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室根山祭祀と円仁──業除神社・瀬織津姫神社・御袋神社が語ること

唐桑【早馬山─室根山】
▲唐桑半島・早馬山から望む室根山(写真中央奥)

 室根村教育委員会『室根神社祭のマツリバ行事』は、室根神社大祭と神社由緒等に細かく言及した書ですが、神社関係年表として、延暦二十年(八〇一)の項に、次のようにあります。

坂上田村麻呂、達谷窟に蝦夷の巨頭[かしら]悪路王を倒し残党残らず平げ、満願成就の時牟婁峯神社に詣で将軍母衣[ほろ]を負い県主等と共に騎馬で祭礼を行う。

 牟婁峯神社は現在の室根神社のことですが、平泉・達谷窟[たっこくのいわや](達谷西光寺)を発信地とする田村麻呂─悪路王伝説が、伝説ではなく史実かのごとくに年表化されています。教育委員会編纂という半公的な書で、伝説・史実に対する検証がなんらなされることなく、こういった記述がみられるというのは特異です。
 もっとも、本書がもつこういった特異性を指摘することは容易なのですが、しかし、年表事項は室根神社の伝承を拾ったものにちがいなく、教育委員会の不明性はあるものの、別の見方をするならば、達谷窟の伝説を、さも史実かのごとくに室根神社に伝えた者がいるということになります。

室根山【遙拝鳥居】
▲室根山と遙拝鳥居

 室根神社(岩手県一関市室根町鎮座)は、熊野神の分霊を東北(陸奥国)に勧請した古例としてあります。室根大祭協賛会『室根神社大祭記』(平成二十二年発行)には、室根神社(本宮)の勧請伝承が、次のように書かれています。

 本宮(室根神社本宮)は、社伝によれば養老二年(七一八年)鎮守府将軍大野東人が、熊野神の分霊を迎えたのが起源で、いまから一千二百九十二年前のことである。
 大野東人は鎮守府将軍として宮城県多賀城にあって、中央政権に服しない蝦夷(関東以北に住んでいた先住民)征討の任についていた。
 しかし、蝦夷は甚だ強力で容易にこれを征服することができなかったので、神の加護を頼ろうと、当時霊威天下第一とされていた紀州牟婁郡本宮村(現在の和歌山県田辺市本宮町)の熊野神をこの地に迎えることを元正天皇に願出た。
 東北地方の国土開発に関心の深かった元正天皇はこの願いを入れ、蝦夷征討の祈願所として東北の地に熊野神の分霊を祀ることを紀伊の国造や県主に命じた。
 天皇の命令を受けた紀伊の国造藤原押勝、名草藤代の県主従三位中将鈴木左衛門尉穂積重義、湯浅県主正四位下湯浅権太夫玄晴と、その臣岩渕備後以下数百人は、熊野神の御神霊を奉じてこれを守り、紀州から船団を組み四月十九日に船出し、南海、東海、常陸の海を越え陸奥の国へと北航し、五ヵ月間もかかって九月九日に本吉郡唐桑村細浦(現在の気仙沼市唐桑町鮪立)についた。
 この時、仮宮を建て熊野本宮神を安置した。それがいまの舞根神社(瀬織津姫神社)である。

 通説では、多賀城が築かれるのは神亀元年(七二四)とされ(多賀城碑)、文中の養老二年(七一八)に「大野東人は鎮守府将軍として宮城県多賀城にあって」云々と整合しません。しかし、この一点をもって、勧請伝承の全体を否定する必要はなく、むしろ重要なのは、養老時代にまで溯る古さを室根神社が自社由緒としてもっていることでしょう。しかも、室根神社本宮がまつられるにあたって、熊野からの大航海における最初の上陸地を「本吉郡唐桑村細浦(現在の気仙沼市唐桑町鮪立)」とし、さらに「この時、仮宮を建て熊野本宮神を安置した。それがいまの舞根神社(瀬織津姫神社)である」と伝えていることこそ最重要とみなせます。
 舞根[もうね]神社(瀬織津姫神社、「もうね」は牟婁峯の転とされる)へ初めてうかがったのは十年以上前で、うっすらの記憶では、海岸からそれほど高いところにまつられていたとはおもえません。今回の大津波のこともあり、ようやく訪ねてみれば、やはり跡形もなく消えていたのでした。別当を長く任じている畠山さんの家も近くにありましたが、幸いにというべきか、畠山さんは家を失うもなんとか避難したようで、避難所の仮設住宅に訪ねると、かなり憔悴されているようでした。瀬織津姫神社については書かれたものもなく、自分もよくわからないとのことです。また、社殿の再建もいつ可能かわからないとのことでしたので、社殿なんかは神様にとっては仮の家で、いちばん後に建てればいいとおもいますなどと返したものの、うまく伝わったかどうかは自信がありません。
 室根村教育委員会『室根神社祭のマツリバ行事』は、この瀬織津姫神社に関して、次のように述べています。

 この神社(瀬織津姫神社)は、熊野神を紀州から迎え、着岸した細浦の津、即ち現在の宮城県本吉郡唐桑町(現在は気仙沼市唐桑町…引用者)舞根にある。
 熊野神がこの地に到着の後、仮宮を設け供物を潮水で清めて神前に供え、釜を設けて湯を沸かし、湯の花を捧げて、神託を仰いだところ「その昔、鬼首山[おにかべやま]は日本武尊の皇業を始められた地なれば、その地に鎮りたい」との御神託を得たというところである。
 今、この神を土地の人々は室根さんと呼んでいるが、古記にはこの土地を熊野社地と呼ぶとある。紀州から五ヶ月余を経ての着岸であったので厳かな式を挙げて無事の御礼を申すと共に神託を謹んで仰いだことが想像される。

 鬼首山[おにかべやま]という山名は日本武尊の鬼神討伐伝説に基づくもので、室根山の古名とされます。「日本武尊の皇業を始められた地なれば、その地に鎮りたい」といった神託内容は、神よりも、神をまつる者の心意・願望を表象したものにすぎませんが、瀬織津姫神について、「今、この神を土地の人々は室根さんと呼んでいる」と、つまり、瀬織津姫神は室根神=熊野神であるという唐桑の地元伝承が拾われているのは貴重です。
 ところで、室根山側の伝承では、紀州から唐桑にやってきた熊野本宮神を最初にまつったのは仮宮・瀬織津姫神社としていました。しかし、地元・唐桑側の鎮座伝承では、舞根の瀬織津姫神社は二番めの仮宮とされます。先にみたように、室根山側の伝承において、そもそもの上陸地は「本吉郡唐桑村細浦(現在の気仙沼市唐桑町鮪立)」とあり、この鯖立[しびたて]地区と舞根地区とは少し離れています。この鯖立にまつられているのが業除[ごうのけ]神社です。

室根祭祀【業除神社─社頭】
▲業除神社

 加藤宣夫『唐桑史談』(私家版)によれば、業除神社の祭神は「紀州熊野神社御分霊」とされ、「古老の語り伝えるところ」として、ここ(業除神社)から「舞根の森の仮宮に移り、次いで神慮に依り室根山頂きに鎮座し給うた」とあります。ここでいわれている「舞根の森の仮宮」が瀬織津姫神社(舞根神社)です。
 業除神社という社号は一風変わっています。熊野本宮神がまつられた最初の仮宮の名ならば熊野神社でもよさそうなものです。神社は、鮪立の港の少し小高い所に立地していて、津波の被害からはかろうじて免れたようです。社への道順を尋ねた人は、奇縁というべきか、かつて紀州から熊野神を奉祭してきた鈴木氏を祖とする家伝をもっていて、業除神社まで連れていってもらいました。拝殿に上げてもらいましたが、壁には二つの同内容の由緒書と神社にまつわる伝説が貼り出されています。先の内容と重複する箇所もありますが、熊野本宮神の最初の仮宮に伝わる由緒ということで、全文を書き写してみます(適宜句読点等を補足して引用)。

業除権現神社由緒書
 業除権現神社は、今から千弐百八拾八年前、人皇拾壱代[ママ]元正天皇は東北地方開発の為従三位鈴木左ヱ門尉(穂積)重義(に)命じて、尊崇厚き熊野本宮の神霊を奉持させ東下させた。時は、養老弐年四月で同勢百余名が海を渡り五ヶ月間にて、唐桑細浦、現在の唐桑鮪立に到着、最初に神霊を安置したのは当業除権現神社である。次に舞根の瀬織津姫神社、気仙沼に至(り)ては熊野神社と、奥地に分け入りて二十日後に落ち着いたのが室根神社である。これがため、これらの神社の祭神は熊野権現神社であり、これが由来しって、室根神社大祭の前日には鮪立と舞根から海水を持参して神器(を)清める習慣があった。今も続き居る事は、熊野神社本宮の由緒書にも記載されてあると言う。地方伝承(と)室根山縁起と一致する事、間違えなき史実なる直[ママ]を。神霊は海を渡り来るものなれば、漁夫の守り神と致し崇拝致すべきものなり。
 以上は昭和三十七年九月九日佐々木萬兵衛氏由来書を元に記す。
平成弐拾年九月吉日                        山崎政利

室根祭祀【業除神社─由緒Ⅰ】
▲佐々木萬兵衛氏由来書

 熊野本宮神が室根山にまつられるにあたって、業除神社→瀬織津姫神社→熊野神社という仮宮が列挙されています。また、「これらの神社の祭神は熊野権現神社」とあり、つまり、室根神を含めて、すべて同体ということが書かれています。
 ただし、この由緒において書かれていないのは、その社号の「業除」とはなにかということでしょうか。これについては、『唐桑史談』が一つの解釈を提示しています。

業すなわちもろもろの災厄や疫病を除き、部落の安泰幸福に御加護を垂れ給わらんことを、との念願より末永く御神霊のとどまりましまさんように祀り、名も業除神社と崇めて祭を怠らず今日に至ったものとも解される。

 これは、氏子の生活感覚で述べられた理解といえます。業除神社が当初からの社号としますと、ここでの「業」は、朝廷軍にとってのそれで、つまりは、災厄・疫病に相当するものとしては蝦夷の脅威を挙げるのが勧請経緯に沿うものかもしれません。いずれにしても、災厄・疫病、あるいは蝦夷の脅威を除ける(祓う)という神徳を社号化したものが業除神社といえます。
 第二仮宮・瀬織津姫神社の社号にみられる瀬織津姫神こそ「祓」の最強神でもあり、業除神社の祭神が「紀州熊野神社御分霊」と曖昧に表示されるも、つまるところ、これも瀬織津姫神の神徳の一つを社号化したものと断じて不都合なことは何一つありません。
 地元唐桑の人たちにとって、瀬織津姫神社の親称は「室根さん」でした。『唐桑史談』が記す瀬織津姫神社の項には、おもわぬ伝承も記されています。

室根神社または瀬織津姫神社 西舞根
祭典 旧九月十九日
別当 畠山敏氏
由緒 〔前略……すでにみた、養老二年における熊野本宮神勧請伝承が入る〕
 瀬織津姫神社として祀られている由緒は、勅命によってこの地に住んだ御師(いくさ人)湯浅権太夫の母が供奉の海上で病み室根山遷座の御神霊に詣りかねて死んだ。遺言により十一面観音の尊像に御鏡を添えて海に投げたところ、これが舞根に流れついた。よって母の霊とともにこの所に祀ったものという。

 瀬織津姫神社の異称は舞根神社でしたが、地元では室根神社とも呼ばれていたようです。まさに「室根さん」です。
 蝦夷征討の祈願神として、大船団の多くの伴人に供奉されてやってきた熊野神とは別に、湯浅権太夫の母堂がまつっていた十一面観音、それと習合するようにやってきた瀬織津姫神が語られています。この神が山神・水源神としてまつられてあるとき、仏教徒は、この神の祭祀に十一面観音を習合させたことは、たしかに、白山・早池峰などにみることができます。
 ところで、この湯浅権太夫の母堂の逸話は、室根山側の伝承では、本宮と縁深い御袋[おふくろ]神社(御袋権現)のそれとして語られています。千葉房夫『室根神社史実録』(室根村文化財保護委員会)は、「安永四年の浜横沢村風土記」に、御袋権現の勧請伝承として「人皇四十四代元正天皇御宇養老二年当郡下折壁村室根本山権現創立之節、同時紀州熊野より勧請之由申伝に候事」とあることを紹介するも、「この記録では室根神社本宮と同時に勧請されたことは知られるが、祭神については一言も触れるところがない」と添えています。
 千葉氏は、「室根山由来記」の記載として、次のような「御袋大権現」の勧請譚を紹介しています。

 養老二年牟婁峯山大権現御鎮座ののち勅使の公卿は帰京したるも、湯浅権太夫玄晴は別勅諚を蒙り、御師としてこの郷に住し給うや、湯浅の御母堂八十七才になりたまいしが、常々熊野大権現の御信仰厚かりしを以て、熊野本宮の東夷奉遷の供奉に加わり、南海より遠路遙かに下りたまう船中にて、病に罹りて御遷宮の御社に達し給わずして没せられた。御遺言によって一夜の内に近隣の婦を集めて布を織り、御本尊十一面観音に御鏡を添え、その布に包みて流し送りたるに、此の小船折壁の郷中津湊に止まりて、三年過ぎたれ共猶流れ行かず、郷民等奇瑞に思い、これを揚げ奉りて、湯の花を捧げて神意を伺いしに、神霊この地に止まりて長く郷民を利益せんとの神託なるを以て、この地に勧請して御袋大権現と崇め奉りしという。時に養老四年九月十七日であった。それ故九月十七日を本社の祭日と定めしという。なお牟婁峯山御祭礼に際しては御神輿を背負いて、祭場に来りて御同祭ありとも御山に登らせ給うことなし。これ即ち湯浅権太夫玄晴母堂御登山なくして没し給う故なり。猶この時の古例伝わりて近所の婦女、一夜の内に麻をうみ機を織り、御鏡を包み、御神事の節は出づるなり。

 ここには、とても興味深いことが、少なくとも三つ書かれています。一つは、「湯浅権太夫玄晴は別勅諚を蒙り」とあるように、この十一面観音が当地へやってきたのは「別勅諚」、つまり、蝦夷征討の祈願神としてまつることとは別の勅命によったものだとあることです。二つは、この十一面観音と習合する神の託宣は「この地に止まりて長く郷民を利益せん」で、蝦夷征討祈願といった武の神徳ではなく、郷民守護を述べていることです。三つは、この神託のあと、「この地に勧請して御袋大権現と崇め奉りし」とあることです。「この地」は現在の室根町折壁字欠入田の地で、ここへいずこからか「勧請」してきたということです。この逸話は、小船に乗せられた十一面観音の漂着後の話ですから、この「いずこ」が紀州でないことは明白です。
 室根山(本宮)側で語られる伝承は、自身の神が着岸・上陸した唐桑側の伝承をことさらに無視しているかのごとく、総合して語ることがないようです。室根山に熊野神がまつられる過程として、第一仮宮(業除神社)、第二仮宮(瀬織津姫神社)、第三仮宮(熊野神社)があると伝える唐桑側の主張は重要で、御袋神社(御袋大権現)にしても、当初の漂着場は舞根(瀬織津姫神社の鎮祭地)であったと伝承されることは、やはり無視できないものとおもいます。
 このことを念頭において、引用の御袋大権現の勧請に関わる三点の関心事項を再考してみます。
 その一の「別勅諚」については、瀬織津姫祭祀の観点からいえばですが、天武・持統天皇以来の各天皇のなかで、元正女帝は珍しく害毒の少ない天皇であったということがありそうです。蝦夷征討の祈願神として熊野本宮の霊神を送り込んでくるだけで足りたはずなのに、それとは別の勧請を勅命していたこと、結果、その漂着地に瀬織津姫神社の名が現存していることの意味は大きいとおもいます。御袋権現という名で「祭神については一言も触れるところがない」にしても、瀬織津姫神社の伝承を重ねてみれば、御袋権現には瀬織津姫神が習合していることになります。
 その二の郷民守護の神託にしても、その一に関わることでしょうし、その三の、現在地(折壁字欠入田)へどこから勧請してきたかという問いにしても、唐桑の瀬織津姫神社からと考えるしかありません。
 御袋権現に瀬織津姫神が習合・投影していることについて、室根山(本宮)側の別伝承に、その痕跡を拾うことは可能です。『室根神社祭のマツリバ行事』は「関連諸社」の一つ「御袋神社」にふれています。

御袋神社
〔前略……すでにみた御袋権現の勧請譚がはいる〕
また別の伝説では、御袋権現は本宮(姉宮)新宮(妹宮)の母神で、唐桑に上陸、観音寺を経て下坂から佐野下の大石に休んだが、自分はつかれたからお前達だけでも山へ登れと履物を娘達に渡してここで終ったことにもなっている。
 また一説には、御袋は「御祓」の転語にして、室根神社里宮にて、室根神社と同一祭神たり。故にその奉祭せる別霊を特別大祭の際に併せ祀るために参加するものなりという。

 別説一は、室根山に新宮が勧請された正和二年(一三一三)以後につくられた伝説ですが、御袋権現は室根神の「母神」であるとのことです。この母神を熊野権現の母胎神と読み替えますと、言い得て妙の伝説です。
 別説二は、御袋が「御祓」の転語としますと、御袋大権現は「御祓大権現」ということになります。瀬織津姫神はまさに「御祓」の神ともみなされていましたから、御袋権現に瀬織津姫神が習合・投影していることをよく伝えるものと読めます。また、唐桑・瀬織津姫神社の異称「室根神社」、親称「室根さん」をおもえば、瀬織津姫神が習合・投影した御袋権現は、まさに「室根神社と同一祭神たり」でしょう。瀬織津姫神が十一面観音に置き換えられることは諸例あることで、御袋権現も室根神も、その本地仏を十一面観音としていることは偶然ではありません。室根山・室根神社境内には「千年杉」が神木として存在することが喧伝されています。しかし、それと遜色のない太さの大杉が御袋神社境内にもあり、両者の祭祀時間が同等に溯る古さをもっていることを告げています。

室根祭祀【御袋神社─社標】

室根祭祀【御袋神社─社頭】

室根祭祀【御袋神社─社殿】
▲御袋神社

室根祭祀【御袋神社─神木】
▲御袋神社の神木

 唐桑側が、室根神=熊野本宮神を瀬織津姫神と伝えていることは、全国的にみれば、とても稀少かつ貴重な伝承というべきです。この唐桑側の伝承・主張が特異なものでないことを、わたしたちはよく受け止める必要があります。熊野本宮神とはなにかについて、唐桑側の伝承とは別角度から、次のように述べられてもいました(菊池展明『円空と瀬織津姫』下巻)。

 藤原氏の氏神をまつるとされる春日大社だが、『古社記断簡』は、本殿(第四殿)にまつられる姫大神(瀬織津姫の名を封じた異称神)の本地仏について、ここも白山ほかと同じく「十一面観音」とするも、「御形吉祥天女ノ如シ、カサリタル宝冠シテ、コマヌキテ御座」と、一言主神とよく似た説明をしている。春日大社は現在、瀬織津姫神を本殿では姫大神という抽象名に変更し、この神を境内末社の祓戸神社に「大祓神」として降格祭祀をしている。『古社記断簡』は、この祓戸神社を「祓殿」とし、その説明は「祓戸明神、所謂瀬織(津)姫明神、或熊野証誠殿、御本地阿弥陀」である。熊野三宮の本地仏についていえば、熊野本宮は阿弥陀如来、新宮(速玉大社)は薬師如来、那智宮は十一面千手観音で、『古社記断簡』の記載は、瀬織津姫が熊野本宮(熊野証誠殿)の神でもあることを告げている。瀬織津姫という神は、かつては熊野大神でもあった。

 熊野本宮神が室根山にまつられる過程は、第一仮宮(業除神社)→第二仮宮(瀬織津姫神社)→第三仮宮(熊野神社)を経てのことだというのが、唐桑側(業除神社)の伝承です。しかし、室根山側の伝承をみますと、第四仮宮もあったようです。『室根神社祭のマツリバ行事』は、次のように書いています。

荒谷白山神社
 現在社殿はないが、上折壁風土記によれば「慈覚大師ガ加賀ノ白山ヨリ分祠シタルモノニシテ白山妙理大権現トイフ本地十一面観音ヲ本地仏トス」とある。またこの社地は、室根神勧請の折、神社造営中仮安置所との申伝えがあって、古例により祭例[ママ]の節は、境内の御神木の杉の葉をもって御仮宮を葺くならわしとなっている。これは正和年中よりの式礼と伝えている。

 熊野の神霊に対して、どこに鎮まりたいかとの伺いに、室根山(当時は鬼首山)と神託した場所は唐桑・瀬織津姫神社においてでした。神霊は第一から第三の仮宮を経て、室根山麓に逗留することになります。それは、山に最終的に鎮まるための神殿を造営する必要があったからですが、その造営が成るまでの期間、神霊は荒谷の地に逗留することになり、引用文はそれを「仮安置所」としています。室根大祭時の「御仮宮」設定にも表れているように、「仮安置所」とは仮宮のことです。この荒谷の地にも仮宮、つまり、第四(最後)の仮宮がありました。
 第一から第三の仮宮に熊野神(の分霊)が一時逗留すると、その仮宮は神社化します。この仮宮の遷宮過程を考えますと、第四(最後)の仮宮も、もともと熊野神(の分霊)をまつって神社化したものとおもわれます。
 これは養老時代のことですが、時代が下った平安期、慈覚大師(円仁)がやってきて、この熊野の神霊がまつられているはずのところに、加賀白山から勧請して白山妙理大権現(本地十一面観音)をまつったとされます。
 熊野の神霊が先行祭祀されているところに、白山の仏教的祭祀をかぶせるという行為は、先住の神霊に対して、一見、礼を失することにみえます。この第四仮宮はのちに白山神社となり、しかし、「現在社殿はない」状態とのことですから、これは事実上の廃社です。したがって、ここにどういう神が本来的にまつられていたかを特定するのは困難です。ただし、第一から第三の仮宮にみられる神(熊野神)と白山妙理大権現(本地十一面観音)とが矛盾なく置き換わる──、そのような円仁の祭祀意識だけは抽出することができるでしょう。
 この第四仮宮の祭神の不明性は、そのまま室根山のそれに反映しているといってよく、この室根山祭祀にこそ、円仁は深く関与していました。『室根神社史実録』は、「室根神社の祭神について明確に記録された古文書は現存していない」とし、江戸期「享保二年(一七一七)の風土記書上」を引用しています。

一、室根山本山大権現
 但し本地十一面観音養老二年鎮守府将軍従三位兵部卿大野朝臣東人御建立、御開山慈覚大師、秘仏故御作相知れ申さず候

 室根山の本山(本宮)の本地仏は十一面観音、また室根山の「開山」者として慈覚大師(円仁)の名がみられます。『史実録』は「安永四年(一七七五)の風土記」も引用していますが、そこには大野東人の勧請伝承が記されるのみで、この二つの史料に対して「何ら祭神に触れることがない」と苛立ちを隠していません。
 室根神社の祭神が明記されてくるのは、大正八年の「県社昇格願」という申請書においてとのことで、そこで初めて「祭神 伊弉册命」が登場してきます。唐桑側の祭祀伝承等を総合すれば、室根山の神は熊野本宮神と同体ですから、室根神社祭神は瀬織津姫神と断じる以外にありません。しかし、室根神社は、いかにも方便というしかない「祭神 伊弉册命」をもって県社へと「昇格」することを選択したようです。あるいは、室根神社自身、自社祭神を明確に把握・認識していなかったというのが実態だったかもしれません。長い神仏習合の時代がつづいて、本地仏・十一面観音のみははっきりしているものの、この観音と習合する神の名が明確に記録されてこなかったことも考えられるからです。

室根神社【社標】
▲室根神社社標

室根神社【本宮・新宮】
▲室根神社本宮(右)と新宮

 室根山の神が不明化される最大の契機は、円仁(天台宗)による仏教祭祀の導入にあります。これは、一人室根山に限られるものではなく、東北地方全体にもいえることです。武人・大野東人にとっては、蝦夷征討が悲願といってよく、その加護を頼んだ熊野神を曖昧にする動機はありません。同じく武人の坂上田村麻呂においても、蝦夷(あるいは阿弖流為)征討の必勝祈願をしたとしても、その祈願神の不明化に荷担する理由はありません。円仁は、大野東人の時代からはるかに遅れて、また、田村麻呂や文屋綿麻呂による蝦夷平定のあとに東北の地にやってきます。
 円仁による室根山の「開山」伝承は、少し揶揄的にいえば、祭祀改竄[かいざん]を伴うものでした。室根山における円仁の護国仏教の導入は、東北全体からいっても並外れたものでした。『室根神社史実録』は、「牟婁峯山護摩壇」の項で、次のように書いています。

 人皇五十四代の聖主仁明天皇の御代嘉祥三年九月に、天台の座主僧円仁(慈覚大師)東国に御下りになり、室根山の頂上にて北の壇西の壇を造り浄め、石を敷き梶の葉を並べ供物を供え、金剛の法界大日両部執行の御護摩を焚き、百日百夜の御修行により、衆生成仏済度のため、天下長久国家安全の御祈禱をなさる。これより室根山全山天台宗(比叡山真流)となり、護摩壇設置され、衆生済度天下長久国家安全鎮護の大霊場となる。

 円仁の「百日百夜の御修行」と「天下長久国家安全の御祈禱」によって、以後「室根山全山天台宗(比叡山真流)」となったとあります。また、室根山は「衆生済度天下長久国家安全鎮護の大霊場」と化したようです。この「大霊場」の実態については、「山麓に設立されし頭寺」四寺の一つ八大山金剛寺の由緒に読むことができます。『史実録』は、「千厩町奥玉祓川の藤野健一氏所蔵」とされる「八大山金剛寺之由緒」も収載しています。

 畏くも八大山金剛寺と申し奉るは人皇五十四代仁明天皇嘉祥三年僧円仁勅願を以て、東奥諸根山(由来記には牟婁峯山とあり)頂上に於て、陰陽二壇を修し、百昼夜雲中に勅願の御護摩御祈禱を修行し、「本山満徳寺」「新山龍雲寺」「八大山金剛寺」「藤咲栄泉寺」「円光宝鏡寺」を建立し、二か所の鳥居、四か所の祓川金剛童子、四十八院、八十八坊山麓に社額寺塔を並べ、西麓には八大山金剛寺、龍徳寺、坊中には滝本坊、梅木坊、宝寿坊、清水坊、峯野坊、大覚坊を建立し、霊山より末社境内殺生禁断、社領は桃生郡内にて一千五百町歩天朝より寄附せられ、陸奥守藤原興世堂社寺坊を改修し、慈覚大師を山主と定め、各三又川に祓川金剛童子を置く。〔後略〕

 本尊本地仏・十一面観音を中心に、円仁は主要寺五寺、四か所の祓川金剛童子、四十八院、八十八坊を建立・整備したとあります。まさに「室根山全山天台宗(比叡山真流)」と化した景観といわねばなりませんが、これら全体の建立・整備を円仁一人がなしたと考える必要はありません。とはいえ、「四か所の祓川金剛童子」の設定は象徴的というべきです。
 円仁は室根山頂に「北の壇西の壇を造り浄め」、あるいは「陰陽二壇」を造って護摩祈禱をおこなったとされます。「北の壇西の壇」を造るというのが天台宗の秘儀あるいは儀軌にあるものかはわかりませんが、ただ、室根山頂に立ってみればわかるように、「北の壇」と「西の壇」を拝礼したとき、たとえば「北の壇」の先に聳えるのは早池峰山、「西の壇」の先には栗駒山(須川岳)が聳えています。栗駒山(一六二七㍍)は栗原郡の駒ヶ岳ということで栗駒山の山名が生じたもので、ここには駒形大神がまつられています。

室根山【山頂─石碑】
▲室根山頂

室根山【山頂─アザミとリンドウ】
▲室根山頂に咲く薊と竜胆

 早池峰の神は、男系太陽神を背後に隠すも瀬織津姫神で、早池峰山(遠野郷)においては、この神は「早池峯山駒形大神」の異称をもっています。
 室根山(八九五㍍)のほぼ真北約八〇キロメートルのところに位置するのが早池峰山(一九一七㍍)で、山頂から両山が互いに視認しうることは重要です。いいかえれば、室根山(神)を南から拝むことは、早池峰山(神)を拝むことを意味してもいます。室根山頂(北の壇)で「御修行」していた円仁が、北方に聳える早池峰山を意識していただろうことはじゅうぶんにありうることで、円仁は瀬織津姫神をまつる早池峰山へもやってくることになります(栗駒山も同じくです)。「早池峯山妙泉寺世代年表」(佐々木又吉編『早池峰山妙泉寺文書』所収)には、次のようにあります。

斉衡年中(八五四~八五七)、慈覚大師来山し早池峯山妙泉寺創建。また新山宮建立。長円坊(開山・始閣藤蔵の子…引用者)は退いて社人となる。

 円仁は、藤蔵父子による早池峰山祭祀がすでにあるところへやってきて、妙泉寺を建立します。これは強引な祭祀介入でしたが、山神かつ滝神の瀬織津姫神ゆかりの滝川をわざわざ「祓川」に名称変更したことも記録されています(「妙泉寺継[系]図幷兼記」)。この祓川が設定されるということは、早池峰神の祓神化を意味し、また、神は本地の仏の背後に隠れることを意味してもいました。室根山にも早池峰山と同様のことが出来[しゅったい]したとみるしかありません。
 室根山に天台宗の一大拠点がつくられたことにおいて、その先住の神まつりは大きな変容をこうむったことになります。明治期、神仏分離後に神社化する際、仏の背後の神を伝えつづける伝統の有無によって、神社祭神の表示の正確さにも差が生じたはずで、そこが早池峰山と室根山の大きな違いといえます。
 円仁の時代、天台宗は護国仏教の先端を走っていました。ここでいう護国仏教は国家仏教といいかえてよく、これは、近代の国家神道の仏教版というべきで、つまり、天皇の国家にいかに奉仕するかというのが、その宗教思想の根幹にありました。国家の神祇思想に抵触する神をいかに記紀神話の神に置き換え民衆の信仰心を統一するかというのが国家神道の主眼としますと、平安期、それを先取りするように護国思想・国家思想を体現していたのが天台宗でした。天台宗(円仁たち)は、神を記紀神話の神に置き換える代わりに、仏(権現)をもって「神隠し」をしてまわったのでした。
 しかし、室根山祭祀への干渉・改竄において、少なくとも二つの点で、円仁の護国思想(の貫徹)は完全ではなかったことを指摘しておく必要がありそうです。
 その一は、熊野本宮神が紀州からの長い航海の末に着岸・上陸した唐桑の地を、円仁は視野の外においたことです。円仁(たち)が、その祭祀消去の絶対対象としていた神の名を唐桑に残したまま、室根本山の「神隠し」を仏教的に専断しても、それこそ「頭隠して尻隠さず」の類でした。
 その二は、熊野神がまつられていたはずの第四仮宮の祭祀に、加賀白山から白山妙理大権現(十一面観音)をかぶせたことです。白山祭祀・信仰の加賀側は、たしかに天台宗による祭祀改竄が成就していて、その上での勧請だったのでしょうが、しかし、白山祭祀・信仰の美濃側においては、同山信仰の枢要部に瀬織津姫神の名を刻んでいました(『円空と瀬織津姫』下巻)。つまり、白山・熊野の本源信仰にまで遡及するならば、白山・熊野は同体祭祀といってよく、円仁はそれを熟知していたゆえに、熊野神(瀬織津姫神)に白山妙理大権現(十一面観音)を安直に重ねることを自身に許したものとおもいます。これと同じことをしていたのが、秋田県由利本荘市の日住白山神社における円仁で(『円空と瀬織津姫』上巻)、この二つの例は、やはり円仁(たち天台宗徒)の「うかつ」でした。
 養老二年、元正天皇からの「別勅諚」を受けてやってきた湯浅権太夫玄晴、その母堂の信仰によって瀬織津姫神社・御袋神社の名が残ったのでした。このときの神の託宣は郷民守護を述べたにすぎませんでしたが、一方、先行する表の勅命によって、蝦夷征討祈願の神威を期待されてやってきたのが熊野本宮神でした。もともと熊野の民も蝦夷の民も異種というわけではなく、朝廷の国家支配・軍事支配を受容するか否かの線引きにおいて、特に東国において服属を拒んだ民が蝦夷[えみし]と仮に呼ばれるにすぎません。
 こういった蝦夷の居住する地を国名化したものが日高見国で、この名は、たとえば『常陸国風土記』逸文「信太郡」条に、「此の地[くに]は、本[もと]、日高見の国なり」とあることにみられます。日高見国が転じた常陸国、その奥(北)ということで陸奥[みちのおく→みちのく]国が設定されるわけですが、それは朝廷支配の境界ラインが北上したことを意味していて、当然ながら日高見国の別称として陸奥国はあります。この最後の日高見国の地で、朝廷軍の一方的侵略に対して、独立の天地を守るために敢然と抵抗・反撃をつづけた蝦夷連合軍の長が阿弖流為かとおもいます。その抵抗・反撃の並外れた強さによって、阿弖流為は悪路王の名で、つまり、悪の権化のような名で伝説化され、一方、必然的に田村麻呂の過剰な美化伝説として語りつがれることになります。
 高橋克彦『火怨』は、阿弖流為を主人公とした歴史小説ですが、そのなかで、蝦夷と物部氏が奉じる神として「アラハバキの神」の名が書かれています。また、この神をまつる社として、現在の花巻市東和町に鎮座する丹内山神社が挙げられています。高橋氏は並の学者以上に蝦夷の歴史に精通していて、さらにいえば、蝦夷の「人」としての心情・感情への透徹した想像力を駆使して作品(小説)化しています。
 蝦夷(阿弖流為)たちが奉じる丹内山大神について古伝承を調べてみますと、この神の出現地は、猿ヶ石川対岸(北岸)の山中にある「滝沢の滝」で、そこにまつられる滝ノ沢神社の祭神が瀬織津姫神です。また、近江雅和『記紀解体』(彩流社)には、伊勢内宮別宮「荒祭宮」の神は「津守大明神」ともいわれ、別伝として、「アラハバキ姫」とも呼ばれるという伝承が拾われています。荒祭宮は瀬織津姫神の異称「天照大神荒魂」をまつる社で、アラハバキ信仰と瀬織津姫神はとても深い関係があります。
 神が一方で蝦夷の神となり、室根山に象徴されるように、一方で蝦夷征討の祈願神となるということがあります。こういった事象をどう理解すべきかはやはり大きな難問ですが、新野直吉『田村麻呂と阿弖流為』(吉川弘文館)は、「国家側と蝦夷側との神仏信仰のいわば乗り入れ関係」があるとして、「もともと蝦夷と呼ばれる人々の神信仰が、いわゆる大和の人々の神信仰と本質的に異なるところがなかった」と結論しています。
 新野氏は「国家側と蝦夷側との神仏信仰のいわば乗り入れ関係」の一例として、次のように書いています。

東北の地主の神は当然もともと原住の人々の神である。その神は日本古代国家が国策的に崇敬する以前からのいわば蝦夷の神としても地域の信仰界に君臨していたのである。そのような現地の神を、すでに七世紀半ばに阿倍比羅夫は五色の綵帛を船一隻とともに供える大和流の祭祀で奉斎している(『日本書紀』)のである。だから国側はおそらく氏姓時代から現地を政治支配するに当たっては、現地の神信仰を尊重するようにしていたものと推定できる。

 これは、「国家側が蝦夷側の神を崇敬する」一例ですが、ここでいわれている「蝦夷側の神」について述べれば、この神は、斉明時代の阿部比羅夫による蝦夷征討時に、「齶田[あぎた]・淳代[ぬしろ]二郡の蝦夷」の代表(酋長)とおもわれる「齶田の蝦夷恩荷[おが]」が、自分たちの持っている弓矢は決して官軍(朝廷軍)には向けませんと誓った神が「齶田の浦の神」であったことを指しています。
 この「齶田の浦の神」については、菅江真澄が『雪の陸奥[みちおく]雪の出羽[いでわ]路』で、「真住吉[マスミノヱ]の神」のことという地元伝承を拾っています。この真住吉神をまつるのが能代市柳町鎮座の八幡神社境内社「住吉水門龍神社」で、その祭神もまた瀬織津姫神とされます(詳細は『円空と瀬織津姫』上巻参照)。
 蝦夷の国の異称(あるいは真称)として日高見国の名があることについては先にふれましたが、この国名は常陸国の旧名としてあっただけではありません。瀬織津姫神を、天皇・国家にとっての災い(異敵・朝敵といいかえてもよい)を「祓う」神として、国家の都合のよいように限定・封印せんとして策定された大祓祝詞(「六月晦大祓」)には、「大倭[おほやまと]日高見の国を安国と定めまつりて」云々の文言がみられます。天皇の国家が発生するのは大和の地からで、当初、この地も日高見国でした。それを平定して「安国」としたのだという祝詞作成者の認識があるわけですが、これが神武東征伝説(あるいはニギハヤヒ─ナガスヒコ伝説)と内応していることはいうまでもありません。
 瀬織津姫神が、一方で「蝦夷側の神」としてあり、一方で蝦夷征討の祈願神(国家神)としてあるという相反する両義性は、この「蝦夷側の神」(皇祖神をまつる伊勢神宮の基層神あるいは母胎神でもある)を朝廷・国家側が大祓祝詞に封じたことに遠因・真因をみるしかありません。室根神(熊野本宮神)が勧請されたのも、熊野の本源神が大祓神としての神徳機能をもっていることが国家的に認知されていたからとみなさざるをえません。「国家側と蝦夷側との神仏信仰のいわば乗り入れ関係」を、より具体的に示せば、以上の解釈に尽きるはずです。
 室根神社の関連年表には、天喜五年(一〇五七)に「源頼義、義家父子、室根神社に参詣緋桜を植える」、康平五年(一〇六二)に「源頼義、義家、阿倍頼時を滅し祈願成就のため神社を造営し、社領三万刈を寄進す」とあります(『室根神社祭のマツリバ行事』)。これらの記述は、前九年の役における源頼義・義家の信仰行為を表したものですが、この役で滅んだ安倍(阿倍)頼時・貞任父子たちは、いわば「逆賊」で、彼ら蝦夷の霊を鎮魂するのは禁忌とされます。しかし、瀬織津姫神を山神として奉祭する全国唯一の山・早池峰山では、山頂に安倍貞任霊神がまつられています(大迫・早池峰神社由緒)。「逆賊」安倍貞任を「神」としてまつるという、これまた逆賊的信仰行為を受容できるのも、この山が「蝦夷側の神」をまつる最後の霊山であるゆえとわたしにはみえます。
 室根山側は、源頼義・義家という中央側の勝者を主役として伝承を年表風に語ります。しかし、唐桑側に眼を転じますと、一味も二味も異なった伝説を拾うことができます。

唐桑【折石・八幡岩】
▲折石と八幡岩(右)

唐桑【折石】
▲折石

唐桑【貞任岩】
▲貞任岩

 唐桑半島の観光的名所(景勝地)に、巨釜[おおがま]・折石[おれいし]という奇岩が並ぶ海蝕断崖があります。折石の近くの海中には、八幡岩・貞任岩といった名称の岩があります。現地の案内板には「前九年の役と唐桑浜里の伝説」と題して、次のように書かれています。

 康平五年(一〇六二)九月、鎮守府将軍、源頼義、義家親子の官軍は出羽の豪族、清原氏の援軍を受けて奥六郡の長、安倍貞任の拠点小松の柵、衣川の柵を攻撃した。大軍団の前に柵は次々と打破られ、さすがの勇猛な蝦夷軍団も退却を余儀なくされ、安倍の将兵達は陸奥の山野に身を隠す事になった。此の時、衣川から見て東の海道の浜里である唐桑は奇岩怪石の連なる恰好の隠栖地であり、川崎の柵(岩手県東磐井郡川崎村)や黄海[きのみ]の柵(岩手県東磐井郡藤沢町)から退散してきた兵員達は山海の産物に恵まれ、風光明媚な此の唐桑の地を安住の場所と定め身を潜めたものと言われる。
 此の為町内には前九年の役の縁の地名や名称が付いた場所が点在し、遙かな陸奥の海道伝説の浜里として現在でもそのロマンが語り継がれている。

 川崎の柵や黄海の柵から敗走する安倍軍の兵たちが、唐桑の地を「隠栖地」とし「安住の場所と定め身を潜めた」としますと、これは、唐桑の人々が彼らをかくまったということを意味してもいます。伝説の基調には蝦夷・敗者への共感(シンパシー)があります。室根山の伝説的伝承が欠落させているものを、唐桑の人々が持ち続けてきたことは、その祭祀伝承にもいえますが、やはり対照的です。
 年表的にいえば、源頼義・義家の前には、蝦夷征討の英雄として多くの美化伝説をもつ坂上田村麻呂がいます。『日本の神々─神社と聖地』(白水社)の第12巻は「東北・北海道」編ですが、同書「室根神社」の項には「延暦二十年(八〇一)坂上田村麻呂が蝦夷征討を祈願」といった伝説的伝承が拾われています。この延暦二十年のこととして、「坂上田村麻呂、達谷窟に蝦夷の巨頭[かしら]悪路王を倒し残党残らず平げ、満願成就の時牟婁峯神社に詣で将軍母衣[ほろ]を負い県主等と共に騎馬で祭礼を行う」と記していたのは『室根神社祭のマツリバ行事』でした。
 こういった悪路王─田村麻呂伝説を室根山に持ち込んだ者は誰かという問いを念頭において本稿を書き始めたわけですが、達谷窟毘沙門堂の本尊や境内社・弁財天社の本尊を彫ったのは円仁とされ、この伝説発信地が同じく「天台宗」の達谷西光寺ですから、円仁(天台宗)またかという思いは禁じえません。
 達谷窟と室根神社に共通してみえる人物の名として、坂上田村麻呂と円仁、そして源義家の名があります。室根山に、田村麻呂と対抗関係にある悪路王伝説を史実かのごとくに伝えた者がいるとして、それが伝説に登場する本人・田村麻呂であるはずもなく、ましてや源義家であるはずもなく、必然的に残る人物は円仁(天台宗徒)ということになります。円仁(たち)は、悪路王─田村麻呂伝説を伝えただけではなく、伝説そのものを創作したことさえ考えてみる必要があるのかもしれません。



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