた由緒書には、詳しい創祀経緯が書かれていて、読むに値するのはこちらのほうだろう。

御由緒
 平泉奥州藤原氏は郷内の平安と繁栄を羽黒大権現に願請し奥羽二郡に新山寺六百カ寺を建立したという。その一寺に都より下向した修験日曜山大聖院[だいしょういん]礒元[いわもと]法印が聖観音を祀り広く郷内の信仰を集めた。安永二年(一七七三)の倉澤村風土記には鎮守峰崎新山権現社とみえ、境内には当時で幹径一丈三尺と一丈一尺の爺杉[おじすぎ]・婆杉[おばすぎ]が聳え立ち、まさにその歴史の古きを物語るものであった。また棟札より現在の拝殿は享保十二年(一七二七)の再建によるものと知る。明治の神仏分離・修験道の廃止により新山神社と御改称、現在に至る。

 この「峯崎の新山様(瀬織津姫命)」の由緒には、わたしたちに新たな探索を促すといってよい、とても興味深いことが、少なくとも三つ書かれている。その一は、「平泉奥州藤原氏は郷内の平安と繁栄を羽黒大権現に願請し奥羽二郡に新山寺六百カ寺を建立した」とされること。その二は、この新山寺の鎮守として新山権現がまつられ、それが明治以降、新山神社に転じていること。その三は、早池峯権現=新山権現ではなく、羽黒山系新山権現の垂迹神として「瀬織津姫命」が祭神とされていること。
 その一の、奥州藤原氏による羽黒権現の崇敬については、『出羽三山史』(出羽三山神社発行)が「羽黒山はこの平泉の藤原氏を大坦那とし、深い崇敬を受けて、その繁栄を得たと思はれる事は羽黒の旧記に伝ふるところである」と書いているように、これはまちがいないとおもわれる。その信仰の内実として、藤原氏が「奥羽二郡に新山寺六百カ寺を建立」したとされる「六百カ寺」という寺数については確かめようがないが、この新山寺の鎮守として新山権現をまつり、それが新山神社となる経緯を勘案すれば、東北地方に新山祭祀が集中してみられる、もっとも納得のいく理由とはいえるかもしれない。
 この稲瀬・新山神社の境内には「早池峯塔」と刻まれた石碑があり、ここが早池峰信仰圏域にあることを示している。全国的な視野からいえば、瀬織津姫祭祀の最後の核[コア]としての圏域、それが早池峰信仰圏とみてよいのだが、平安時代末の奥州藤原氏は、自らが管領する奥羽全体の鎮護を羽黒権現に「願請」している。これは、早池峰権現の信仰は地域的に限局され奥羽全域に及ぶものではなく、奥羽全体の鎮護に耐えられるのは、出羽三山の中心にいる羽黒権現であるという認識が、おそらく奥州藤原氏にあってのことだろう。しかし、その羽黒権現(新山権現)の垂迹神として、早池峰神でもある瀬織津姫神をまつっているのが稲瀬・新山神社である。これは、羽黒山信仰あるいは出羽三山信仰とはなにかという新たな問いを喚起させずにおかないし、最後には、奥州藤原氏にとって瀬織津姫神とはなにかという問いにも還流されてくることになる。
 新たな探究は別項を立てて展開するとして、ここでは、稲瀬・新山神社のほかに、奥州藤原氏(その初代にあたる藤原清衡)が新山寺を建立したとする由緒をもつ新山神社があるので、それにもふれておくことにしよう。
 奥羽山脈の東、紫波郡紫波町土館に、新山[にいやま]という霊山がある(標高五五〇㍍)。現在は山頂付近に新山ゴルフ場ができて聖域・霊山の感は望むべくもないが、しかし、山名として「新山」と呼ばれるのは、ここに新山寺および新山堂(のちの新山神社)があったことによる。奥州藤原氏の時代、この両寺堂の信仰下に多くの坊舎があった。当地はかつての志和村で、ここには五〇〇戸の早池峯神社の崇敬者が記録されてもいた。
 新山寺は現存しないが、これは「近世の初頭になって盛岡城下に移転」したためである(佐藤正雄『紫波郡の神社史』岩手県神社庁紫波郡支部)。残る新山堂(新山権現)は、明治になって新山神社と改称、神仏習合の仏教色を廃し、そこから新たに神社としての単独祭祀がなされることになる。新山神社の由緒概要を知るには、『岩手県神社名鑑』(岩手県神社庁)の記述が、一応は参考になろう。

新山[にいやま]神社
  旧社格 村社
  鎮座地 紫波郡紫波町土舘字和山一番地
祭神 稲倉魂命
例祭 九月十七日
由緒
 大同二年(八〇七)三月十七日、征夷大将軍坂上田村麻呂が凶賊征伐の祈願として新山上平に勧請せり。その後康平五年(一〇六二)九月、源頼義・義家が安倍氏を征する時志和に陣し崇敬せりと伝えられる。
 天仁二年(一一〇九)鎮守府将軍藤原清衡新山寺を建立、その参道に十八カ所の坊舎を建てたが、火災のため烏有に帰したるがその跡現存す。
 文治五年(一一八九)九月、源頼朝陣ヶ岡に陣する時、寺領を寄進。頼朝の臣小山朝祐禅門に入り浄円と称し、竜雲山妙音寺、能化山安徳寺を建立し、嘉禄二年(一二二六)三月二十一日、安徳寺に寂す。
 また南部氏も特に崇敬深く寺領百二十石を寄進、明治三年(一八七〇)新山神社と改称す。
 現在の里宮境内地は、神社氏子家号前渡り阿部保三氏が面積五反一畝二十三歩を境内地として奉納、里宮を建立せり。その後明治百年記念事業として拝殿を新築、境内地を整備現在に至る。
 奥宮境内地より発掘された神鏡及び懸仏は明治三十九年(一九〇六)国宝参考簿に登録され、現在右二点の他に、計五点が岩手県文化財に指定されている。
 また陸中八十八カ所五十二番札所として広く崇敬されている。〔後略〕

 一読、虚実混在の由緒表現となっている。佐藤正雄『紫波郡の神社史』は、史学家の実証主義の視点で書かれた神社史で、国家神道はいうまでもなく、戦後の神社神道とも無縁に書くことを貫いていて好感がもてる。同書は、神社に関する古記録を巻末資料として収録してもいて、紫波郡内の神社史を考えるにあたって大いに参考となる。同書収録の明治十二年の神社明細帳をみると、当時、新山神社の祭神・由緒ともに「不詳」とあり、引用のように、虚実多弁な由緒がつくられるのは、明治十二年以後のことである。
 新山寺が盛岡城下に移転したあとのこととなるが、宝暦九年(一七五九)の「御領分社堂」(南部藩内の寺社調べの記録)には、新山神社の前身が、次のように書かれている。

 日詰通御代官所志和
一、新山権現 二間四面板ふき
一、羽黒堂  一間四面板ふき
 右何茂由緒不相知両社共新山寺持

 ここからわかるのは、新山寺が移転した跡地には羽黒堂がまつられていたことである。つまり、この羽黒堂が移転した新山寺を引き継ぐようにして新山権現を鎮守としてまつっていたとみられる。羽黒堂は明治期の神仏分離時に廃絶されるわけだが、その遺構からの出土物が、引用の由緒に書かれていた「奥宮境内地より発掘された神鏡及び懸仏」である。『紫波郡の神社史』によれば、この懸仏の像種は十一面観音である。
 佐藤氏は、その出土遺物の制作年代や羽黒堂の存在、および、ここには「藤原秀衡直属の刀鍛冶」がいて、藤原氏滅亡後、この刀鍛冶は「出羽の月山に移住して月山丸の銘刀を残した」といった伝承があることなどから、この新山権現社は「出羽三山系統のものではなかったか」と推定している。これは、そのとおりだとおもう。
 先に稲瀬・新山神社の由緒をみたが、そこには、「平泉奥州藤原氏は郷内の平安と繁栄を羽黒大権現に願請し奥羽二郡に新山寺六百カ寺を建立した」とあった。その「新山寺六百カ寺」のうちの一寺として、この紫波郡の新山寺(→羽黒堂)があるとすると、その鎮守である新山権現は羽黒山から勧請されたもので、これも羽黒権現ということになる。その創祀に関与していたのが藤原清衡と名指しされていたわけで、これは重視してよいこととおもわれる。
 羽黒権現の本地仏は、古くは十一面観音、のちに聖観音になるという変遷がある(戸川安章「出羽三山信仰にみる浄土観」、岩田書院『出羽三山と修験道』所収)。戸川氏によれば、聖観音の垂迹神として「倉稲魂神」が語られるようになるという(現在の出羽神社の祭神でもある)。土館・新山神社は、明治十二年時点では祭神不詳としていた。しかし、その後(現在)、自社祭神を「稲倉魂命(倉稲魂命)」としているのは、本社・出羽神社の祭神表示に整合させたものとみることができる。
 土館・新山神社の里宮は、境内由緒板には、昭和十年三月の創建とあり、決して古いものではない。この里宮があることで、新山山頂付近にある社は奥宮と表記されるが、その祭祀の本姿をみようとするならば、この奥宮(本社)を訪ねてみるしかない。
 里宮の境内由緒板は、「平泉の藤原氏が山王海に金鉱を営み、この地に数多くの寺院を建立せり」と書く一方で、「文治五年、源頼朝が寺領を寄進、頼朝の臣、小山朝祐が浄円と称し新山寺を建立」などとしている。里宮では、新山寺の創建者は、『岩手県神社名鑑』の記載とは異なり、つまり、藤原清衡ではなく「頼朝の臣、小山朝祐」だとしていて、読む者を少し困惑させる。しかし、奥宮(本社)の由緒表示板には、「平安時代の後期、天仁二年(西暦一一〇九年)に藤原清衡が建立した新山寺[しんざんじ]が前身」とある。同じ新山神社内において、新山寺の創建者伝承一つをとっても不定感は消えないが、その点、奥羽全体に新山寺をまつらせたのは「平泉奥州藤原氏」と明言していた稲瀬・新山神社の由緒は貴重である。
 奥宮(本社)は、鳥居・参道・拝殿・本殿が一直線上に配され、社殿は南面ではなく東面している。社殿に向かって左横には羽黒堂(旧新山寺)の遺構礎石も残存しているが、『紫波郡の神社史』は「さらに山頂付近には上ノ寺や尼寺の跡も確認できる」と報告している。出羽三山のなかでも女人参詣を拒んでいないのは羽黒山のみで、羽黒堂・新山権現の上に尼寺が建立されているところをみると、ここは女性の信仰に開かれていたとの推定も可能だろう。つまり、「熊野的」でもある。
 同じ羽黒権現を新山権現としてまつり、しかし、稲瀬・新山神社は祭神を「瀬織津姫命」とし、土館・新山神社は明治十二年の「祭神不詳」から現在「稲倉魂命(倉稲魂命)」としている。土館・新山権現の本地が十一面観音とすると、早池峰信仰圏においては、この仏を本地としていたのは早池峰権現(新山権現)こと「瀬織津姫命」であったことが想起される。たとえば、早池峰山はいうまでもなく、北上市口内町の新山神社の由緒には、「本神社は、元新山権現と称し瀬織津姫を奉祀し、水押村の氏神として崇敬していた。御神体の仮表として十一面観音丈四尺の木像があるが、誰の作なのか不明」とある。また、奥州市江刺区広瀬の新山神社(祭神:瀬織津姫命)では、「文政九年(一八二六)九月の風土記によると、当時は新山権現であり、本地仏は千手観音で慈覚大師の作と伝えられている」などとされる(以上、『岩手県神社名鑑』による)。千手観音は十一面千手観音のことである。これらに、室根山祭祀における本地・十一面観音を加えてもよいが、早池峰信仰圏において「瀬織津姫命」と習合するのは、十一面観音か不動明王であることが圧倒的に多い。土館・新山神社の「祭神不詳」の背後に、どのような神がいたのかは気になるところだろう。
 ところで、奥宮(本社)の新山神社が南面ではなく東面して建立されているというのには、おそらく、祭祀上における信仰的な意味が秘められているものとおもう。拝殿を背に参道を降りてきて気づくのは、正面の林が切り払われていて、視界が東に開かれていることだ。その正面(東)の遠方にみえるのが、早池峰山(と薬師岳)である。土館・新山神(新山権現)が早池峰山と対面するようにまつられていたのは、やはり示唆すること大きいといわねばなるまい。
 羽黒権現の垂迹神として「稲倉魂命(倉稲魂命)」をまつる出羽神社について、『出羽三山史』は、次のように説明している。

 出羽神社は出羽国の国魂の神である伊氐波神即ち稲倉魂命を祀る。伊勢外宮の豊受大神又稲荷大神と御同神で我々の寿命を保つ衣、食、住を司られる神で、その御神徳は普く世の人の知る処である。

 羽黒権現の本地を十一面観音から聖観音に変え、それと連動するように語られだすのが「伊氐波神即ち稲倉魂命」説である。しかも「伊勢外宮の豊受大神又稲荷大神と御同神」だという。こういった説明で、本来の「出羽国の国魂の神である伊氐波神」が納得するのかどうか。熊野三山を擬した出羽三山信仰発祥の根本にあたる羽黒山においては(も)、古層の祭祀として十一面観音と習合する羽黒権現がいた。そもそも羽黒権現とはなにか、あるいは、羽黒権現と習合する神とはなんだったのかという問いが、やはり残るようだ。

早池峰山(奥左)と薬師岳(奥右)
▲新山神社奥宮から望む早池峰山(奥左)と薬師岳(奥右)



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