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重層する早池峰・熊野信仰──早池峰・新山神社は語る

 紫波郡紫波町佐比内・熊野神社の元宮は「新山大権現堂」と呼ばれ、この「大権現」は「お熊様」という親称によって語られていた。その元宮の祭祀地は「新山」という小山だが、それは新山大権現が鎮座するゆえの山名であろう。しかし、この山名について、熊野神社由緒は新山ではなく「大峰の丘」と書いていた。地図帳をあらためて見てみると、新山(大峰の丘)のすぐ北には「妙法山」という山名がある。わたしの聞き取りでは、佐比内の妙法山における山神まつりは古くに退転して、わずかに「バトウさん」(馬頭観音)のまつりがあったとのことだが、これも近年みられなくなったとのことである。
 妙法山という山名で想起されるのは、熊野・那智の最高峰・妙法山(七五〇㍍)である(富士山が視認できる最西端の山でもある)。由緒はよく語らないが、佐比内の「大峰の丘」は、吉野・大峰─熊野修験と関わる「大峰」を遷したものではなかったか。
 佐比内の「大峰」が奈良・吉野の大峰修験による勧請地名であるとして、陸奥国の小さな大峰に熊野神がまつられることを不自然でなく了解するには、少し掘り下げて考えてみる必要があるかもしれない。そもそも、熊野修験─熊野権現、羽黒修験─羽黒権現というように、修験と行道霊地の神霊の権現化との対応関係がみられる場合が多いが、なぜか大峰修験に対応するはずの「大峰権現」は存在しない。この大峰権現が成り立たなかったのは、おそらく、役小角による金剛蔵王権現の創出が影響しているのだろう。あるいは、吉野・金峯山(吉野修験)と熊野・那智(熊野修験)の両者の間にある大峰修験が、独自の修験思想を展開しきれなかったこととも関係しているといってよいかもしれない。
 しかし、奈良・吉野の大峰と熊野神が関わることを端的に告げている祭祀がある。熊野川源流部(天川)に鎮座する天河神社である。もっとも、この社号は明治以降のもので、同社社標には「大峯本宮天河大弁財天社」と刻まれていて、ここが「大峯本宮」であり、「弁財天」の祭祀社であることを忘れていない。
 大峯(弥山[みせん])には地主神の「天女」がいるとの認識をもっていたのは天武天皇で、彼は、この「弥山山頂に祀る天女を麓に移し、大神殿を造営し、吉野総社となして祭れ」と勅命したという(大山源吾『天河への招待』駸々堂)。しかし、役小角(役行者)は、この天女姿では魔の降伏[ごうぶく]はかなわないとして、結果、感得・創出したのが金剛蔵王権現とされる。しかし、修験の開祖と仰がれる役小角ではあるが、修験者の多くは、役小角が創出した蔵王権現よりも不動明王を自身の守護神としているようだ。
 天河弁財天社の異称は「吉野熊野宮」とも「吉野熊野之中宮」とも、また「天河坐宗像天女社」ともいい、同社の秘伝では、弁財天は「日輪天女」「天照姫」でもある。しかし、この天照姫は伊勢・皇祖神のアマテラスのことではなく、「天照大神別体不二之御神」と認識されている。つまり、大峰・天河においては、「天照大神荒魂」を弁財天とみなしているのだが、熊野に眼を転じれば、この弁財天の修法に関わるのは那智であろう。
「熊野那智山結宮並滝本年中行事」の三月二十一日の項には「川中の神供、瀬織津姫ノ神を祭る、那智山滝ノ上の中津瀬にてみそぎ祓いの式典あり」とあり、ここに「天照大神別体不二之御神」(天照大神荒魂)の元名がみえる(以上、菊池展明「大峯山・天河弁財天とはなにか」、『円空と瀬織津姫』下巻所収を要約)。
 熊野本宮(証誠殿)かつ熊野の滝姫神でもあった瀬織津姫神は、那智の年中行事では「川中の神」とみなされていて、これと関わる行事が九月十三日の「滝本河中神供三膳」である。『熊野市史』(上巻)は、この神事について、次のように解説している。

 滝行者身体を滝壺に入り、折板[へぎいた]の上に海の幸、洗米、畑物、山の物、神酒を乗せて押し流す作法。日天秘法ともいう。又、弁才天供養、竜神祭ともいう。
 夏中水に不自由せぬ水神に御礼の行事。また水や滝に感謝し敬う大事な祭典。

 滝本河中神(瀬織津姫神)に三膳を供えるという神事「日天秘法」は、「又、弁才天供養、竜神祭ともいう」とある。日天は日輪天女の略で、この日輪天女の秘法が「弁才天供養」と呼ばれることで、「大峯本宮」神である「天河大弁財天」と熊野の大いなる秘神が直結することになる。
 以上は、熊野権現(お熊様)を内視したときにみえてくる「神」の話である。那智大滝(一の滝)の脇には「祈願所」があり、中央には背後の大滝がみえるように御幣を立て、その両脇に不動明王と役小角を配している。解説板には、滝神は「大己貴命」とあるが、これは、那智大滝の滝姫神は出雲大神でもあることを暗にいっていると理解してさしつかえない。また、解説板には「大滝守護 不動明王」と書かれていて、それと同格に配された大峰の役小角(役行者)は、ここでは、不動明王とともに大滝神守護の役目を担っているようだ。

那智大滝の祈願所
▲那智大滝の祈願所

那智大滝・祈願所の説明
▲那智大滝・祈願所の説明

祈願所の不動明王
▲祈願所の不動明王

祈願所の役小角像
▲祈願所の役小角像

 吉野・大峰修験の奥駈け(峰駈け)の終点は、観音浄土の補陀落(の入口)とみなされている熊野那智である。熊野修験にとって、根本秘儀の道場は那智大滝といってよく、熊野修験の根本義としては那智修験ともいえるのだが、広義の信仰的解釈が許されるならば、熊野修験は吉野・大峰修験をも包括するものといえる。
 佐比内の「お熊様」が熊野の古信仰に関わっているとして、それが「新山大権現」といわれるのは、おそらくは、紀州熊野に対する「新山(真山)」という意をもっていたからなのだろう。佐藤正雄『紫波郡の神社史』(岩手県神社庁紫波郡支部)は、「新山」の解釈について、次のように述べている。

そもそも、「新山」というのは、遠方の山岳に鎮守する神を便宜の地に勧請した新社のことであり、いわば遙拝所的な性格をもつものであった。

 これは、新山(祭祀)が「東北地方に特徴的」にみられる説明とはなっていないものの、新山の一般的な定義・解釈としては、このとおりだろうとおもう。結論を急がずにおこう。
 ところで、「大峰山系統の修験道」(熊野修験)の山伏が早池峰山系「新山大権現」の祭祀に深く関わっていた例があるので、それをみてみる。遠野市附馬牛町東禅寺にある新山神社について、『定本附馬牛村誌』(昭和二十九年)は、次のように書いている。

新山神社
 宿にある。南部藩政時代の本村の領主八戸氏はこの神社と坂の下の御祖神社、大袋の菅原神社を、三社と称して例年旧七月二十日の祭典には家臣中の重[ママ]だつた者を二人以上代参さしたと云う。祭神は瀬織津姫の命と称すが元は十一面観音で、明治維新の後、新山大権現を新山神社と改称して今日に至つた。神殿は三間四面、拝殿は二間半に四間である。
 草創の時期は極めて古いと云われるが詳らかで無く、棟札によれば天保七丙申(一八三六)再建、別当宝明院宥慎とあり、大正九年に神殿及び拝殿を修理し、更に昭和になつて神殿を改築した。奉納の額の内で古いものに安永四年(一七七五)のものがあり、境内には周囲約二十尺の老杉がある。
 新山を現在は「ニイヤマ」と訓読しているが、元は「シンザン」と音読し、早池峰神社の前身である大出の新山宮の里宮であつた。そして同時に早池峰山の遙拝所であつた(因みに今尚村内の古老は早池峯神社を「おシンザン」と呼んでいるが、これは即ち早池峯神社が以前は「新山宮」と呼ばれていたことによる)。〔中略〕
 尚、棟札に名が残つている宝明院宥慎は、現在この神社の社主である山本親邦家の先祖で、同家の先祖は大峰山系統(真言宗系)の修験道の山伏で、代々宝明院を院号としていたと云われ、薬師山の中腹の名勝、又一滝を開いたのも同家の先祖の一人宝明院宥永と云う山伏で、そのことに因んで又一滝は当初宥永滝と称されたと云う。

新山神社【参道─拝殿】
▲新山神社【参道─拝殿】

新山神社【神木+社殿】
▲新山神社【神木と社殿】

新山神社【本殿】
▲新山神社【本殿】

 本稿の関心に沿って、この由緒記述から読み取れることを挙げるならば、少なくとも四つあるようにおもう。
 一つは、「祭神は瀬織津姫の命と称すが元は十一面観音で、明治維新の後、新山大権現を新山神社と改称して今日に至つた」とあること。十一面観音と習合する神として「瀬織津姫の命」の名が明記されているのは重要である。また、明治維新の前は、新山神社は「新山大権現」と呼ばれていて、神仏混淆の祭祀を考えることを示唆している。
 二つは、新山大権現の別当は「大峰山系統(真言宗系)の修験道の山伏」の家系とあり、真言宗系「当山派」の大峰─熊野系の修験者による祭祀がつづいてきたこと。
 三つは、新山神社は「大出の新山宮の里宮」で、「早池峰山の遙拝所」ともみなされていたこと。
 四つは、新山神社(新山大権現)の「草創の時期は極めて古い」とされ、それは境内に「周囲約二十尺の老杉」があることからも推察されること。幹周が二十尺とは約六㍍で、相当の大木(老杉)である。

 以上の四点は相互に関連していて、総じていえば、本社の新山宮(→早池峯神社)の祭祀を考えることを示唆している。早池峯神社について、『定本附馬牛村誌』の記すところを読んでみる。

本社早池峰神社
 大出[おいで]にある。(遠野駅から桑原までバスで一時間、そこから大出まで約八粁。上柳から森林鉄道に便乗の便もある。〔注…昭和二十九年時点のことで、現在、森林鉄道は廃止されていて、遠野駅から大出・早池峯神社前までのバス路線がある〕)
 草創は大同元年(八〇六)で、来内村(今の上郷村来内)の猟師藤蔵(後に姓を始閣とす)が早池峰山頂に於て神霊の霊容を拝して発心し、山道を開いてその年の六月十八日山頂に一宇を建立して神霊を祀つたのがこの神社の始まりである。同時に藤蔵は薙髪して普賢坊と称し、承和年代(八三四~八四七)の初めに七十余才で歿した。その長子兵庫は父の跡を嗣ぎ、長円坊と称し承和十四年(八四七)山頂に若宮を建立して本宮の本尊を移し、本宮には弥陀三尊を安置し、又河原の坊を創建した。
 嘉祥年間(八四八~八五〇)天台の高僧慈覚大師がこの地に来て早池峰山の開山の奇瑞を聞き、宮寺として妙泉寺を建て、坊舎を大黒坊と称して不動三尊、大黒一尊を以つて大黒坊の本尊とし、別に新山宮と号して、三間四面の堂宇を建立して十一面観音の垂跡早池峰大権現を祀り、薬師、虚空蔵両菩薩を併祀した。
 妙泉寺の住職としては、その門弟持福院を留め、長円坊には社人となつて永く神に仕えるべきことを命じて随神本尊として聖観音の高さ二寸ばかりの尊像を与え、更に丈余の仁王を自ら刻んで山門に安置した。又、斉衡年中(八五四~八五六)には早池峰二十末社を定めて、神遣権現堂(現在神遣神社)をその首座と決めた。〔中略〕
 仏教の宗派は寛治年中(一〇八七~一〇九三)に天台宗から真言宗に変り、明治維新までは神仏混淆で盛大に祭祀が行われて来たが、妙泉寺の廃止と共に、旧来の新山宮を改めて早池峰神社と称し、現在に至つた。

早池峯神社【社頭】
▲早池峯神社【社頭】

早池峯神社【神楽殿】
▲早池峯神社【神楽殿=拝殿】

早池峯神社【本殿】
▲早池峯神社【本殿】

 一読、早池峰山における神仏混淆の複雑な祭祀が書かれているようだ。
 少し乱暴に要約すれば──、大同元年(八〇六)、始閣藤蔵(普賢坊)によって早池峰は開山されたが、嘉祥年間(八四八~八五〇)に天台宗の高僧・円仁(慈覚大師)がやってきて、ここに妙泉寺を創建し、門弟・持福院を寺主とした。また、妙泉寺とは別に「新山宮」を設け、藤蔵の長子・兵庫(長円坊)に「社人となつて永く神に仕えるべきことを命じ」、ここに早池峰大権現(本地十一面観音)、および、脇に薬師如来、虚空蔵菩薩を安置した。円仁は斉衡年中(八五四~八五六)にもやってきて、早池峰二十末社を定め、その首座を神遣権現堂(現在の神遣神社)とした。時代は下って、寛治年中(一〇八七~一〇九三)、妙泉寺は天台宗から真言宗に転宗して、神仏混淆の祭祀が盛大に展開するも、明治期(の神仏分離→廃仏毀釈のとき)に妙泉寺は廃寺となり、新山宮は早池峰神社と改号して現在に至る……。
 なお、村誌は早池峰開山者の始閣藤蔵を「猟師」としているが、『遠野市史』は、「伊豆権現(早池峰大神の親神…引用者)は、早池峰を開山した猟師藤蔵が、故郷の伊豆から持ってきた守り神」とするも、藤蔵の家は「江戸時代末期に始閣を名乗るが、当初は熊野別当にゆかりの鈴木姓であった」と記している。伊豆山修験のルーツは熊野にあり、藤蔵の俗姓・鈴木のルーツも熊野(穂積氏)で、鈴木藤蔵は「猟師」というよりも修験者の匂いをもっている。彼が「普賢坊」を名乗ったり、早池峰山頂で山の神霊ではなく十一面観音を感得する異伝もあり、単純に「猟師」とみなすには、はみでる伝承があることを添えておく。
 ところで、『附馬牛村誌』を通読して気づくのは、村内の各神社の由緒や祭神についてていねいに記すものの、なぜか「本社早池峰神社」に限っては、その由緒を記すも、新山神社のように、祭神の名を具体的に記していないことである。一見奇異にみえることなのだが、しかし、これは意図してのことではないとおもわれる。なぜならば、妙泉寺伝来の史料を網羅的に収録した『早池峰山妙泉寺文書』(遠野市教育文化財団)を読んでも、そこに、具体的な祭神の名が一切記されておらず、村誌の編著者(佐々木又吉氏)にとって、祭神を記すにあたっての拠るべき史料がまったくなかったことが考えられるからである。
 円仁創建とされる妙泉寺の伝来文書が、神の名をまったく伝えていないとはどういうことかと考えさせられる。引用の由緒には、妙泉寺とは別に新設された新山宮に関して、開山・藤蔵の長子(長円坊)に対して「社人となつて永く神に仕えるべきことを命じ」たと書かれていた。これは妙泉寺文書にも記されていることだが、早池峰の「神」に関する由緒を伝えていたとすれば、それは、円仁あるいは持福院の妙泉寺ではなく、藤蔵の家系が奉仕する新山宮であったことが考えられる。
 明治期初頭、新山宮は早池峯神社と改称され、社格は「村社」と決められた。しかし、内陸部だけではなく沿岸各地にまで膨大な崇敬者をもつ早池峯神社であり、これは「県社」に相当するとして、昭和三年、遠野町長をはじめ各地町村長の連署・公印捺印の上、「早池峰神社昇格申請書」を岩手県知事・丸茂藤平宛てに提出している。その申請書は、次のように書き出されている。

当神社ハ平城帝ノ御宇大同元年ノ開基ニシテ慶長十二年藩主南部利直公百三十五石ノ社領ヲ寄進シ尚八戸南部直栄公遠野ニ封セラルヤ寛永四年三十五石更ニ承応年中三十石都合二百石ニ増進崇敬シ宝永七年総法務宮ヨリ御朱印免許セラル住職六十世ヲ重ネ従テ南部仙台両藩ノ住民崇敬シ来レリ而シテ維新ノ際社録ノ没収トナリ早池峯神社トシテ今日至レリ茲ニ別紙ノ通リ由緒ヲ有スル神社ヲ村社トシテ奉祭スルハ甚タ吾々遺憾ニ堪ヘサルヲ以テ此度御大典紀念トシテ県社ニ昇格被致度別紙明細書添付候ニ付特別ノ御詮議ヲ以テ御認可相成度此段奉願上候也

 今読めば、不用意というか真っ正直に書いたなとなるが、「維新ノ際社録ノ没収トナリ」という文言が際立っている。新山宮に伝わっていた社録(社記)は、明治維新のときに、当局に「没収」されたという証言は重い。昭和三年、早池峯神社は、自社由緒をもたないことで妙泉寺文書の由緒に依拠するしかなく、それでも伝承(口伝)に従って、結論として「早池峯神社ト称奉リ祭神瀬織津姫命ヲ奉斉ス」と主張している。この申請書は正式に受理されたものの、しかし、当局内部で紛失したとされ、結果、古びた蛍光灯のような時間が経過してから、遠野町長のところへ返却されている。「昇格申請」は冗談のようなかたちで反故にされ、当然ながら社格は「村社」のままとなった。この申請書は、当時の遠野町長・菊池明八氏の末裔宅に保管されている。
 妙泉寺文書には早池峰大権現の名はあっても「祭神瀬織津姫命」の記載はなかった。この神の名を記していたはずの新山宮伝来の社録は、明治維新のときに「没収」となってしまった。当時はコピー機もない時代だったので控えもなく、なんの疑いももたずに社録原本を当局の命に従って差し出したにちがいない。
 早池峯神社が自前の社録をもたぬことで、「瀬織津姫命」をまつってきたことを古文書的に証明できないとき、にもかかわらず、それを証明するように存在するのが各地の分社・新山神社であろう。その筆頭社が、「大出の新山宮(早池峯神社)の里宮」である東禅寺・新山神社である。
 この新山神社が、早池峯神社にとって重要な存在である理由がもう一つある。それは、東禅寺・新山神社が新山宮(早池峯神社)の「里宮」であり、ここが「草創の時期は極めて古い」となると、それはつまり、元社の「新山宮(早池峯神社)」の創祀も「極めて古い」ことになる。それを証するのが、新山神社境内にある「周囲約二十尺の老杉」(神木)の存在である。人はいかようにも嘘をつくが、木(神木)は正直なものだ。
 いったい幹周が「二十尺」(約六㍍)あるという杉は、どれくらいの樹齢なのか。
 紫波郡紫波町高水寺に鎮座する走湯神社の境内に、「源頼朝が、一一八九年九月に高水寺の守り神として走湯権現を祭った時から、ご神木とされてきた杉の木」とされる「走湯神社の大杉」がある。この大杉は「幹周五・五m」、「推定樹齢千年」とある。
 案内は、源頼朝が走湯権現をまつったように書いているが、これはまちがいとおもわれる。『吾妻鏡』文治五年(一一八九)九月十一日条には、次のようにある。

高水寺の鎮守は、走湯権現を勧請し奉る、其傍に又小社有り、大道祖と号[なづ]く、是清衡の勧請なり、此社の後に大なる槻木[つきのき]有り、二品(頼朝)彼の樹下に莅[のぞ]み、走湯権現に奉ると称して、上箭の鏑二を射立てしめ給ふ、

 頼朝が当地へやってきたとき、高水寺(本尊:十一面観音)の鎮守として、すでに走湯権現が、藤原清衡の勧請とされる「大道祖」の社とともにまつられていた。北条政子との恋愛時代にゆかり深い走湯権現が当地にまつられていたことで、頼朝は特に深い感慨を覚えたのかもしれない。走湯権現と大道祖の背後には「大なる槻木[つきのき]」があり、当時の「神木」をいうならば、こちらを指すはずである。その神木に、頼朝は「走湯権現に奉る」として鏑矢二本を射立てたという逸話である。

走湯神社【矢立の槻─頼朝が矢を射ったとされる大槻(ケヤキ)】
▲矢立の槻─頼朝が矢を射ったとされる大槻(ケヤキ)

 走湯権現は伊豆権現ともいい、遠野・早池峯神社の親社・元社として来内村の伊豆権現社(現在の伊豆神社)がある。紫波の走湯神社(現祭神:天忍穂耳命)の本来の神が十一面観音と習合していたとすれば、遠野の伊豆権現→早池峯権現と同じ本地仏で、これはこれで興味深いことである。

走湯神社【社殿─全景】
▲走湯神社【社殿─全景】

走湯神社【本殿─千木・鰹木】
▲走湯神社【本殿─千木・鰹木】

 少し話が脱線したが、木の話にもどろう。
 東禅寺・新山神社の神木の杉の幹周が「二十尺」(約六㍍)とすれば、「走湯神社の大杉」が約五・五㍍で推定樹齢千年とされるから、それと同程度か、あるいは、それ以上の樹齢を考えてよいのかもしれない。念のためとおもい、新山神社の老杉を実測したみたのだが、ほぼ目の高さの幹周が七㍍を超えていて、村誌が記すよりもはるかに太い杉であることがわかった。ちなみに、現在の早池峯神社(かつての妙泉寺)境内に現存する最大杉の幹周は約七㍍だが、地元の古老によれば、もっと太い杉が本殿(妙泉寺時代でいえば「本堂」)の前にあったという。また、それと同等の大杉やイチイの古木が、かつての新山宮の地(現在、新山林の名が残る)にもあったという。
 この古老は、新山林近くに住む人で、聞いてみれば、藤蔵にはじまる始閣本家の分家で鈴木氏だという。始閣家は元鈴木姓で、分家が先祖返りして鈴木氏を名乗っているらしい。この始閣家分家という鈴木氏に案内してもらい、新山林を訪ねてみた。沢伝いに熊笹をかきわけて登ったみたが、新山宮の跡地はもう少し上とのことで、今は道もなく、そこまで行くのはあきらめた。妙泉寺のすぐ近くに新山宮があるかとおもっていたが、寺(現在の早池峯神社)からは歩いて十分くらい離れた山中である。円仁の「命」によって、始閣兵庫(長円坊)はずいぶんなところに押しやられたものだなとおもったが、鈴木氏によれば、新山宮から山頂へ出れば、あとは前薬師(現在の薬師岳)まで峰伝いに行ける楽な道だという。

新山林
▲新山林

 鈴木氏の証言から、かつての新山宮には東禅寺・新山神社の神木に匹敵する神木があったわけで、とすれば、新山神社の創祀と新山宮のそれは、ほぼ同時という想定が可能だろう。
 村誌は、妙泉寺の宗派が天台宗から真言宗に転じたのは寛治年中(一〇八七~一〇九三)と書いていた。これも妙泉寺文書に記されていることだが、とすると、新山神社(新山大権現)の別当が「大峰山系統(真言宗系)の修験道の山伏」とあったこととの関連も指摘できよう。つまり、この「山伏」の祖が新山大権現の祭祀に関わった年代は、古くとも寛治年中を溯るものではなく、その創祀についていえば、長円坊(始閣藤蔵の長子)が関わっていたとみてよさそうだ。少なくとも、新山神社の神木(老杉)の樹齢が、それを語っている。
 ところで、大峰─熊野系の外来修験者が一別当として代々奉仕してきた新山大権現である。それが、明治期に新山神社と改称されたとき、そこに大権現(=十一面観音)背後の神を「瀬織津姫命」としえたこと──、現在からすると想像しにくいが、これはとても重要なことだった。この大峰─熊野系の修験者は、新山宮=早池峰神社の神が、自身の修験の原郷である紀州の熊野大神と同体ということを熟知していた可能性があるからである。『附馬牛村誌』は、新山神社の由緒のなかで、「薬師山の中腹の名勝、又一滝を開いたのも同家の先祖の一人宝明院宥永と云う山伏で、そのことに因んで又一滝は当初宥永滝と称された」という伝承を拾っていた。この「又一滝」の命名について、村誌は別項で、次のような興味深い逸話を紹介している。

 この滝(又一滝)は修験者宝明院宥永(現山本親邦氏の家の祖に当る)が始めて路を踏み開いたので宥永滝と称されたが、その後諸国遍路の六部が立ち寄つて、紀州那智の滝は海内一と称されるが、これも亦海内一の滝であると嘆賞したことから「亦一の滝」と呼ばれ、後に又一滝と呼ばれるに至つたと云う。

 まるで冗談のような滝の命名譚であるが、しかし、これが笑い事ですまないのは、滝の傍らにまつられた不動社について、村誌による、次のような説明がみられるからである。

不動社
又一滝を始め、荒川の滝や、犬淵の滝の傍にあり、不動明王、或は瀬織津姫命を祀つている。いずれも由緒は不明。祭日は旧六月二十八日。
 通称はお不動さまと呼ばれるが、むしろお滝さまと呼ばれる場合が多く、滝そのものが神で、神殿は拝殿の役割に過ぎないような感が深い。

 修験者・宝明院宥永は、薬師岳山中に宥永滝への路を開いた。そこに「諸国遍路の六部」がやってきて、「紀州那智の滝は海内一と称されるが、これ(宥永滝)も亦海内一の滝であると嘆賞した」という。滝の傍らに不動社(不動堂)をまつったのが、新山大権現の別当・宝明院宥永であったか「諸国遍路の六部(山伏)」であったかは断定できないものの、おそらくは前者であろう。この不動明王と習合する神として、新山大権現(早池峯大権現)という権現呼称に秘められた「瀬織津姫命」の名がみえる。この神は、熊野大神でもあると同時に、熊野の滝姫神でもあった。熊野系修験者・宝明院宥永は、やはりよく知っていたものとおもう。
 早池峰大神と熊野大神が同体であること、あるいは深い関係にあることを証する熊野神社が二社あるので、それもみておくことにしたい。
 花巻市石鳥谷町関口に鎮座する熊野神社(現祭神:伊弉諾命・伊弉册命)の由緒は、端的に語っている(『岩手県神社名鑑』所収)。

 往古は、堂宇が小柴森(権現堂山)にあって早池峯大権現と称し、早池峯の霊山遙拝所であった。のち延享二年(一七四五)八月、堂を滝田に、更には鼻上野にとお遷ししたようであるが、この間に山影亀吉なる者、京都三熊野神社より御分霊を勧請したことが記録されている。
 文化三年(一八〇六)現在の鎮座地関口、大法塚に御遷座申し上げ今日に至っている。
 明治三年(一八七〇)四月六日、その筋より社格検分のことがあり、村社に格付された。

小柴森(権現堂山)─手前は早池峰山を水源とする稗貫川
▲小柴森(権現堂山)─手前は早池峰山を水源とする稗貫川

 この熊野神社は、その基層に「早池峯大権現」の祭祀があり、そこに、三熊野神社からの勧請神として伊弉諾命・伊弉册命が新たにまつられたと読める。佐比内・熊野神社は、その新たな勧請者を坂上田村麻呂としていたが、こちらは「山影亀吉なる者」とされる。明治三年に「その筋より社格検分」とあり、この「検分」のとき、おそらく「早池峯大権現」と習合していた神の名は不表示とされたにちがいない。佐比内・熊野神社における「お熊様」に相当する神として、ここでは「早池峯大権現」が語られている。
 同じく石鳥谷町好地にまつられる熊野神社は、熊野大神・薬師大神・稲荷大神の合祭神社で、「参拝のしおり」には、「明治の社寺改革に際し、好地内、三つの神社を合祀」したと書かれる。興味深いのは、熊野大神に関して、次のように説明していることだ。

 天正九年(一五八一)四月十五日、紀州熊野大社の神官代理、熊井佐元が国家安康を祈り分霊を捧持して全国巡回の途次、好地村上好地菊池佐左衛門宅に投宿された。佐左衛門所有地内に安置してあった早池峰山の奇岩に分霊を奉斎し、社殿を建立し崇敬してきた。
 明治になり、この地に遷座合祀したものである。

 紀州熊野大社の分霊・熊野大神を「早池峰山の奇岩」にまつったのが、ここの熊野神社祭祀の源初の姿だと読める。これは、とても興味深い由緒だ。念のためとおもい、社で、この「早池峰山の奇岩」はまだありますかと質問してみたところ、石はないが、社殿は上好地なる地に「本宮熊野神社」として現存しているとのことだ。道順を聞いて、訪ねてみれば、そこには、より詳しい熊野大神鎮座譚(由緒)が書かれている。

上好地熊野神社由緒
  所在地 花巻市石鳥谷町好地第十二地割百四十番地
  祭 神 伊弉諾尊 伊弉冉尊
  例祭日 九月八日~十日
 天正九(一五八一)年四月八日、紀州国(和歌山県)熊野神社の神官代理であった熊井佐元が、国家安康のため分霊を奉持して全国を巡回の折、当地の菊池佐左ェ門宅に宿泊された。
 当時、この地には一つの神殿も無かったため、好地村(現・石鳥谷町好地)の照井大学という人が、早池峰山より同山祭祀の分霊として一つの奇石を佐左ェ門宅の所有地に運んで安置していた。この時、その石に熊野神社の分霊を一時奉安して部落民に参拝させた。
 翌日、熊井佐元は北方に向かって出発したが、間もなく奇瑞[きずい]の祥雲[しょううん]が石上にたなびいて霊験[れいげん]があったため、その旨を佐元に言上して賢覧を願ったところ、これは熊野大神鎮座の瑞祥[ずいしょう]であるとして即時分霊遷宮の式をあげ、同十五日に社殿を建立して奉祭した。そして九月十七日を例祭日とした。〔中略〕
 上好地熊野神社は花巻市、北上市、盛岡市、紫波町、矢巾町の三市二町に散在する陸中八十八ヶ所霊場の二番札所として尊崇を集め、昭和五十六(一九八一)年には地区民や関係者等により鎮座四百年祭が執り行われた。
  御詠歌(陸中八十八ヶ所二番)
 極楽の弥陀の浄土へゆきたくば
   南無阿弥陀仏くちくせにせよ
                 平成二十二年八月吉日
                            上好地地区民一同

本宮熊野神社
▲本宮熊野神社

 祭神が「伊弉諾尊・伊弉冉尊」と表示されているが、それについては、ここでは問わない。先に「早池峰山の奇岩」と書かれていたところは、ここでは「早池峰山より同山祭祀の分霊として一つの奇石」云々とあり、この「奇石」には早池峰大神の「分霊」が宿っていたようだ。その石に「熊野神社の分霊を一時奉安」したという。
 早池峰大神の依り代である霊石(奇石)に熊野大神を「一時奉安」(仮安置)したところ、「間もなく奇瑞の祥雲が石上にたなびいて霊験があった」という。熊井佐元がそれを確かめ、「これは熊野大神鎮座の瑞祥であるとして即時分霊遷宮の式をあげ」たとされる。
 熊野大神の根源には早池峰大神こと瀬織津姫神が秘められている。このことをすでに認識しているわたしたちには、両大神の交感・交歓として「奇瑞の祥雲」が石上にたなびいたものだということが、ごく自然に理解できるだろう。
 ところで、早池峰大神が「石」に宿る神でもあることを告げているのが、紫波郡矢巾町土橋に鎮座する早池峯神社である。境内案内には、次のようにある。

早池峯神社
通 称  新山社    旧社格 村社
鎮座地  紫波郡矢巾町大字土橋第五地割字新山野四十番地
祭 神  瀬織津姫命  例祭 八月十七日
由 緒
 本神社は平安時代前期延暦十四年(七九五)に三柱の姫神を新山大権現として、創祀したと伝えられ、古より土橋地域また地域を超えて広く崇敬されている。社地広大で樹木鬱蒼と繁茂し、参拝者は自から荘厳の気に満たされる。往古社殿のない時代の斎場と推察される岩石三箇が本殿の後方にあり、社殿のない神社の神跡を今に伝える当地方稀に見る古跡である。〔中略〕
略縁起
「そもそも新山大権現の本地を申し伝え奉れば、人皇五十代桓武天皇延暦十四年(七九五)乙亥三月十七日三柱の姫神天降り坐し坐す。新山と申すは、古き松杉苔むし老木の枝にはつる草茂り、かすかに、洩月の見える、木魂ひびき鳥の声あたかも深山幽谷の如し、南に北上川の底清く水音高くして御手洗水の雲井に栄え、登る月影浪に光を浮べ、北は千尋に余る広野に萩薄生い繁り、是を名付けて新山野と申すなり。四方青垣山にして宮殿棟高く御床津比の動き鳴る事なく、豊明に明らむ坐しまして、祢宜の振鈴弥高く声あらたし、今も生え茂変らぬ三ツの石あり三柱姫神達鎮座坐す也故是を影向三神石と申す也……」略
 この略縁起は天保十年(一八三九)に当社再建の際写されたものである。

 ここには、謎の「三柱の姫神」が新山大権現として降臨したとある。また、「岩石三箇が本殿の後方にあり」とあるが、天保十年の「略縁起」では、「三ツの石あり三柱姫神達鎮座坐す也故是を影向三神石と申す也」とも書かれている。三柱姫神が「三ツの石」に降臨・鎮座したとあるにもかかわらず、本殿背後には四つの石がみられ、それと対応するかのように、第四の神(総称神)として当社祭神を「瀬織津姫命」一柱としている。また、創祀年代の是非はおくとして、「三柱の姫神を新山大権現として、創祀した」とあるものの、明治期以降、その社号を新山神社ではなく早池峯神社としている。

土橋・早池峯神社【社頭】
▲土橋・早池峯神社【社頭】

土橋・早池峯神社【拝殿】
▲土橋・早池峯神社【拝殿】

土橋・早池峯神社【本殿真裏の影向石】
▲土橋・早池峯神社【本殿真裏の影向石】

 この謎の三柱姫神とはどのような神かを由緒はついに語らないが、それらが「瀬織津姫命」一柱に総称されているのは、これも重要である。ここには、由緒創作者の暗黙の主張が込められているようにみえる。
 宝暦九年(一七五九)、南部藩は藩内の寺社調べをし、由緒・祭神等を書き出させている(『御領分社堂』)。そこでは、社号は「早池峰山新山」と書かれ、祭神は不明記ながら、その本地仏を、十一面観音・阿弥陀如来・薬師如来の三体、別当の名は円寿坊としている(『紫波郡の神社史』所収)。
 円寿坊は院号を蓮寿院といい、熊野「本山派」の修験者であったようだが、それと関連するように、熊野三山の本地仏、つまり、十一面観音(熊野那智宮)、阿弥陀如来(熊野本宮)、薬師如来(熊野新宮)を自社の神体仏としていた。それらが三柱姫神の「三」数字に対応していて、それらの総称神として「瀬織津姫命」と主張している。早池峰大神と熊野大神が異神ではないことを、まさに雄弁に語っていたといえよう。
 江戸時代の紀行家として知られる菅江真澄は、その旅の目的を「日本国内のすべての古い神社を拝み巡って、幣[ぬさ]を奉りたい」と記していた(「伊那の中路」)。真澄の旅の志向は蝦夷地(現在の北海道)・奥羽をめざしていて興味深いが、彼は北上川流域も歩いている。天明五年(一七八五)九月十三日、花巻の医者・伊藤修宅に逗留していたとき、東にみえる早池峰を仰ぎ礼拝し、伊藤から、早池峰には瀬織津姫がまつられていることを聞いて書き留めている(「けふのせば布」)。

本社早池峰神社の社標
▲本社早池峰神社の社標

 明治維新のとき、当局による「社録没収」を蒙り、ために自前の由緒を一切もたない遠野・早池峯神社である。社標や由緒で「本社早池峰神社」と「本社」をうたうも、祭神を自前の由緒によって語ることができないままにきている遠野・早池峯神社である。しかし、早池峰山の分霊社としてある、早池峰信仰圏の新山神社の多くが、早池峰大神とはなにかを明言している。菅江真澄の証言もある。本稿でふれなかった新山神社はまだあるが、これらは、沈黙を抱える遠野・早池峯神社への「応援」とみてよく、同社が、決して孤立していなかったことは明らかである。
 始閣本家の分家とはいえ鈴木家が現存し、かつての新山宮の麓に今も生活を営んでいる。早池峰大権現(=十一面観音)こと瀬織津姫神を語る鈴木氏の口調に、澱みも衒[てら]いもない。しかし、最後に、わたしには一つの疑問がぬぐえないでいることも書いておかなければならない。それは、円仁たちがやってくる前、藤蔵親子は山麓のどこで神まつりをしていたのか、あるいは、遙拝の場所をどこに設けていたのかということである。
 円仁たちが妙泉寺を建立した場所、つまり、現在の早池峯神社の位置は、社殿背後(真北の方向)に薬師岳(かつての前薬師・鶏頭山)と早池峰山(かつての東峰)が重なるように聳えていて、この一直線に伸びる信仰ラインは山岳遙拝の王道ラインをつくっている。妙泉寺の創建と同時につくられた新山宮の位置は、この王道ラインからはずれているし、社殿跡の神域空間にしても決して広いものではなかったという。
 妙泉寺文書はよく語らないが、藤蔵が最初に山岳遙拝の場所を設けたところへ、円仁たちがやってきて、そこに妙泉寺がつくられたのではなかったか──。妙泉寺文書や村誌の由緒は、円仁の「命」によって、長円坊(藤蔵の長子)は、新山宮の社家(社人)に専念することになったとしている。わたしの疑問あるいは仮説がいささかでも真にふれているとするならば、明治期に妙泉寺が廃寺となり、この寺の位置に新山宮から遷宮して現在の早池峯神社となるという経緯を考えると、これは、藤蔵たちによる最初の神祭地(早池峰山遙拝の地)にもどったということになる。円仁たち天台宗徒が、寺を建立するにあたって、それが宮寺(神宮寺)であるときはいうまでもないが、そこには先行する神まつりがあったはずである。彼らが寺を創建するにあたって、白紙の霊地を選定するとは、やはり考えにくいのである。
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