月の抒情、瀧の激情
自由な思索空間──「月の抒情、瀧の激情」へようこそ。
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夷民祭る所の神、お熊様──田村麻呂伝説の解読へ
伊沢不忍『慈覚大師と東北文化』(山寺村役場)によれば、円仁の開基・中興伝承をもつ東北地方の寺院は一六二寺が数えられるとのことである(佐伯有清『円仁』吉川弘文館)。
円仁関係の寺院が東北地方に一六二寺みられるというのは、途方もない数字であろう。しかし、ほんとうに途方もないのは、これが「寺院」に限定されたものにすぎず、神社に関する円仁伝承の数字が、ここには含まれていないということを指摘できるようにおもう。最澄─円仁の時代は、神を仏に置き換えるという権現化の祭祀思想、あるいは本地垂迹の祭祀思想の勃興・隆盛期といってよく、これは、神が仏の背後に隠れる(隠される)ということを意味していた。可視的な現象としては、神社に寺院が付属する、あるいは逆に、寺院に神社が付属するというように、総じていえば、神社が寺院化する姿を現出させたのだった。それまで、神は目には見えないもの、自然の万象と一体だったもの、その拝所あるいは神の宿る所(神籬・磐座)へ、これが神の具体的な姿だとして置かれた「仏像」をみた(みさせられた)庶民の初見の驚愕を想像してみるとよい。
東北地方に神仏習合(権現)の思想をもって初めてやってきたのは、会津・磐梯山麓の慧日寺を本拠とした徳一だったが、東北地方全体に神仏習合・権現思想を組織的に移植していった、いいかえれば神仏習合という「神隠し」を組織的に実践したのは、円仁の名を標榜する比叡山・天台宗徒たちだった。
ところで、この象徴としての「円仁」の名を冠する寺社の途方もない数に匹敵するものとして、坂上田村麻呂の名、あるいは田村麻呂による寺社の創祀伝説の多さがある。及川洵『阿弖流為と田村麻呂伝説』(胆江日日新聞社)は、「坂上田村麻呂勧請・関連寺社」として、全国にわたる寺社の「概数」との断り書きを記すも、そこには、円仁関係寺院を凌ぐほどの数の寺社が列挙されている。この探査の労には敬服するしかない。及川氏の労作をみれば一目瞭然なのだが、「坂上田村麻呂勧請・関連寺社」の多さが東北地方に集中していることはいうまでもない。氏の著作から、田村麻呂関係寺社を東北六県に限定して抽出すれば、以下のような数字がみられる。
青森県──69
秋田県──71
岩手県──140
山形県──12
宮城県──68
福島県──54
合計414寺社
田村麻呂による「勧請・関連寺社」が、東北地方のなかでも特に岩手県に突出した多さを示している。『続日本紀』延暦八年(七八九)六月九日条には、「胆沢の地は、賊奴の奥区なり」、「また、子波[しわ]、和我[わが]は僻[さ]りて深奥に在り」という朝廷側の認識が書かれている。これら、朝廷側の支配が及ばない地域として記された胆沢・子波(志和)・和我(和賀)の地、なかでも胆沢地方を本拠とし、延暦八年から二十一年(八〇二)の十三年にわたって朝廷軍との激戦を生きたのが「賊師[ぞくすい]夷[えみし]阿弖流為[あてるい]」(『続日本紀』延暦八年六月三日条)だった。最後は征夷大将軍・坂上田村麻呂によって征定されることになる胆沢地方だが、胆沢・子波(志和)・和我(和賀)を含む岩手県に、田村麻呂による「勧請・関連寺社」が特に多くみられる、と一応はいえるようにおもう。
田村麻呂は、朝廷支配の前線基地として胆沢城を築き(延暦二十一年一月)、さらに北上して志和城を築いている(延暦二十二年二月~三月)。志和城は、現在の盛岡市内を流れる雫石川と北上川の合流部、雫石川の右岸(南岸)に造られた城で、田村麻呂の軍事的足跡の北限として、この志和城造営がある。

▲復原された志和城【築地塀と櫓】

▲復原された志和城【外郭南門】
しかし、田村麻呂の軍事的足跡を確認できない青森県や秋田県などにまで田村麻呂による「勧請・関連寺社」があり、蝦夷の地に対する軍事的支配と信仰支配には時間差があると考えるのが自然であろう。高橋崇『坂上田村麻呂』(新稿版、吉川弘文館)のことばを借りれば、「田村麻呂建立寺社伝説は、田村麻呂本人の与[あずか]り知らぬこと」というのはそのとおりにちがいない。
では「田村麻呂建立寺社伝説」を東北地方全体に広めたのはだれかという問いが浮かぶ。高橋氏は「一体、東北地方に、このような寺社が多数存在することはいかなる事情によってであろうか」と正統な問いを立て、奥浄瑠璃等にみられる田村麻呂伝説を含めて、その伝播者を、次のように推測している。
伝説の分布が東北地方に広くおよんでいるところから考えれば、浄瑠璃を語り歩くことを生業としたものがいたのであろうし、また、清水寺系統の僧徒によって、あるいは、東北には慈覚大師の開山と伝わる寺院も多いことからすると、天台宗系統の僧侶によっても、観音信仰や毘沙門堂建立などが広められ、伝説と信仰とが結びついてますます田村麻呂は東北地方の人々の心に根強く住みついてきたのであろう。
時代が下った浄瑠璃などの口承文芸世界が、田村麻呂による蝦夷・鬼神討伐譚として奇抜な「物語」として仮構されることと、寺社縁起にみられる田村麻呂伝説は深い円環関係をもっているものの、その意図するところは微妙に異なる。特に奥浄瑠璃「田村三代記」の文芸世界には、創作者の自由な想像力が駆使されていて、いわば庶民の側の反骨精神の投影がみられる。したがって、寺社における田村麻呂伝説の縁起化とは分けて考える必要があるようだ。
東北地方の寺社縁起に田村麻呂伝説がかくも多いことは一考に値する。高橋氏の指摘に沿っていうならば、田村麻呂の氏寺として建立された「清水寺系統の僧徒」が東北地方全体に関与することはありえないといってよい。東北全域への宗教的関与者をみようとするならば、それは慈覚大師(円仁)を戴く「天台宗系統の僧侶」以外にはいないということになろう。
山折哲雄『仏教信仰の原点』(講談社学術文庫)は、「坂上田村麻呂と慈覚大師」の項を設け、そこで、次のように述べている。
修験道といえば、出羽三山信仰が有名ですが、さきの山寺や中尊寺、または徳一が拠った会津の恵日寺をはじめ、東北の山岳仏教の発展は、大なり小なり天台宗の勢力に組み込まれていたのであり、それは慈覚大師の東北行脚という伝承と結びついて、東北に独特の宗教風土を生み出すことになったのではないでしょうか。
このような、東北における慈覚大師の伝承は、何らかの形で征服された土地の霊と犠牲者になった人びとの死霊を祈り鎮めるための宗教政策を反映していたのではないか、と私は考えたいのです。慈覚大師が実際に東北の各地を巡歴したのかどうか、という問題は別にして、そこには、エゾ─東北の地を中央の権力が掌握していくなかで生みだされた政治と宗教の相互補完的な関係がみられるのではないか。
すなわち、坂上田村麻呂と慈覚大師は、それぞれ軍事的征服と宗教的鎮撫を象徴する伝説的な人物とされ、やがて東北の歴史に強烈なイメージを与えることになった。「征服」と「鎮魂」というドラマが、そういう伝説やイメージを生みだしたということです。
田村麻呂による「軍事的征服」と慈覚大師(円仁)による「宗教的鎮撫」「鎮魂」、あるいは「政治と宗教の相互補完的な関係」が指摘されている。文中、山折氏は「エゾ─東北の地」と呼んでいるが、田村麻呂─円仁の時代には蝦夷を「エゾ」と呼ぶことはなく、ここには、エミシからエゾへと変遷する歴史問題に無自覚な学問的姿勢が垣間見えている。
この学問的な「甘さ」は、「軍事的征服」のあとに「宗教的鎮撫」「鎮魂」を補完するといった見方にも表れているようにおもう。なぜならば、「軍事的征服」のあとに、その地(の民)を支配するには、「宗教的征服」(信仰的征服)がつづくというのが必然的な流れだからである。一方的な侵略・殺戮のあとに、「土地の霊と犠牲者になった人びとの死霊を祈り鎮めるための宗教政策」がとられるというのは、きれいごとというべきか、支配者側の勝手な論理というしかなく、それを「鎮撫」といっても「犠牲者になった人びとの死霊」が慰撫されるものではない。生き残った民は、少なくともそういった心中の固着(沈黙)を抱えているはずである。
見える血が流されたあと、次には見えない血が流される──、それが宗教的征服(信仰的征服)の意味だろう。しかし、「鎮撫」という名の新たな征服をいうも、山折氏が「犠牲者になった人びとの死霊」だけではなく「土地の霊」をも、その対象としていたのは慧眼だった。この「土地の霊」は、蝦夷の民がそれまで信奉してきた「神」と置き換えても同じことだ。
朝廷軍の侵略・支配の現実を正義・善の行為であったとみなすように、民への信仰的教化を実践するのは、武人・田村麻呂の任ではない。この「教化」を今ふうのことばでいいかえれば、おそらく「マインドコントロール」とでもなろうが、田村麻呂が朝廷の正義・善の体現者であり、それに抵抗した蝦夷の長[おさ]たちが一様に非道・悪の体現者として説話化あるいは縁起化されるには、そこには、ことばに長けた者、つまり、知識人・宗教者の媒介・誘導があったはずである。円仁(たち天台宗徒)は、「田村麻呂本人の与[あずか]り知らぬこと」をよく承知していながら、東北各地の寺社縁起を、田村麻呂の名を利用して創作していったものとおもう。天台宗徒たち護国仏教の徒輩は、庶民(蝦夷の民)の信仰(共同幻想)が「神のまつり」に集約されていることをよく見定めていた。
明治期初頭の神仏分離から廃仏思想の席巻の過程で、それまでの「お堂」や寺院が神社化したとき、仏教徒・円仁の名も廃され、坂上田村麻呂の名だけが神社の縁起・由緒書に残されたケースは多かったにちがいない。あるいは、田村麻呂勧請を新たに縁起創作化したものもあっただろうが、それらの総計として、わたしたちは現在、おびただしい縁起・由緒書に坂上田村麻呂の名を眼にしている。
ところで、「田村麻呂建立寺社伝説」において、寺院については、田村麻呂創建のあと円仁がやってきて本尊を彫りおいたといった縁起が語られることが散見されもする(達谷窟・西光寺など)。田村麻呂創建伝説をもつ寺院は別にふれるとして、ここで神社由緒に田村麻呂伝説を読もうとすると、そこには二つのパターンがあることに気づく。
一つは、これが圧倒的に多いのだが、蝦夷征討を○○の神に祈願、それが達成したので当地に当該の神をまつったというもの。二つは、田村麻呂の勧請縁起とすることなく、すでにまつられていた神に田村麻呂が蝦夷征討の必勝祈願をしたというもの。前者は、自社の創建由緒を田村麻呂伝説にまるごと依拠したものだが、後者は、蝦夷の民がまつる神(の存在)を縁起上から消去していないもので、少例ではあるものの、貴重な由緒表現とみることができる。
後者の一例として、岩手県紫波郡紫波町佐比内に鎮座する熊野神社をみてみる。この神社の由緒については、簡略ながら、『紫波郡誌』(大正十五年)が参考になる。同書には、次のように書かれている。
熊野神社 佐比内村字田神に鎮座の村社で伊弉諾命・伊弉(册)命を祭る。由緒によれば、田村将軍東征の砌り、当村松田山大峯に夷民祭る所の神、お熊様と称するものに右二柱を勧請したりと称して居る。
この熊野神社の源初の姿としては、「夷民祭る所の神、お熊様」の祭祀があった。由緒は、この「お熊様」がまつられていたところへ、田村将軍(坂上田村麻呂)が伊弉諾命・伊弉册命を勧請したという。現地・熊野神社の由緒表示板には、「延暦二十年、坂上田村麻呂征夷大将軍として東下し、神田山の丘に陣営せしが、当地大峰の丘にお熊様と称するあり、将軍同地に神殿を造営し二柱の神(伊弉諾命・伊弉册命)を共に合祀せり」と書かれる。
ただし、現地の由緒表示板ほか、たとえば『岩手県神社名鑑』(岩手県神社庁)にしても、郡誌記すところの「夷民祭る所の神、お熊様」は、ただの「お熊様」とされ、「夷民祭る所の神」というくっきりとした性格は曖昧化されている。
熊野神社の現祭神としては、「お熊様」に田村麻呂が「合祀」したとする伊弉諾命・伊弉册命が表示されるのみで、大元の「夷民祭る所の神、お熊様」については、その祭神説明を一切不問に付すかのように無視している。つまり、「夷民祭る所の神、お熊様」については、暗に「祭神不詳」をいいたがっていると読むしかないようだ。
しかし、もとより、この熊野神社に、田村麻呂が伊弉諾命・伊弉册命を勧請・合祀したというのは後世の付会というべきで、ここには、田村麻呂の名のもとに伊弉諾命・伊弉册命の新祭祀の正当性が語られているにすぎない。そもそも、「夷民祭る所の神、お熊様」とは、いったいどのような神であったのかという問いは残るはずである。
現在の熊野神社については、同社境内由緒は「慶長十年(一六〇五)氏子相謀り大峰より神田館跡に遷座せり」とし、遷座後、四百年以上の時間を経ていて、それなりに地元に定着しているのだろう。
文献上の限界がみえたならば、現地に足を運んで自身の眼で確かめてみるというのは、幾層にもわたって神封じがなされたきた日本の神まつりの歴史世界を読むときの基本・鉄則というのが、わたしの密かな持論である。郡誌をはじめとする由緒は、「夷民祭る所の神、お熊様」は、もともと佐比内村の「松田山大峰(大峰の丘)」なる地にまつられていたという。しかし、手元の地図帳には、そういった地名はみあたらず、やはり探索行をしてみるしかなさそうだ。

▲熊野神社【遠景】




▲熊野神社
慶長十年(一六〇五)に「遷座」して新たにまつられた熊野神社は、小高い山の中腹(「神田館跡」)にあってすぐにわかる。参道も社殿も立派に整備されていて、当地の熊野信仰が、この新社殿に「遷」っていることをよく証している。当社の参道を歩いて気づくのは、湯殿山あるいは出羽三山の石碑の多さで、ここには、羽黒修験の末派修験者・山伏がいて、土地の人々を出羽三山へと参詣案内していた名残りとおもわれる。
しかし、この新しい熊野神社には「夷民祭る所の神、お熊様」はいない。元社地の場(「大峰の丘」)を地元で尋ねると、記憶している人は少ないようだったが、それでも、熊野神社から二キロほど離れた「新山」という小山がそこだという。
大峰という表記はないが、新山ならば地図帳に確認できる(標高二五二㍍)。麓の人によれば、この新山にはまだお堂があるとのこと、また、長年にわたってたった一人でこのお堂を守っている八十過ぎの女性(東北・遠野のことばでいえば「バッチャ」で、以下これをつかう)がいるとのことで訪ねてみた。そのバッチャによると、こちらの「お熊様」も「熊野様」とのことで、どうやら、ここには熊野の古い神様がまつられているらしい。
熊野の本源神(古い神様)が、早池峰神でもある瀬織津神であることの考証はここでは繰り返さないが(「室根山祭祀と円仁──業除神社・瀬織津姫神社・御袋神社が語ること」参照)、こういった一般になじみがあるとはいえない瀬織津姫神の探究、その談議のことばが、最終的に生きるも死ぬも、このバッチャの思いを、どこまで汲めているかどうかに関わっているのだろう。
最近は足を悪くして山に登れないというバッチャから、お堂への登り口を聞き、腰に熊除けの鈴を付けて歩きはじめた。この「お熊さま」のほかになにか神様の名は伝わっていますかとのわたしの質問にいいえとのことだったが、それはそれでかまわない。

▲新山

▲お熊様への鳥居

▲お熊様【社殿】

▲お熊様【扁額──真山大権現】

▲お熊様【祠】

▲お熊様【棟札】
山道の行き止まりのゆるやかな斜面に、小さなお堂はたしかにあった。近づいてみると、意外なことに、扁額には「真山大権現」と書かれている。お堂(覆い屋)の扉を開けてみると祠があり、そこには鏡が置かれ、その背後に一枚の棟札が納められている。いちばん上に梵字らしき字(判読不明)が書かれ、その下に、以下のような文字が読み取れる。
大行事 持國天 廣目天
奉再興新山大権現堂宮造二尺四面一宇成就處
小行事 増長天 多門[ママ]天
ここには、仏教の守護神とされる四天王を脇に配して「新山大権現」と呼ばれる神がいるらしい。それが「お熊様」かどうかをやはり確認する必要があり、バッチャを再訪して尋ねてみれば、たしかに、シンザンさんが「お熊様」だという。
新しい熊野神社の境内案内には、「当地大峰の丘にお熊様と称するあり、将軍(坂上田村麻呂)同地に神殿を造営し二柱の神(伊弉諾命・伊弉册命)を合祀せり」と、郡誌と同内容の由緒が書かれていた。しかし、この「お熊様」のまつられる地を訪ねてみればわかるが、ここの祭祀は田村麻呂時代(延暦時代)に溯る古さはないし、ましてや、田村麻呂が「神殿を造営」する余地も、その必然性もない。
まさに「田村麻呂建立寺社伝説は、田村麻呂本人の与[あずか]り知らぬこと」を実地で確認したようなものだが、それにしても、ここには、田村麻呂の名を騙って「二柱の神(伊弉諾命・伊弉册命)」をまつり、それを熊野神社と称した者がかつていたとはいえるだろう。もっとも、熊野神社の祭礼時には神輿が新山の麓まで神幸するという行為があり(佐比内公民館館長談)、それなりに「お熊様」への尊意がみられることも付記しておくべきかもしれない。
とはいえ、新しく熊野神社が遷座・造営され、元地に置いてきぼりをくったことになる「お熊様」である。それが、「新山大権現」という権現称をもっていることは重要にみえる。この「新山」の「新」が、単純に新旧の新でないことは、「お熊様」が熊野神社の元社であることからいえるし、その元社の認識が新山大権現を「真山大権現」と扁額表示することにも表れている。
この新山=真山という認識がみえることは、大きな示唆を与える。若宮神や客人[まろうど]神が、字面とは真反対に、そこに新しくまつられた別神に対して、元からの産土神・地主神であるのと同じ意味が、この「新山」にはあるようだ。
江戸時代まで新山権現あるいは新山堂・新山寺だったものが、明治期以降、新山神社を名乗り、それが東北地方になぜか集中している。九戸郡九戸村の新山神社の由緒が、興味深い指摘をしている(『岩手県神社名鑑』所収)。
元新山権現と称し、創立は天文二十三年(一五五四)八月十二日治部大夫源長行大檀那となり、紀伊熊野より分霊を迎えて、瀬月内川沿新山を創祀す。新山神社は東北地方に特徴的な古社で、当社の由来も近世にいたり古代信仰が継承発展し、更に熊野権現信仰と習合して新山権現として祀られ、九戸氏及びその別れの江刺家氏の尊崇を受け、後南部藩知以降も江刺家鎮守として崇敬を厚くして来た。〔後略〕
九戸村・新山神社は、戦前までの祭神を「熊野大神」としていたが(昭和十四年『岩手県神社事務提要』)、戦後現在は「伊邪奈美命」と表示している(『岩手県神社名鑑』)。その表示変遷のことはともかく、「新山神社は東北地方に特徴的な古社」で、近世になると「熊野権現信仰と習合して新山権現として祀られ」というのは、佐比内・熊野神社にもあてはまるようだ。しかし、より重要な指摘は、新山権現が「古代信仰」に関わる「神」を内在させているということだろう。
ところで、古代信仰の継承・発展という考え方を佐比内・熊野神社を対象として吟味してみるならば、新しい熊野神社に「お熊様」(古代信仰)の祭祀上の継承はみられず、そこには継承というよりも、むしろ断絶が際立っている。古祭祀・新祭祀がともに熊野神をまつるというとき、ここにみられる発展の概念には、祭神の変質あるいは置き換えはあっても、発展としては説明しえないのではないか。「伊弉諾命・伊弉册命」を新たにまつり、それが新しい氏神として受容され、社殿も豪壮となることをもし発展というならば、それは、「お熊様」をただ一人で守りつづけてきたバッチャの信仰・思いを切り捨てた上での「発展」ということになる。せめて、「お熊様」を奥宮として位置づけ、こちらも同様に社殿・参道等の整備をしても、けっしてバチはあたるまい。
くりかえすが、佐比内における「お熊様」に「伊弉諾命・伊弉册命」を合祀したのは、決して田村麻呂でも、その時代でもない。いや、「お熊様」の創祀そのものにしても、田村麻呂時代にまで溯るものではないとみてよい。ここには、円仁の名はないものの、円仁たち天台宗徒がかつて東北各地に移植していった、いわば日本型天台宗がもつ護国思想(天皇の国家を護ることを標榜する信仰上の思想)が一人歩きしている姿は確認できる。江戸期まで、熊野神社には宮寺(神宮寺)が付随していたが、明治期初頭の神仏分離によって廃寺となり、現在、その本尊仏も縁起類も確認できない。
明治近代にはじまる神道の国教化は、そのヒエラルキーの頂きに伊勢神宮を据え、これは天皇を国教化することの補完を意味していて、そういった意図のもとに全国の神社大系を確立せんとするものだった。国民が天皇の民(赤子・臣民)となることが宣揚され、自ら「夷」であることを国民自身が忌避するような信仰政策が全国化されてゆく。この国家神道の思想は、昭和二十年の敗戦においても内省・自己批判されることはなく、戦後の神社本庁・神社庁の思想へと無疵のままスライドして存在している。伊勢神宮を「本宗」と仰ぐこと──、神社本庁は自らの思想を表明することをはばからない。それが、現在の「神社神道」の内実である。「夷民祭る所の神」が由緒から削除される理由をいえば、かつて、天皇の国家に服さない思想を生きていたのが「夷民」(蝦夷の民)であり、そのような中央的蝦夷観に無意識的に同化した結果であろう。
范曄『後漢書』訓伝は、王道政治の覇権行為として「以夷制夷」(夷を以て夷を制す)を非道として厳しく戒めているが、古代日本の王権国家は、そういった自戒をもたぬ覇権主義に終始するという歴史をもっている。田村麻呂たち「官軍」に動員された兵卒も「夷」、それらと戦った陸奥・日高見国の戦士・民も「夷」、そして征討後、あるいは征討過程において植民されてきた者も「夷」である。
この「夷を以て夷を制す」の戦闘における双方の死者の鎮魂と救いを、浄土信仰にみようとした蝦夷最初の棟梁が、奥州藤原氏の第一代・藤原清衡といえよう。『出羽三山史』(出羽三山神社発行)は、次のように書いている。
長治二年頃から中尊寺を建立、その盛んな時には寺塔四十余宇、禅坊三百余宇を数へたといはれる。
彼(藤原清衡)の神仏に対する信仰は、父(藤原経清)の悲惨な死や、一族の離散で幼年の頃からつぶさに人生の辛酸をなめた事によつて深められた。寺塔の建立が前九年と後三年の戦乱に倒れた敵味方に対する恩讐を超へた戦歿者を弔ふ心に出た事は、中尊寺の経蔵に伝へられた天治三年の願文に依つても推察することが出来る。
羽黒山はこの平泉の藤原氏を大坦那とし、深い崇敬を受けて、その繁栄を得たと思はれる事は羽黒の旧記に伝ふるところである。
藤原清衡の母は安倍頼時の娘で、父・経清はその縁もあって、前九年の役では安倍軍に加担する。清衡には蝦夷・安倍氏の血が流れていて、それが孫の秀衡にまで、神仏の加護による浄土の実現の夢を走らせることになる。ちなみに、秀衡の母は、前九年の役で経清とともに斬刑に処された安倍貞任、その弟・宗任の娘である。宗任は投降して捕虜となり九州へ配流されていたが、宗任の娘が基衡(秀衡の父)に嫁していることに、安倍氏─藤原氏の絆の強さを端的に読むことができよう。
安倍氏から平泉・藤原氏へと「夷民祭る所の神」への信奉は一貫していて、これもあとでふれることになる。また、「羽黒山はこの平泉の藤原氏を大坦那とし、深い崇敬を受けて、その繁栄を得た」との伝承が書かれていたように、藤原氏と羽黒権現との信仰的親交は、これもあとでみることになるが、「新山」祭祀とも無縁ではないふしがある。
ともかく、「夷」の民の末裔としてあるのは、なにも東北の民ばかりではないのだが、自ら「夷」の民の末裔であることを忘れたがっている国民意識はどこか危ういようにおもえる。敗者の文化・信仰史を切り捨てるのではなく、汲んでこそ未来に活かすことができるのではないか。
「夷」は「東夷」の意味でもあるから、「夷民祭る所の神、お熊様」の「夷民」は、東国の、王権思想とは無縁に生きている(生きてきた)「庶民」を指すにすぎない。ちなみにいえば、西国の「夷民」は熊襲・隼人に相当するだろう。わたしが「お熊様」の背後に想定している神は、熊襲・隼人が祭る所の神でもある可能性がすこぶる高い。
さて、ちっとも新しくないのに、この「お熊様」は「新山大権現」とのことだ。しかも、新山は真山とも書かれていた。この権現あるいは新山堂が、明治期以降に神社化した「新山神社は東北地方に特徴的な古社」とされる。
新山祭祀は多くの謎を秘めているようだ。それが、「東北地方に特徴的」にみられるとすれば、それはなぜなのか?
円仁関係の寺院が東北地方に一六二寺みられるというのは、途方もない数字であろう。しかし、ほんとうに途方もないのは、これが「寺院」に限定されたものにすぎず、神社に関する円仁伝承の数字が、ここには含まれていないということを指摘できるようにおもう。最澄─円仁の時代は、神を仏に置き換えるという権現化の祭祀思想、あるいは本地垂迹の祭祀思想の勃興・隆盛期といってよく、これは、神が仏の背後に隠れる(隠される)ということを意味していた。可視的な現象としては、神社に寺院が付属する、あるいは逆に、寺院に神社が付属するというように、総じていえば、神社が寺院化する姿を現出させたのだった。それまで、神は目には見えないもの、自然の万象と一体だったもの、その拝所あるいは神の宿る所(神籬・磐座)へ、これが神の具体的な姿だとして置かれた「仏像」をみた(みさせられた)庶民の初見の驚愕を想像してみるとよい。
東北地方に神仏習合(権現)の思想をもって初めてやってきたのは、会津・磐梯山麓の慧日寺を本拠とした徳一だったが、東北地方全体に神仏習合・権現思想を組織的に移植していった、いいかえれば神仏習合という「神隠し」を組織的に実践したのは、円仁の名を標榜する比叡山・天台宗徒たちだった。
ところで、この象徴としての「円仁」の名を冠する寺社の途方もない数に匹敵するものとして、坂上田村麻呂の名、あるいは田村麻呂による寺社の創祀伝説の多さがある。及川洵『阿弖流為と田村麻呂伝説』(胆江日日新聞社)は、「坂上田村麻呂勧請・関連寺社」として、全国にわたる寺社の「概数」との断り書きを記すも、そこには、円仁関係寺院を凌ぐほどの数の寺社が列挙されている。この探査の労には敬服するしかない。及川氏の労作をみれば一目瞭然なのだが、「坂上田村麻呂勧請・関連寺社」の多さが東北地方に集中していることはいうまでもない。氏の著作から、田村麻呂関係寺社を東北六県に限定して抽出すれば、以下のような数字がみられる。
青森県──69
秋田県──71
岩手県──140
山形県──12
宮城県──68
福島県──54
合計414寺社
田村麻呂による「勧請・関連寺社」が、東北地方のなかでも特に岩手県に突出した多さを示している。『続日本紀』延暦八年(七八九)六月九日条には、「胆沢の地は、賊奴の奥区なり」、「また、子波[しわ]、和我[わが]は僻[さ]りて深奥に在り」という朝廷側の認識が書かれている。これら、朝廷側の支配が及ばない地域として記された胆沢・子波(志和)・和我(和賀)の地、なかでも胆沢地方を本拠とし、延暦八年から二十一年(八〇二)の十三年にわたって朝廷軍との激戦を生きたのが「賊師[ぞくすい]夷[えみし]阿弖流為[あてるい]」(『続日本紀』延暦八年六月三日条)だった。最後は征夷大将軍・坂上田村麻呂によって征定されることになる胆沢地方だが、胆沢・子波(志和)・和我(和賀)を含む岩手県に、田村麻呂による「勧請・関連寺社」が特に多くみられる、と一応はいえるようにおもう。
田村麻呂は、朝廷支配の前線基地として胆沢城を築き(延暦二十一年一月)、さらに北上して志和城を築いている(延暦二十二年二月~三月)。志和城は、現在の盛岡市内を流れる雫石川と北上川の合流部、雫石川の右岸(南岸)に造られた城で、田村麻呂の軍事的足跡の北限として、この志和城造営がある。

▲復原された志和城【築地塀と櫓】

▲復原された志和城【外郭南門】
しかし、田村麻呂の軍事的足跡を確認できない青森県や秋田県などにまで田村麻呂による「勧請・関連寺社」があり、蝦夷の地に対する軍事的支配と信仰支配には時間差があると考えるのが自然であろう。高橋崇『坂上田村麻呂』(新稿版、吉川弘文館)のことばを借りれば、「田村麻呂建立寺社伝説は、田村麻呂本人の与[あずか]り知らぬこと」というのはそのとおりにちがいない。
では「田村麻呂建立寺社伝説」を東北地方全体に広めたのはだれかという問いが浮かぶ。高橋氏は「一体、東北地方に、このような寺社が多数存在することはいかなる事情によってであろうか」と正統な問いを立て、奥浄瑠璃等にみられる田村麻呂伝説を含めて、その伝播者を、次のように推測している。
伝説の分布が東北地方に広くおよんでいるところから考えれば、浄瑠璃を語り歩くことを生業としたものがいたのであろうし、また、清水寺系統の僧徒によって、あるいは、東北には慈覚大師の開山と伝わる寺院も多いことからすると、天台宗系統の僧侶によっても、観音信仰や毘沙門堂建立などが広められ、伝説と信仰とが結びついてますます田村麻呂は東北地方の人々の心に根強く住みついてきたのであろう。
時代が下った浄瑠璃などの口承文芸世界が、田村麻呂による蝦夷・鬼神討伐譚として奇抜な「物語」として仮構されることと、寺社縁起にみられる田村麻呂伝説は深い円環関係をもっているものの、その意図するところは微妙に異なる。特に奥浄瑠璃「田村三代記」の文芸世界には、創作者の自由な想像力が駆使されていて、いわば庶民の側の反骨精神の投影がみられる。したがって、寺社における田村麻呂伝説の縁起化とは分けて考える必要があるようだ。
東北地方の寺社縁起に田村麻呂伝説がかくも多いことは一考に値する。高橋氏の指摘に沿っていうならば、田村麻呂の氏寺として建立された「清水寺系統の僧徒」が東北地方全体に関与することはありえないといってよい。東北全域への宗教的関与者をみようとするならば、それは慈覚大師(円仁)を戴く「天台宗系統の僧侶」以外にはいないということになろう。
山折哲雄『仏教信仰の原点』(講談社学術文庫)は、「坂上田村麻呂と慈覚大師」の項を設け、そこで、次のように述べている。
修験道といえば、出羽三山信仰が有名ですが、さきの山寺や中尊寺、または徳一が拠った会津の恵日寺をはじめ、東北の山岳仏教の発展は、大なり小なり天台宗の勢力に組み込まれていたのであり、それは慈覚大師の東北行脚という伝承と結びついて、東北に独特の宗教風土を生み出すことになったのではないでしょうか。
このような、東北における慈覚大師の伝承は、何らかの形で征服された土地の霊と犠牲者になった人びとの死霊を祈り鎮めるための宗教政策を反映していたのではないか、と私は考えたいのです。慈覚大師が実際に東北の各地を巡歴したのかどうか、という問題は別にして、そこには、エゾ─東北の地を中央の権力が掌握していくなかで生みだされた政治と宗教の相互補完的な関係がみられるのではないか。
すなわち、坂上田村麻呂と慈覚大師は、それぞれ軍事的征服と宗教的鎮撫を象徴する伝説的な人物とされ、やがて東北の歴史に強烈なイメージを与えることになった。「征服」と「鎮魂」というドラマが、そういう伝説やイメージを生みだしたということです。
田村麻呂による「軍事的征服」と慈覚大師(円仁)による「宗教的鎮撫」「鎮魂」、あるいは「政治と宗教の相互補完的な関係」が指摘されている。文中、山折氏は「エゾ─東北の地」と呼んでいるが、田村麻呂─円仁の時代には蝦夷を「エゾ」と呼ぶことはなく、ここには、エミシからエゾへと変遷する歴史問題に無自覚な学問的姿勢が垣間見えている。
この学問的な「甘さ」は、「軍事的征服」のあとに「宗教的鎮撫」「鎮魂」を補完するといった見方にも表れているようにおもう。なぜならば、「軍事的征服」のあとに、その地(の民)を支配するには、「宗教的征服」(信仰的征服)がつづくというのが必然的な流れだからである。一方的な侵略・殺戮のあとに、「土地の霊と犠牲者になった人びとの死霊を祈り鎮めるための宗教政策」がとられるというのは、きれいごとというべきか、支配者側の勝手な論理というしかなく、それを「鎮撫」といっても「犠牲者になった人びとの死霊」が慰撫されるものではない。生き残った民は、少なくともそういった心中の固着(沈黙)を抱えているはずである。
見える血が流されたあと、次には見えない血が流される──、それが宗教的征服(信仰的征服)の意味だろう。しかし、「鎮撫」という名の新たな征服をいうも、山折氏が「犠牲者になった人びとの死霊」だけではなく「土地の霊」をも、その対象としていたのは慧眼だった。この「土地の霊」は、蝦夷の民がそれまで信奉してきた「神」と置き換えても同じことだ。
朝廷軍の侵略・支配の現実を正義・善の行為であったとみなすように、民への信仰的教化を実践するのは、武人・田村麻呂の任ではない。この「教化」を今ふうのことばでいいかえれば、おそらく「マインドコントロール」とでもなろうが、田村麻呂が朝廷の正義・善の体現者であり、それに抵抗した蝦夷の長[おさ]たちが一様に非道・悪の体現者として説話化あるいは縁起化されるには、そこには、ことばに長けた者、つまり、知識人・宗教者の媒介・誘導があったはずである。円仁(たち天台宗徒)は、「田村麻呂本人の与[あずか]り知らぬこと」をよく承知していながら、東北各地の寺社縁起を、田村麻呂の名を利用して創作していったものとおもう。天台宗徒たち護国仏教の徒輩は、庶民(蝦夷の民)の信仰(共同幻想)が「神のまつり」に集約されていることをよく見定めていた。
明治期初頭の神仏分離から廃仏思想の席巻の過程で、それまでの「お堂」や寺院が神社化したとき、仏教徒・円仁の名も廃され、坂上田村麻呂の名だけが神社の縁起・由緒書に残されたケースは多かったにちがいない。あるいは、田村麻呂勧請を新たに縁起創作化したものもあっただろうが、それらの総計として、わたしたちは現在、おびただしい縁起・由緒書に坂上田村麻呂の名を眼にしている。
ところで、「田村麻呂建立寺社伝説」において、寺院については、田村麻呂創建のあと円仁がやってきて本尊を彫りおいたといった縁起が語られることが散見されもする(達谷窟・西光寺など)。田村麻呂創建伝説をもつ寺院は別にふれるとして、ここで神社由緒に田村麻呂伝説を読もうとすると、そこには二つのパターンがあることに気づく。
一つは、これが圧倒的に多いのだが、蝦夷征討を○○の神に祈願、それが達成したので当地に当該の神をまつったというもの。二つは、田村麻呂の勧請縁起とすることなく、すでにまつられていた神に田村麻呂が蝦夷征討の必勝祈願をしたというもの。前者は、自社の創建由緒を田村麻呂伝説にまるごと依拠したものだが、後者は、蝦夷の民がまつる神(の存在)を縁起上から消去していないもので、少例ではあるものの、貴重な由緒表現とみることができる。
後者の一例として、岩手県紫波郡紫波町佐比内に鎮座する熊野神社をみてみる。この神社の由緒については、簡略ながら、『紫波郡誌』(大正十五年)が参考になる。同書には、次のように書かれている。
熊野神社 佐比内村字田神に鎮座の村社で伊弉諾命・伊弉(册)命を祭る。由緒によれば、田村将軍東征の砌り、当村松田山大峯に夷民祭る所の神、お熊様と称するものに右二柱を勧請したりと称して居る。
この熊野神社の源初の姿としては、「夷民祭る所の神、お熊様」の祭祀があった。由緒は、この「お熊様」がまつられていたところへ、田村将軍(坂上田村麻呂)が伊弉諾命・伊弉册命を勧請したという。現地・熊野神社の由緒表示板には、「延暦二十年、坂上田村麻呂征夷大将軍として東下し、神田山の丘に陣営せしが、当地大峰の丘にお熊様と称するあり、将軍同地に神殿を造営し二柱の神(伊弉諾命・伊弉册命)を共に合祀せり」と書かれる。
ただし、現地の由緒表示板ほか、たとえば『岩手県神社名鑑』(岩手県神社庁)にしても、郡誌記すところの「夷民祭る所の神、お熊様」は、ただの「お熊様」とされ、「夷民祭る所の神」というくっきりとした性格は曖昧化されている。
熊野神社の現祭神としては、「お熊様」に田村麻呂が「合祀」したとする伊弉諾命・伊弉册命が表示されるのみで、大元の「夷民祭る所の神、お熊様」については、その祭神説明を一切不問に付すかのように無視している。つまり、「夷民祭る所の神、お熊様」については、暗に「祭神不詳」をいいたがっていると読むしかないようだ。
しかし、もとより、この熊野神社に、田村麻呂が伊弉諾命・伊弉册命を勧請・合祀したというのは後世の付会というべきで、ここには、田村麻呂の名のもとに伊弉諾命・伊弉册命の新祭祀の正当性が語られているにすぎない。そもそも、「夷民祭る所の神、お熊様」とは、いったいどのような神であったのかという問いは残るはずである。
現在の熊野神社については、同社境内由緒は「慶長十年(一六〇五)氏子相謀り大峰より神田館跡に遷座せり」とし、遷座後、四百年以上の時間を経ていて、それなりに地元に定着しているのだろう。
文献上の限界がみえたならば、現地に足を運んで自身の眼で確かめてみるというのは、幾層にもわたって神封じがなされたきた日本の神まつりの歴史世界を読むときの基本・鉄則というのが、わたしの密かな持論である。郡誌をはじめとする由緒は、「夷民祭る所の神、お熊様」は、もともと佐比内村の「松田山大峰(大峰の丘)」なる地にまつられていたという。しかし、手元の地図帳には、そういった地名はみあたらず、やはり探索行をしてみるしかなさそうだ。

▲熊野神社【遠景】




▲熊野神社
慶長十年(一六〇五)に「遷座」して新たにまつられた熊野神社は、小高い山の中腹(「神田館跡」)にあってすぐにわかる。参道も社殿も立派に整備されていて、当地の熊野信仰が、この新社殿に「遷」っていることをよく証している。当社の参道を歩いて気づくのは、湯殿山あるいは出羽三山の石碑の多さで、ここには、羽黒修験の末派修験者・山伏がいて、土地の人々を出羽三山へと参詣案内していた名残りとおもわれる。
しかし、この新しい熊野神社には「夷民祭る所の神、お熊様」はいない。元社地の場(「大峰の丘」)を地元で尋ねると、記憶している人は少ないようだったが、それでも、熊野神社から二キロほど離れた「新山」という小山がそこだという。
大峰という表記はないが、新山ならば地図帳に確認できる(標高二五二㍍)。麓の人によれば、この新山にはまだお堂があるとのこと、また、長年にわたってたった一人でこのお堂を守っている八十過ぎの女性(東北・遠野のことばでいえば「バッチャ」で、以下これをつかう)がいるとのことで訪ねてみた。そのバッチャによると、こちらの「お熊様」も「熊野様」とのことで、どうやら、ここには熊野の古い神様がまつられているらしい。
熊野の本源神(古い神様)が、早池峰神でもある瀬織津神であることの考証はここでは繰り返さないが(「室根山祭祀と円仁──業除神社・瀬織津姫神社・御袋神社が語ること」参照)、こういった一般になじみがあるとはいえない瀬織津姫神の探究、その談議のことばが、最終的に生きるも死ぬも、このバッチャの思いを、どこまで汲めているかどうかに関わっているのだろう。
最近は足を悪くして山に登れないというバッチャから、お堂への登り口を聞き、腰に熊除けの鈴を付けて歩きはじめた。この「お熊さま」のほかになにか神様の名は伝わっていますかとのわたしの質問にいいえとのことだったが、それはそれでかまわない。

▲新山

▲お熊様への鳥居

▲お熊様【社殿】

▲お熊様【扁額──真山大権現】

▲お熊様【祠】

▲お熊様【棟札】
山道の行き止まりのゆるやかな斜面に、小さなお堂はたしかにあった。近づいてみると、意外なことに、扁額には「真山大権現」と書かれている。お堂(覆い屋)の扉を開けてみると祠があり、そこには鏡が置かれ、その背後に一枚の棟札が納められている。いちばん上に梵字らしき字(判読不明)が書かれ、その下に、以下のような文字が読み取れる。
大行事 持國天 廣目天
奉再興新山大権現堂宮造二尺四面一宇成就處
小行事 増長天 多門[ママ]天
ここには、仏教の守護神とされる四天王を脇に配して「新山大権現」と呼ばれる神がいるらしい。それが「お熊様」かどうかをやはり確認する必要があり、バッチャを再訪して尋ねてみれば、たしかに、シンザンさんが「お熊様」だという。
新しい熊野神社の境内案内には、「当地大峰の丘にお熊様と称するあり、将軍(坂上田村麻呂)同地に神殿を造営し二柱の神(伊弉諾命・伊弉册命)を合祀せり」と、郡誌と同内容の由緒が書かれていた。しかし、この「お熊様」のまつられる地を訪ねてみればわかるが、ここの祭祀は田村麻呂時代(延暦時代)に溯る古さはないし、ましてや、田村麻呂が「神殿を造営」する余地も、その必然性もない。
まさに「田村麻呂建立寺社伝説は、田村麻呂本人の与[あずか]り知らぬこと」を実地で確認したようなものだが、それにしても、ここには、田村麻呂の名を騙って「二柱の神(伊弉諾命・伊弉册命)」をまつり、それを熊野神社と称した者がかつていたとはいえるだろう。もっとも、熊野神社の祭礼時には神輿が新山の麓まで神幸するという行為があり(佐比内公民館館長談)、それなりに「お熊様」への尊意がみられることも付記しておくべきかもしれない。
とはいえ、新しく熊野神社が遷座・造営され、元地に置いてきぼりをくったことになる「お熊様」である。それが、「新山大権現」という権現称をもっていることは重要にみえる。この「新山」の「新」が、単純に新旧の新でないことは、「お熊様」が熊野神社の元社であることからいえるし、その元社の認識が新山大権現を「真山大権現」と扁額表示することにも表れている。
この新山=真山という認識がみえることは、大きな示唆を与える。若宮神や客人[まろうど]神が、字面とは真反対に、そこに新しくまつられた別神に対して、元からの産土神・地主神であるのと同じ意味が、この「新山」にはあるようだ。
江戸時代まで新山権現あるいは新山堂・新山寺だったものが、明治期以降、新山神社を名乗り、それが東北地方になぜか集中している。九戸郡九戸村の新山神社の由緒が、興味深い指摘をしている(『岩手県神社名鑑』所収)。
元新山権現と称し、創立は天文二十三年(一五五四)八月十二日治部大夫源長行大檀那となり、紀伊熊野より分霊を迎えて、瀬月内川沿新山を創祀す。新山神社は東北地方に特徴的な古社で、当社の由来も近世にいたり古代信仰が継承発展し、更に熊野権現信仰と習合して新山権現として祀られ、九戸氏及びその別れの江刺家氏の尊崇を受け、後南部藩知以降も江刺家鎮守として崇敬を厚くして来た。〔後略〕
九戸村・新山神社は、戦前までの祭神を「熊野大神」としていたが(昭和十四年『岩手県神社事務提要』)、戦後現在は「伊邪奈美命」と表示している(『岩手県神社名鑑』)。その表示変遷のことはともかく、「新山神社は東北地方に特徴的な古社」で、近世になると「熊野権現信仰と習合して新山権現として祀られ」というのは、佐比内・熊野神社にもあてはまるようだ。しかし、より重要な指摘は、新山権現が「古代信仰」に関わる「神」を内在させているということだろう。
ところで、古代信仰の継承・発展という考え方を佐比内・熊野神社を対象として吟味してみるならば、新しい熊野神社に「お熊様」(古代信仰)の祭祀上の継承はみられず、そこには継承というよりも、むしろ断絶が際立っている。古祭祀・新祭祀がともに熊野神をまつるというとき、ここにみられる発展の概念には、祭神の変質あるいは置き換えはあっても、発展としては説明しえないのではないか。「伊弉諾命・伊弉册命」を新たにまつり、それが新しい氏神として受容され、社殿も豪壮となることをもし発展というならば、それは、「お熊様」をただ一人で守りつづけてきたバッチャの信仰・思いを切り捨てた上での「発展」ということになる。せめて、「お熊様」を奥宮として位置づけ、こちらも同様に社殿・参道等の整備をしても、けっしてバチはあたるまい。
くりかえすが、佐比内における「お熊様」に「伊弉諾命・伊弉册命」を合祀したのは、決して田村麻呂でも、その時代でもない。いや、「お熊様」の創祀そのものにしても、田村麻呂時代にまで溯るものではないとみてよい。ここには、円仁の名はないものの、円仁たち天台宗徒がかつて東北各地に移植していった、いわば日本型天台宗がもつ護国思想(天皇の国家を護ることを標榜する信仰上の思想)が一人歩きしている姿は確認できる。江戸期まで、熊野神社には宮寺(神宮寺)が付随していたが、明治期初頭の神仏分離によって廃寺となり、現在、その本尊仏も縁起類も確認できない。
明治近代にはじまる神道の国教化は、そのヒエラルキーの頂きに伊勢神宮を据え、これは天皇を国教化することの補完を意味していて、そういった意図のもとに全国の神社大系を確立せんとするものだった。国民が天皇の民(赤子・臣民)となることが宣揚され、自ら「夷」であることを国民自身が忌避するような信仰政策が全国化されてゆく。この国家神道の思想は、昭和二十年の敗戦においても内省・自己批判されることはなく、戦後の神社本庁・神社庁の思想へと無疵のままスライドして存在している。伊勢神宮を「本宗」と仰ぐこと──、神社本庁は自らの思想を表明することをはばからない。それが、現在の「神社神道」の内実である。「夷民祭る所の神」が由緒から削除される理由をいえば、かつて、天皇の国家に服さない思想を生きていたのが「夷民」(蝦夷の民)であり、そのような中央的蝦夷観に無意識的に同化した結果であろう。
范曄『後漢書』訓伝は、王道政治の覇権行為として「以夷制夷」(夷を以て夷を制す)を非道として厳しく戒めているが、古代日本の王権国家は、そういった自戒をもたぬ覇権主義に終始するという歴史をもっている。田村麻呂たち「官軍」に動員された兵卒も「夷」、それらと戦った陸奥・日高見国の戦士・民も「夷」、そして征討後、あるいは征討過程において植民されてきた者も「夷」である。
この「夷を以て夷を制す」の戦闘における双方の死者の鎮魂と救いを、浄土信仰にみようとした蝦夷最初の棟梁が、奥州藤原氏の第一代・藤原清衡といえよう。『出羽三山史』(出羽三山神社発行)は、次のように書いている。
長治二年頃から中尊寺を建立、その盛んな時には寺塔四十余宇、禅坊三百余宇を数へたといはれる。
彼(藤原清衡)の神仏に対する信仰は、父(藤原経清)の悲惨な死や、一族の離散で幼年の頃からつぶさに人生の辛酸をなめた事によつて深められた。寺塔の建立が前九年と後三年の戦乱に倒れた敵味方に対する恩讐を超へた戦歿者を弔ふ心に出た事は、中尊寺の経蔵に伝へられた天治三年の願文に依つても推察することが出来る。
羽黒山はこの平泉の藤原氏を大坦那とし、深い崇敬を受けて、その繁栄を得たと思はれる事は羽黒の旧記に伝ふるところである。
藤原清衡の母は安倍頼時の娘で、父・経清はその縁もあって、前九年の役では安倍軍に加担する。清衡には蝦夷・安倍氏の血が流れていて、それが孫の秀衡にまで、神仏の加護による浄土の実現の夢を走らせることになる。ちなみに、秀衡の母は、前九年の役で経清とともに斬刑に処された安倍貞任、その弟・宗任の娘である。宗任は投降して捕虜となり九州へ配流されていたが、宗任の娘が基衡(秀衡の父)に嫁していることに、安倍氏─藤原氏の絆の強さを端的に読むことができよう。
安倍氏から平泉・藤原氏へと「夷民祭る所の神」への信奉は一貫していて、これもあとでふれることになる。また、「羽黒山はこの平泉の藤原氏を大坦那とし、深い崇敬を受けて、その繁栄を得た」との伝承が書かれていたように、藤原氏と羽黒権現との信仰的親交は、これもあとでみることになるが、「新山」祭祀とも無縁ではないふしがある。
ともかく、「夷」の民の末裔としてあるのは、なにも東北の民ばかりではないのだが、自ら「夷」の民の末裔であることを忘れたがっている国民意識はどこか危ういようにおもえる。敗者の文化・信仰史を切り捨てるのではなく、汲んでこそ未来に活かすことができるのではないか。
「夷」は「東夷」の意味でもあるから、「夷民祭る所の神、お熊様」の「夷民」は、東国の、王権思想とは無縁に生きている(生きてきた)「庶民」を指すにすぎない。ちなみにいえば、西国の「夷民」は熊襲・隼人に相当するだろう。わたしが「お熊様」の背後に想定している神は、熊襲・隼人が祭る所の神でもある可能性がすこぶる高い。
さて、ちっとも新しくないのに、この「お熊様」は「新山大権現」とのことだ。しかも、新山は真山とも書かれていた。この権現あるいは新山堂が、明治期以降に神社化した「新山神社は東北地方に特徴的な古社」とされる。
新山祭祀は多くの謎を秘めているようだ。それが、「東北地方に特徴的」にみられるとすれば、それはなぜなのか?
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