月の抒情、瀧の激情
自由な思索空間──「月の抒情、瀧の激情」へようこそ。
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三嶋龍という滝神──大三島・大山祇神社【補遺】
大山祇神社元社地、その旧跡地まで遡及しますと、大山積神の原型神は「みたらしの井戸」の霊水を司る水神であったことがみえてきました。この水霊神は大山積神と「∴」の関係にある御手洗神・瀬織津姫神であった可能性は、やはりすこぶる高いと考えられ、その検証を補足しておきたくおもいます。
大三島では、地主神「大蛇」放逐の代替のようにまつられた龍(五龍王)でした。『三島宮御鎮座本縁』は、この龍と大山積神をあくまで別の神とみなすことばを費やしています。しかし、大山積神と、これも「∴」の関係にある三島明神の本体(本姿)は大蛇(龍体)でした。少し複雑な「神まつりの構造」を読み取るしかないのですが、大山積神の新たな祭祀は、自身の蛇神・龍神的性格を自己否定することによって成立したものといえます。これは、大三島の最重要な神が、朝廷の祭祀思想の体系に組み込まれたことを意味しています。もっとも、こういった祭祀変質は、一人大三島に限られるものではなく、誤解をおそれずにいうならば、伊勢の皇祖神(アマテラス)の創作祭祀を脅かす各地の神まつりすべてが、その変質化対象とみなされたものと考えられます。
七世紀末から八世紀初頭にかけて、天皇を中心とする律令国家をつくるという構想が本格的に稼働しはじめます。これは、藤原不比等の構想といっても過言ではなく、また現在の日本国家の原型がつくられた時代にあたります。この不比等の国家構想の中心には天皇が置かれ、藤原氏はその影の主役となるといった構想も付着していましたから、必然的に、天皇の「祖神」構想を中心とする神々の大系化が図られ、その脇に、藤原氏(中臣氏)の祖神も随所に散りばめられることになります。朝廷支配に従ったほかの有力豪族の祖神も、皇統譜の展開を補佐するように配置されます。
しかし、不比等の構想には、特に神まつりのことに関して、大きな陥穽がありました。それは、信仰は「心」の問題だということに深い思慮が至らなかったことです。人は、強権支配に対しては面従腹背という方法で対処するのはよくあることで、この「腹」の部分に「心」は宿っています。庶民層にまで降りれば、その傾向はより顕著になります。
記紀神話には、そのままの名ではまったく登場しなかった瀬織津姫という神ですが、にもかかわらず、全国の広範囲に、現在にまで、その祭祀がみられます。朝廷の祭祀思想からすれば、この神は、まつられるにしても、その性格は大祓神(祓戸大神)でなくてはいけませんでしたが、しかし、全国の祭祀実態の過半は、大祓神とは無縁の水源神・水霊神としてまつられてきたものです。
朝廷権力は、この神の要所要所の神まつりには「勅命」によって祭祀変更を迫ることになりますが、それが大宝時代あたりから顕在化してきます。大宝元年(七〇一)に勅命によって新たな神まつりが執行されたのが大山祇神社でした。これは、全国的にみれば氷山の一角のような例ですが、日本の「正史」(『日本書紀』)が内外に公にされるまでに、『書紀』の記述と齟齬するような神まつりは変更される必要があったはずです。『書紀』が成るのは養老四年(七二〇)ですが、八世紀初頭のおよそ二十年間は、列島の神まつりにとっては、かつてない変質の激動時代になります。
そのあとも折々につけ、この変質は朝廷支配の拡大に応じて全国に拡がってゆくとしても、伊勢の皇祖神祭祀の立ち上げから『書紀』が成るまでは、第一期激動のピークといえましょう。その後、並行するように、神仏習合によって、新手の神隠しがなされるも、長きにわたる神仏習合時代は、仏が前面に出ていた分、消され残った神はその背後に温存、あるいは冷凍保存されて、明治期を迎えます。神まつりの大きな変質の第二のピークは、大宝から養老時代前後と比べはるかに徹底したものでしたが、明治期初頭の神仏分離からはじまる国家神道の勃興期にみられます。神仏習合時代の修験者(のある人々)は、たとえば求菩提山の厳上人のように、仏の背後の神への信奉の心を失っていなかったことも添えておきます。
さて、大山祇神社が伊予国で、おそらく忸怩たる自己撞着の祭祀を展開していた一方、讃岐国では、大山積神と「∴」の関係にあった三島明神を「龍神」としてまつる社があったことも紹介しておきたくおもいます。大水上[おおみなかみ]神社といいます(大水上神社の鎮座地は香川県三豊郡〔現三豊市〕高瀬町大字羽方)。



▲大水上神社
大水上神社という社号からもわかりますが、ここは水源神をまつる社です。境内の由緒案内紙には「悠久の昔、水の恵を求め岩畳なす清流の源に神を祀り、大水上と称えた」とあります。
同社の過去の祭祀経緯については具体的にふれえませんけれども、現由緒案内は、本社祭神ほかについて、次のように述べています。
延喜式内社・讃岐二宮 大水上神社
御本社 祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神
太古より水霊の神として信仰が厚く、延喜式内社で、讃岐二宮と称えられている。社の鎮座する宮川流域は弥生文化の遺跡が多く、境内は古代祭祀遺跡の宝庫。御本社の奥に夫婦岩と称する磐座がある。

▲夫婦岩
ここは水源神・水霊神をまつる社ですから、仮に筆頭祭神を三番めの宗像大神としていたならば、さして疑問を抱くことはないでしょう。しかし、大水上神社の主祭神は、あくまで大山積命なのです。この大三島の神が、大水上神社においては水源神・水霊神とみなされていることは、とても興味深いといわねばなりません。
大水上神社は多くの境内社を抱えていますが、本社祭神の神徳とみてよい「水霊」に深く関わる社が「滝の宮神社」です。この社は、次のように説明されています。
滝の宮神社 鰻渕の神 祭神 滝田比古[たつたひこ]命・滝田比売[たつたひめ]命
古くは三嶋龍と称されていた。雨の神として信仰が厚く、古代からの祈雨神祭遺跡で白鰻・黒鰻の伝えがある。


▲滝の宮神社
祭神の「滝田比古[たつたひこ]命・滝田比売[たつたひめ]命」は、「滝田」をあえて「たつた」と訓じているところをみますと大和国の龍田神社の祭神に擬したものでしょうが、それはおくとしても、滝宮神が「古くは三嶋龍と称されていた」という伝承の一言には注意がいきます。「古くは」がどれほどさかのぼる古さなのかは不明ですが、「三嶋龍」が滝神であったことは、大三島・大山祇神社(の由緒)がけっして語らないことです。大山祇神社の元の旧跡地の水霊神を御手洗神こと瀬織津姫神とみますと、この神こそ「滝神」でもありましたから、大水上神社の伝承は貴重です。
ところで、滝宮神は「鰻渕の神」とあり、また「雨の神」(祈雨神)でもあったようです。鰻渕は宮川上流、大水上神社本殿右背後にあり、そこには、次のような案内板が立っています。
うなぎ淵(竜王淵) 雨乞神事遺跡
昔から旱ばつ時、参籠潔斎の上、淵の水を桶でかいだす神事が行われた。黒白の鰻がすみ、黒鰻が姿を見せると雨、白鰻がでれば日照りが続き、蟹が出ると、大風が吹くといわれた。
明治・昭和初期斎行の折、降雨の恵みがあり、感謝祭が執行された。

▲鰻淵(竜王淵)と大水上神社本殿
うなぎ(鰻)淵は「竜王淵」の異称をもっていたわけですが、「竜王淵」は、ここに「三嶋龍」がまつられていたことによる名称でしょう。
この竜王淵の近くには「大師参拝の神言」とされる、大師(弘法大師)こと空海の歌を刻んだ石碑があります。

往来は心安かれ空の海
水上清きわれは竜神
空海は大水上神社へ参拝して、その境内社の神をわざわざ詠んだわけではないでしょう。空海は、大水上神社の本来の神を「水上清きわれは竜神」と、神(三嶋龍)になりかわって詠んだものと読めます。まさに「神言」の歌です。
大三島・大山祇神社は、「勅命」によって元宮「横殿宮」から現在地へと遷宮し、新たな社殿祭祀をはじめるにあたって、三島明神の本体・本姿である大蛇・龍体を自己否定して、朝廷公認の大山積神の祭祀を展開することになります。
大水上神社も、その祭祀変遷はよく似ているというべきか、本社に大山積命をまつると、三島明神でもあろう三嶋龍を、境内の「滝の宮神社」に降格してまつったとみられます。
ただし、大山祇神社と大水上神社で一見異なるのは、その本源の水霊神(三嶋龍)について、大山祇神社においては、その古宮の霊跡地から御手洗神とみなせるところを、大水上神社においては、滝宮の神、つまり滝神といっていることです。
御手洗神といい滝神といい、また水霊神というも、それらの神格を総合的に包含する神はいよいよ限られてくるというものです。では、大山祇神社の元宮あるいは古祭祀からみえてきた瀬織津姫という神は、大水上神社においてはどのような祭祀がなされているのかということになりますが、ここでみえてくるのが、境内社・祓戸社の存在です。先の由緒案内には、次のように書かれています。
祓戸社 祭神 瀬織津比売神・速開都比女神・気吹戸主神・速佐須良比女神
人々の身心を祓い清める神々。
伊予国では大山積神と「∴」の関係で語られていた御手洗神・滝神こと瀬織津姫神は、讃岐二宮・大水上神社においては境内の「滝の宮神社」からさらに降格されて「祓戸社」の神、しかも、単独神の祭祀ではなく、大祓祝詞に出てくる祓戸四柱神の一神としてまつられています。
この祓戸社の四柱神祭祀は明治期以降のものとおもわれますが、ここには、日本の神道世界がいまだに内省・自己相対化をしていない、いわば国家神道の根幹的な意向の残映祭祀がみられます。つまり、瀬織津姫神は、天皇の国家の外部に向けてのみ「祓い」の神威を発揮することと限局し、しかし、単独神ではなく延喜式の「六月晦大祓」で規定されている四柱というセット神の一柱とのみみなそうとする、神宮(皇祖神)創祀からはじまる国家神道的意向の残滓があります。
滝神(滝宮神)としての三嶋龍は、大山祇神社の元宮祭祀における御手洗神・瀬織津姫神のことと断じて、不都合・不合理なことはまったくありません。
大水上神社境内には、先の由緒案内紙とともに「にのみや音頭」なる川柳的俗謡が張り出されています。そのなかに、次のような一節があります。
御手洗さんの庭から望む
瀬戸の小島の春霞み
ここで「御手洗さん」と親称されているのは大水上神のことでしょう。「庭」は「にのみや(二宮)」のそれ(斎庭[ゆにわ])であって、まちがっても、境内の一隅にひっそりとまつられる祓戸社の「庭」を詠ったものではありますまい。

▲禊場(左)と祓戸社(右奥)

▲祓戸社
大水上神社が、三嶋龍の伝承と空海の「神言」歌、それと「滝の宮」という社号を残していたことは、後世あるいは外部から同社の祭祀を考える上で、大きな手がかりとなったようです。
以上のように、大水上神社の祭祀を読み解いてきますと、滝の宮神社の祭神に「滝田比売命」を入れ、それをあえて「たつたひめ」と訓じていたというのは、やはり意味深長な主張だったというべきかもしれません。なぜなら、江戸期(延宝時代)に成る『和州旧跡幽考』には、「瀧祭神と廣瀬龍田神、則ち同躰異名にして、水氣の神なり」といった貴重な記録がみられるからです。円空は「龍田比売」を外宮神と見立てて金剛界大日如来の瀟洒な像を彫り、さらに「龍田姫かさしの玉のおほよわ見ミたれにけりとけさの白露」という、解読がとても困難な歌を詠んでいました(菊池展明『円空と瀬織津姫』)。全体の歌意はうまく読み解けないにしても「ミたれ」は「水垂」で、掛詞であるにしても、水垂は垂水の倒語で、これは滝のことですから、円空も「龍田姫」を滝神と認識していたのかもしれません。

▲金剛界大日如来座像(菊池展明『円空と瀬織津姫』から)
内宮境内五十鈴川河畔に、苔むした小さな川石一つを剥き出しの神体としてまつられる「瀧祭神」は、五十鈴川源流の滝神をまつったもので、これは内宮(正殿背後)にまつられる荒祭大神こと瀬織津姫神のことです。一見奇異ともみえる滝の宮神社の祭神表示ですが、滝宮神・三嶋龍がどのような神を秘めていたのかを明かす暗号のようなものでしたから、これは、大水上神社の最後の抵抗であったと読むこともできそうです。
大三島では、地主神「大蛇」放逐の代替のようにまつられた龍(五龍王)でした。『三島宮御鎮座本縁』は、この龍と大山積神をあくまで別の神とみなすことばを費やしています。しかし、大山積神と、これも「∴」の関係にある三島明神の本体(本姿)は大蛇(龍体)でした。少し複雑な「神まつりの構造」を読み取るしかないのですが、大山積神の新たな祭祀は、自身の蛇神・龍神的性格を自己否定することによって成立したものといえます。これは、大三島の最重要な神が、朝廷の祭祀思想の体系に組み込まれたことを意味しています。もっとも、こういった祭祀変質は、一人大三島に限られるものではなく、誤解をおそれずにいうならば、伊勢の皇祖神(アマテラス)の創作祭祀を脅かす各地の神まつりすべてが、その変質化対象とみなされたものと考えられます。
七世紀末から八世紀初頭にかけて、天皇を中心とする律令国家をつくるという構想が本格的に稼働しはじめます。これは、藤原不比等の構想といっても過言ではなく、また現在の日本国家の原型がつくられた時代にあたります。この不比等の国家構想の中心には天皇が置かれ、藤原氏はその影の主役となるといった構想も付着していましたから、必然的に、天皇の「祖神」構想を中心とする神々の大系化が図られ、その脇に、藤原氏(中臣氏)の祖神も随所に散りばめられることになります。朝廷支配に従ったほかの有力豪族の祖神も、皇統譜の展開を補佐するように配置されます。
しかし、不比等の構想には、特に神まつりのことに関して、大きな陥穽がありました。それは、信仰は「心」の問題だということに深い思慮が至らなかったことです。人は、強権支配に対しては面従腹背という方法で対処するのはよくあることで、この「腹」の部分に「心」は宿っています。庶民層にまで降りれば、その傾向はより顕著になります。
記紀神話には、そのままの名ではまったく登場しなかった瀬織津姫という神ですが、にもかかわらず、全国の広範囲に、現在にまで、その祭祀がみられます。朝廷の祭祀思想からすれば、この神は、まつられるにしても、その性格は大祓神(祓戸大神)でなくてはいけませんでしたが、しかし、全国の祭祀実態の過半は、大祓神とは無縁の水源神・水霊神としてまつられてきたものです。
朝廷権力は、この神の要所要所の神まつりには「勅命」によって祭祀変更を迫ることになりますが、それが大宝時代あたりから顕在化してきます。大宝元年(七〇一)に勅命によって新たな神まつりが執行されたのが大山祇神社でした。これは、全国的にみれば氷山の一角のような例ですが、日本の「正史」(『日本書紀』)が内外に公にされるまでに、『書紀』の記述と齟齬するような神まつりは変更される必要があったはずです。『書紀』が成るのは養老四年(七二〇)ですが、八世紀初頭のおよそ二十年間は、列島の神まつりにとっては、かつてない変質の激動時代になります。
そのあとも折々につけ、この変質は朝廷支配の拡大に応じて全国に拡がってゆくとしても、伊勢の皇祖神祭祀の立ち上げから『書紀』が成るまでは、第一期激動のピークといえましょう。その後、並行するように、神仏習合によって、新手の神隠しがなされるも、長きにわたる神仏習合時代は、仏が前面に出ていた分、消され残った神はその背後に温存、あるいは冷凍保存されて、明治期を迎えます。神まつりの大きな変質の第二のピークは、大宝から養老時代前後と比べはるかに徹底したものでしたが、明治期初頭の神仏分離からはじまる国家神道の勃興期にみられます。神仏習合時代の修験者(のある人々)は、たとえば求菩提山の厳上人のように、仏の背後の神への信奉の心を失っていなかったことも添えておきます。
さて、大山祇神社が伊予国で、おそらく忸怩たる自己撞着の祭祀を展開していた一方、讃岐国では、大山積神と「∴」の関係にあった三島明神を「龍神」としてまつる社があったことも紹介しておきたくおもいます。大水上[おおみなかみ]神社といいます(大水上神社の鎮座地は香川県三豊郡〔現三豊市〕高瀬町大字羽方)。



▲大水上神社
大水上神社という社号からもわかりますが、ここは水源神をまつる社です。境内の由緒案内紙には「悠久の昔、水の恵を求め岩畳なす清流の源に神を祀り、大水上と称えた」とあります。
同社の過去の祭祀経緯については具体的にふれえませんけれども、現由緒案内は、本社祭神ほかについて、次のように述べています。
延喜式内社・讃岐二宮 大水上神社
御本社 祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神
太古より水霊の神として信仰が厚く、延喜式内社で、讃岐二宮と称えられている。社の鎮座する宮川流域は弥生文化の遺跡が多く、境内は古代祭祀遺跡の宝庫。御本社の奥に夫婦岩と称する磐座がある。

▲夫婦岩
ここは水源神・水霊神をまつる社ですから、仮に筆頭祭神を三番めの宗像大神としていたならば、さして疑問を抱くことはないでしょう。しかし、大水上神社の主祭神は、あくまで大山積命なのです。この大三島の神が、大水上神社においては水源神・水霊神とみなされていることは、とても興味深いといわねばなりません。
大水上神社は多くの境内社を抱えていますが、本社祭神の神徳とみてよい「水霊」に深く関わる社が「滝の宮神社」です。この社は、次のように説明されています。
滝の宮神社 鰻渕の神 祭神 滝田比古[たつたひこ]命・滝田比売[たつたひめ]命
古くは三嶋龍と称されていた。雨の神として信仰が厚く、古代からの祈雨神祭遺跡で白鰻・黒鰻の伝えがある。


▲滝の宮神社
祭神の「滝田比古[たつたひこ]命・滝田比売[たつたひめ]命」は、「滝田」をあえて「たつた」と訓じているところをみますと大和国の龍田神社の祭神に擬したものでしょうが、それはおくとしても、滝宮神が「古くは三嶋龍と称されていた」という伝承の一言には注意がいきます。「古くは」がどれほどさかのぼる古さなのかは不明ですが、「三嶋龍」が滝神であったことは、大三島・大山祇神社(の由緒)がけっして語らないことです。大山祇神社の元の旧跡地の水霊神を御手洗神こと瀬織津姫神とみますと、この神こそ「滝神」でもありましたから、大水上神社の伝承は貴重です。
ところで、滝宮神は「鰻渕の神」とあり、また「雨の神」(祈雨神)でもあったようです。鰻渕は宮川上流、大水上神社本殿右背後にあり、そこには、次のような案内板が立っています。
うなぎ淵(竜王淵) 雨乞神事遺跡
昔から旱ばつ時、参籠潔斎の上、淵の水を桶でかいだす神事が行われた。黒白の鰻がすみ、黒鰻が姿を見せると雨、白鰻がでれば日照りが続き、蟹が出ると、大風が吹くといわれた。
明治・昭和初期斎行の折、降雨の恵みがあり、感謝祭が執行された。

▲鰻淵(竜王淵)と大水上神社本殿
うなぎ(鰻)淵は「竜王淵」の異称をもっていたわけですが、「竜王淵」は、ここに「三嶋龍」がまつられていたことによる名称でしょう。
この竜王淵の近くには「大師参拝の神言」とされる、大師(弘法大師)こと空海の歌を刻んだ石碑があります。

往来は心安かれ空の海
水上清きわれは竜神
空海は大水上神社へ参拝して、その境内社の神をわざわざ詠んだわけではないでしょう。空海は、大水上神社の本来の神を「水上清きわれは竜神」と、神(三嶋龍)になりかわって詠んだものと読めます。まさに「神言」の歌です。
大三島・大山祇神社は、「勅命」によって元宮「横殿宮」から現在地へと遷宮し、新たな社殿祭祀をはじめるにあたって、三島明神の本体・本姿である大蛇・龍体を自己否定して、朝廷公認の大山積神の祭祀を展開することになります。
大水上神社も、その祭祀変遷はよく似ているというべきか、本社に大山積命をまつると、三島明神でもあろう三嶋龍を、境内の「滝の宮神社」に降格してまつったとみられます。
ただし、大山祇神社と大水上神社で一見異なるのは、その本源の水霊神(三嶋龍)について、大山祇神社においては、その古宮の霊跡地から御手洗神とみなせるところを、大水上神社においては、滝宮の神、つまり滝神といっていることです。
御手洗神といい滝神といい、また水霊神というも、それらの神格を総合的に包含する神はいよいよ限られてくるというものです。では、大山祇神社の元宮あるいは古祭祀からみえてきた瀬織津姫という神は、大水上神社においてはどのような祭祀がなされているのかということになりますが、ここでみえてくるのが、境内社・祓戸社の存在です。先の由緒案内には、次のように書かれています。
祓戸社 祭神 瀬織津比売神・速開都比女神・気吹戸主神・速佐須良比女神
人々の身心を祓い清める神々。
伊予国では大山積神と「∴」の関係で語られていた御手洗神・滝神こと瀬織津姫神は、讃岐二宮・大水上神社においては境内の「滝の宮神社」からさらに降格されて「祓戸社」の神、しかも、単独神の祭祀ではなく、大祓祝詞に出てくる祓戸四柱神の一神としてまつられています。
この祓戸社の四柱神祭祀は明治期以降のものとおもわれますが、ここには、日本の神道世界がいまだに内省・自己相対化をしていない、いわば国家神道の根幹的な意向の残映祭祀がみられます。つまり、瀬織津姫神は、天皇の国家の外部に向けてのみ「祓い」の神威を発揮することと限局し、しかし、単独神ではなく延喜式の「六月晦大祓」で規定されている四柱というセット神の一柱とのみみなそうとする、神宮(皇祖神)創祀からはじまる国家神道的意向の残滓があります。
滝神(滝宮神)としての三嶋龍は、大山祇神社の元宮祭祀における御手洗神・瀬織津姫神のことと断じて、不都合・不合理なことはまったくありません。
大水上神社境内には、先の由緒案内紙とともに「にのみや音頭」なる川柳的俗謡が張り出されています。そのなかに、次のような一節があります。
御手洗さんの庭から望む
瀬戸の小島の春霞み
ここで「御手洗さん」と親称されているのは大水上神のことでしょう。「庭」は「にのみや(二宮)」のそれ(斎庭[ゆにわ])であって、まちがっても、境内の一隅にひっそりとまつられる祓戸社の「庭」を詠ったものではありますまい。

▲禊場(左)と祓戸社(右奥)

▲祓戸社
大水上神社が、三嶋龍の伝承と空海の「神言」歌、それと「滝の宮」という社号を残していたことは、後世あるいは外部から同社の祭祀を考える上で、大きな手がかりとなったようです。
以上のように、大水上神社の祭祀を読み解いてきますと、滝の宮神社の祭神に「滝田比売命」を入れ、それをあえて「たつたひめ」と訓じていたというのは、やはり意味深長な主張だったというべきかもしれません。なぜなら、江戸期(延宝時代)に成る『和州旧跡幽考』には、「瀧祭神と廣瀬龍田神、則ち同躰異名にして、水氣の神なり」といった貴重な記録がみられるからです。円空は「龍田比売」を外宮神と見立てて金剛界大日如来の瀟洒な像を彫り、さらに「龍田姫かさしの玉のおほよわ見ミたれにけりとけさの白露」という、解読がとても困難な歌を詠んでいました(菊池展明『円空と瀬織津姫』)。全体の歌意はうまく読み解けないにしても「ミたれ」は「水垂」で、掛詞であるにしても、水垂は垂水の倒語で、これは滝のことですから、円空も「龍田姫」を滝神と認識していたのかもしれません。

▲金剛界大日如来座像(菊池展明『円空と瀬織津姫』から)
内宮境内五十鈴川河畔に、苔むした小さな川石一つを剥き出しの神体としてまつられる「瀧祭神」は、五十鈴川源流の滝神をまつったもので、これは内宮(正殿背後)にまつられる荒祭大神こと瀬織津姫神のことです。一見奇異ともみえる滝の宮神社の祭神表示ですが、滝宮神・三嶋龍がどのような神を秘めていたのかを明かす暗号のようなものでしたから、これは、大水上神社の最後の抵抗であったと読むこともできそうです。
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