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北上・多岐神社(新山宮)──妙見信仰の残照

 菊池展明『円空と瀬織津姫』上巻の巻末に「瀬織津姫神全国祭祀社リスト」が収録されています。これは、佐賀・熊本・沖縄を除く44都道府県にまつられる全444社の祭祀リストで、資料は2008年1月現在のものです。
 この資料から今日現在まで三年半ほどが経過していて、その後、ブログ等のネット上に新たな祭祀情報が載せられることなども散見されます。また、「全国の村史(誌)等には、瀬織津姫神の祭祀社がまだ多く記載されていることが予想され」と後書きしましたが、心ある読者によって、資料的にもきちんと押さえた上での新たな祭祀情報も寄せられています。ネット上の情報については、全体を把握するのは困難というのが現状ですが、現在、瀬織津姫神をまつる神社数が444社をはるかに超えるものであることはまちがいありません。
 以上は「瀬織津姫」という神名をそのまま表示している(文献資料的に確認できる)ものという条件での数ですが、しかし、この神は、天照大神荒魂・八十禍津日神・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命、鳥海山では大物忌神など、多くの異称でまつられる場合も多く、それらを含めた全体祭祀の把握はこれからの課題といえます。
 前記祭祀社リストは基礎リストといった性格であり、瀬織津姫神をまつることが最多的に確認されている岩手県においてさえ、新たな「発見」があります。以下、その新「発見」の社を紹介します。

 大正八年に刊行された『和賀郡誌』立花村(現在:北上市黒沢尻立花)の項に、次のような記述があります。

村社 多岐[タキ]神社
橘内にあり。稲倉魂命を祭る。由緒に曰く、
坂上田村麿東征の砌東光水といふ霊泉を祈る。後藤原仲光の祈願所として尊崇厚し。後一條天皇の御代関白藤原頼通朝廷に奏聞し三井兼平を遣し御堂再建、其使者の詠に、
  都にて聞きしにまさる多岐の宮
    峰の古木に照す月影
とあれば、当時境内は古木鬱蒼たりしが如し。現社は文政五年の改築にして、彫刻精巧、鞘堂を以て之を覆ふ。

 社号「多岐[タキ]神社」と祭神「稲倉魂命」という表示にはどこかミスマッチの感が残ります。なぜならば、多岐[タキ]は滝であることが考えられるからです。多岐神(滝神)が「稲倉魂命」(稲荷神)とされる不自然さに加え、「都にて聞きしにまさる多岐の宮/峰の古木に照す月影」といった歌が、現行表示される神にはまったくそぐわない印象を増幅させています。ありていにいえば、ここには本来の多岐神(滝神)がまつられていたのではないかという疑念が消えません。
 こういった疑念を晴らすには現地へ足を運んでみるしかありません。社への道順を尋ねた村人曰く、社殿の背後には小さな滝があるとのことで、多岐=滝であることはまちがいないようです。
 多岐神社は、手持ちの岩手県地図帳に記載がなく、きっと小さな社だろうと想像していましたが、意外なことに、境内には神池もあり、『和賀郡誌』の短い由緒が語るように、ここには「聞きしにまさる」神がまつられていたとしても不思議はないようです。

多岐神社【社頭】

多岐神社【境内】
▲多岐神社

 境内には、郡誌の要約由緒とはちがい、大元らしい長文の由緒が掲げられています。少し長いですが、全文を書き写してみます(段落ごとに字下げを施し、適宜句点を補った)。

多岐神社由来
(北上市)指定文化財 正一位 多岐大明神
 抑[そもそも]、多岐大明神と申し奉るは、往昔人王五十代桓武天皇の御宇、征夷大将軍坂上田村麿、勅命を奉じ東国の鬼神首領、悪路王高丸其の外これに組する鬼神共を退治の為、陸奥に下りけり。
 稲瀬の奥なる三光岳に潜居する岩盤石と申す鬼神、悪路王に組して、余多の手下(を)擁して其の勢力大なるに、将軍三百余騎を差し向けて攻めるも、巌窟峻険にして容易に攻め難く、止むなく北東に迂回して背後より攻め破らんとせしも、路に迷いて難渋、加えて六月中場の炎天、軍兵渇して疲れ倒れる者出る始末なり。
 このとき八十余の翁、薪を背負いて通るを、此の辺りに清水の湧き出づる処無きやと問うに、此の先に清水の湧き出づる泉あり、下流に瀧有りと申したれば、その瀧に到りて陣をとり、渇を癒しければ、兵勇気百倍となり士気大いに揚がる。而かして翁の案内にて三光岳を急襲至しければ、流石の岩盤石も三百余打討られ北方へと逃げされり。
 将軍翁を召して其の功を賞し、砂銀を当分として与えたり。
 其の後将軍、鬼神悪路王其の他の鬼神共を討伐、帰京のみぎり、当所に立ち寄りて、かつての翁を尋ぬるに、村人申すには其の様な翁の住居も無く知る者も無しと、かへりみるに此の地に東光水と申す瀧ありて、この水にて妻の木の枝なるを煎じて用いれば病気直ちに全快するとの霊地あり、翁は其の瀧の化神に非ざるかと申し上げたれば、将軍不思議に思い、瀧に参りて見渡すに……瀧の下なる石に砂銀置かれ在るを見る、些ては矢張り翁は化神にて征軍の難渋しあるを見兼ね、自づから御導引きになられたに相違ないと、その有難さに、瀧の落つるに向いて三度礼拝し、命じて一社を御建立、多岐宮と号し崇め玉もう。
 ときに、延暦二十一癸未年八月の事なり。
 後代に至り藤原仲光、立花村高舘に住みし頃、干ばつ冷温が屡々有りたれば村民困窮の処、東光水の流れる処は独り五穀実りしは多岐宮を祈誓護持し参りし仲光の至誠通じたるか、神の恵みに村人その有難さに参詣怠らずとか、云々。此の由、都に聞こえければ、関白藤原頼通、帝に奏上成りたれば、帝此れを嘉みし、三井兼平を勅使として御遣わしになられたり。
 依つて御堂三間四面を再建され、境内二丁四方、山林十丁を附属して神社守護の礎とし、稲倉大明神と改号せり。
 御堂再建を祝つて三井兼平
  都にて聞きしに満さる多岐の宮
     峯の古木に照らす月影
と詠みたり。
 時に長元八年四月、後一条天皇の御宇なり。
 文政七年に至りて、此れまでも神社の修復、改築は数度行われてきたのだが破損甚だしくなりたれば、南部家の地頭桜庭十郎衛門の助力と近隣の寄附により建立したのが現存の神社にして、彫刻の精巧さは稀少の物とされている。
  多岐神社例祭
    宵祭り  九月十四日
    本祭り  九月十五日

 坂上田村麻呂(麿)時代には「多岐大明神」であったものが、関白・藤原頼通の時代に「稲倉大明神と改号せり」とあります。こういった「改号」を由緒は記録するも、現在は「正一位 多岐大明神」と戻されていることに注意がいきます。
 田村麻呂伝説のなかで語られる「鬼神悪路王」は、『続日本紀』延暦八年(七八九)六月三日条に「賊帥[ぞくすい]夷[えみしの]阿弖流為[あてるゐ]」と初出される、朝廷軍に敢然と立ち向かった蝦夷[えみし]の首魁・阿弖流為を偽悪化した表現です。
 阿弖流為を悪路王の名で偽悪化するというのは、裏返せば田村麻呂の美化(伝説化)とセットというべきで、東北の多くの寺社が、この田村麻呂伝説を自らの縁起・由緒として取り込んでいます。多岐神社の由緒の前半などは、その典型といえましょう。
 ところで、悪路王という名の初出を文献的にいうならば、それは、鎌倉期に成る『吾妻鏡』かとおもいます。奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、鎌倉への帰途、平泉南西にある達谷窟[たっこくのいわや]に立ち寄ります。『吾妻鏡』では、達谷窟は「田谷窟」と表記されていますが、文治五年(一一八九)九月二十八日条に、次のようにあります。

是(田谷窟=達谷窟)田村麿、利仁等の将軍、綸命を奉りて夷を征するの時、賊主悪路王並びに赤頭等、塞を構ふるの岩屋なり、〔中略〕坂上将軍、此窟の前に、九間四面の精舎を建立して、鞍馬寺に模せしめ、多聞天の像を安置し、西光寺と号して、水田を寄附す、

 中央側の史書(『続日本紀』)に明記されていた「阿弖流為」の名が「悪路王」として『吾妻鏡』に記されているところをみますと、坂上田村麻呂の伝説化(美化)は平安期にすでに形成されていたとみることができます。この伝説化の発信地はいうまでもなく、田谷窟=達谷窟(の西光寺)で、この伝説化(美化)は「達谷窟毘沙門堂縁起」に端的に表されています。

達谷窟毘沙門堂縁起
 約[およ]そ千二百年の昔、悪路王[あくろおう]・赤頭[あかがしら]・高丸[たかまる]等の蝦夷がこの窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を掠める等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麿公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された。対する悪路王等は達谷窟より三千余の賊徒を率い駿河国清見関[きよみがせき]まで進んだが、大将軍が京を発するの報を聞くと、武威を恐れ窟に引き返し守を固めた。延暦二十年(八〇一年)大将軍は窟に籠る蝦夷を激戦の末打ち破り、悪路王・赤頭・高丸の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。大将軍は、戦勝は毘沙門天の御加護と感じ、その御礼に京の清水[きよみず]の舞台造を模[ま]ねて九間四面の精舎を建て、百八躰の毘沙門天を祀り、国を鎮める祈願所とし窟毘沙門堂と名付けた。そして延暦二十一年(八〇二年)には別当寺として達谷西光寺[たっこくせいこうじ]を創建し、奥眞[おうしん]上人を開基として東西三十余里、南北二十余里の広大な寺領を定めた。〔後略〕

 悪路王たちは「この窟に塞を構え、良民を苦しめ女子供を掠める等乱暴な振舞が多く、国府もこれを抑える事が出来なくなった。そこで人皇五十代桓武天皇は坂上田村麿公を征夷大将軍に命じ、蝦夷征伐の勅を下された」とあり、朝廷側による蝦夷征討の正当性・正義性が縁起化されています。この正当性・正義性の延長上に田村麻呂の美化・伝説化はあるといって過言ではないのですが、偽悪化された悪路王を史実の阿弖流為に戻してみれば、これらの縁起表現がまったくの虚構であることは明らかで、ゆえに阿弖流為ではなく悪路王という名の蝦夷の凶悪人が創作される必要があったといえます。

達谷窟【毘沙門堂─全景】
▲達谷窟毘沙門堂

 東北の寺社にみられる田村麻呂の伝説化・美化は、西国においては神功皇后に相当するものですが、いずれにしても、朝廷の征討論理を糊塗しつつ歪曲的に正当化する構造となっています。多岐神社の由緒の前半も、この田村麻呂の美化伝説を踏襲したものですが、悪路王にしても三光岳の岩盤石という「鬼神」にしても、史実レベルでいうならば、朝廷側の一方的侵略軍に対して抵抗した蝦夷の首長たちを偽悪化したもの以上ではありません。
 阿弖流為や母礼[モレ]を首領とする蝦夷の抵抗は延暦二十一年(八〇二)までつづくも、同年四月十五日、阿弖流為らはついに田村麻呂軍に降伏、京に連行された阿弖流為たちは、田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず、八月十三日に斬刑に処せられたとされます。この田村麻呂の助命嘆願が史実であったかどうかは検証のしようもありませんが、田村麻呂の美化・伝説化の端緒的動機とはなっています。
 多岐神社由緒は、田村麻呂が悪路王をはじめとする岩盤石の討伐に難渋していたとき、「東光水と申す瀧」の「化神」の加護によって勝利を得たとしています。また、田村麻呂が一社を建立し「多岐宮と号し崇め」たのは「延暦二十一癸未年(癸未は延暦二十二年…引用者)八月の事なり」としています。延暦二十一年八月は、阿弖流為たちが斬刑に処された月でもあり、由緒が延暦二十一年にこだわっているとしますと、この符合は偶然ではないようにみえます。『日本紀略』同年七月二十五日条には、蝦夷平定の祝賀の会が朝廷内で催されたとあるように、朝廷サイドからすると、積年の難敵・阿弖流為たちの降伏(→処刑)は祝賀に値するほどの画期だったようで、その象徴的な年が延暦二十一年でした。
 朝廷側による一方的侵略に対して、自立自尊・専守防衛に徹する蝦夷は、侵略側にとっては理解の外にある存在で、これも一方的というしかありませんが、蝦夷は未開の野蛮人・異人、つまり「蛮夷」とみなされていました。しかし、阿弖流為の時代、彼の本拠地近く(奥州市水沢区黒石)には、天平元年(七二九)行基による薬師如来の造像および薬師堂建立伝承(開基伝承)をもつ黒石[こくせき]寺(旧正月七日夜半から行われる「黒石寺蘇民祭」の奇祭でよく知られる)がすでにあり、ここは阿弖流為の信仰とも関わる可能性があります。

黒石寺【寺頭】

黒石寺【本堂】
▲黒石寺

 黒石寺の年表によれば、天平二年(七三〇)に「伝、行基和尚(六二歳)、薬師堂の傍に寺を建て『東光山薬師寺』と称する」とあり、嘉祥二年(八四九)には、「伝、天台宗三世慈覚大師黒石に来る(当時六五歳)。東光山薬師寺を妙見山黒石寺とする。将意和尚に寺を譲り黒石を去る」とあります。
 黒石寺の山号・寺号が東光山薬師寺から妙見山黒石寺へと変遷したことがわかりますが、当初の山号に「東光山」とあることと、多岐神社由緒に「東光水と申す瀧」といった滝名がみられることは興味深いといわねばなりません。
 阿弖流為(悪路王)の時代、あるいは田村麻呂の時代、すでに東光山薬師寺があったように、「東光水と申す瀧」が当地にはありました。田村麻呂は、この瀧の神に鬼神討伐の加護を祈ったということになります。
 さて、境内由緒の文面を読んで、社殿の背後にまわってみますと、小さいながらも、たしかに「東光水と申す瀧」があります。いや、もう少し正確にいいますと、多岐神社社殿の真裏にはもう一つ社殿(祠)があり、その背後に「東光水と申す瀧」があります。この祠は「新山宮」といいますが、参拝の信仰ラインを重視するならば、多岐神社社殿(拝殿・本殿)自体が新山宮の拝殿を構成し、いいかえれば、新山宮こそが本殿に相当するようにみられます。

多岐神社【拝殿・本殿・滝】
▲多岐神社【社殿】

多岐神社【新山宮─東光水(滝)】
▲多岐神社【新山宮と東光水の滝】

 新山宮(覆い屋)の柱には三行の説明紙が貼られていたようですが、なぜか真ん中の一行が剥ぎとられているも、「新山様は子を授け安産護りの子孫繁栄の宮です」(欠行)「瀬織津姫ノ命を祀る女性の神様です」とあります。
 欠行文の問題はともかく、ここに正統祭祀とみてよい滝神の名が確認できるのはとても重要です。また、本来ならば多岐神社に奉納されなくてはならないだろう「正一位多岐宮〔家内安全・諸願成就・無病息災・開運厄除〕御守護」と記された札が、多岐神社ではなく、その背後の新山宮に奉納されてもいます。多岐宮神・多岐大明神は「新山様」のことであるとよくわかっている人の奉納であることは確実です。

多岐神社【新山宮─神札】
▲新山宮への奉納札

多岐神社【新山宮─瀬織津姫命】
▲新山宮の祭神

 岩手県神社庁編纂『岩手県神社名鑑』によれば、多岐神社の通称は「お多岐さん」、祭神は「稲倉魂命」、由緒欄には「創立年代不詳」として社殿建立の歴史を記し、「明治四年(一八七一)立花村の村社に定められる」と、ほとんど由緒不詳をいっているにすぎません。また、境内社として「新山神社」の名がみられるものの、同社祭神は不明記で、ここに瀬織津姫神がまつられていることは、多岐神社へ足を運び、さらに社殿の背後にまわってみて初めて知られることです。
 境内案内に、関白・藤原頼通時代の長元八年(一〇三五)四月に「稲倉大明神と改号せり」とあり、以後、多岐宮(多岐神社)の表の祭神は「稲倉魂命」となったものとおもわれます。しかし、多岐神社の氏子崇敬者は、そういった表(建前)祭祀の背後で本来の多岐=滝の神を「新山様」としてまつりつづけてきたことになります。ここに至るには千年近い時間を経ていて、さらにいえば、明治期の祭神変更の猛威もかいくぐってのことでしょう、本殿背後に「新山様」をまつりつづけてきた多岐神社氏子衆、その崇敬信仰の心が並でないことを想像させます。
 新山宮の祠の施錠されていない扉を開くと、そこには、土製とみられる瀬織津姫の坐像姿の神体像が安置されています。瀬織津姫という神が「女性(守護)の神様」として崇敬されているのは、北海道・福島町の川濯神社などにみられます。
 もっとも、新山宮に限れば、「崇敬」といった強ばったことばはふさわしくないかもしれません。たぶん女性参拝者の奉納によるものでしょうが、神体像の周りには化粧用の鏡や櫛、像にはネックレスがかけられていて、この神(女性の神様)が人と等身大の対象として遇されていることが微笑ましくもあります。遠野などは典型かもしれませんが、神と人に優劣の関係をつくらず、要するに、神様は見上げて仰ぐのではなく、人とともに喜怒哀楽・生活を共にするものという、とても身近な存在であるという神認識がここにもあるようです。

多岐神社【新山宮─神体像】
▲新山宮の瀬織津姫神像

 神が人と対等という関係において、なお信仰の対象としてあるとき、だれよりも神自身がまずほっとするのではないかというのは、わたしの究極の神観念かもしれませんが、新山宮の祭祀にそういった未来像をみた気がしました。
 ところで、黒石寺の山号は、円仁(慈覚大師)によって東光山から妙見山に変更されたわけですが、九州の大分・宮崎県においては、妙見と習合する神として瀬織津姫神の名が複数みられます。黒石寺本堂の左背後には妙見堂があり、黒石寺ではなく妙見堂の「奥の院」が山中にあります。妙見の本地仏は古くは十一面観音、のちには薬師如来とされますが、黒石寺本堂とは別に妙見堂があることから、行基が持ち込んだ薬師信仰の前に妙見信仰があったものとおもわれます。

黒石寺【妙見堂】
▲妙見堂(黒石寺本堂の左背後)

黒石寺【妙見堂─本尊】
▲妙見菩薩像(脇侍は北斗菩薩)

 黒石寺には、本尊・薬師如来坐像(国指定重要文化財)のほかに妙見堂にまつられていた妙見菩薩像も伝えられています。北海道・厚沢部町の滝廼[たきの]神社の瀬織津姫神の神体像は右手に剣、左手に珠をもつ姿でつくられていましたが、黒石寺の妙見菩薩像も同じくで、ただ異なるのは、前者が岩上あるいは波上に立つ姿、後者は亀(玄武)の上に立っていることでしょうか。
 妙見菩薩について、『天台宗妙見山 黒石寺』(同寺発行)は「道教・陰陽道の影響が強く、武運長久、国家安穏、五穀豊穣の尊神であるが、物事の真相を見極める霊力があるとされることから眼病平癒の霊力を持つといわれる」と解説しています。これらの神徳・霊力は、誤解をおそれずにいえば、すべて瀬織津姫神のものといってよいのですが、多岐神社においては「五穀豊穣の尊神」が特化されていたというべきかもしれません。その特化の神徳を、本来の神名を伏せて異称化したものが、稲倉大明神(稲倉魂命)だったのでしょう。
 敗者の信仰は後世になればなるほど再現が困難となりますが、阿弖流為の時代、蝦夷の陸奥国にすでに妙見信仰があった可能性が高いこと、および、田村麻呂伝説において、後世のことですが、鈴鹿御前こと瀬織津姫神(鈴鹿山・片山神社の主祭神)がのっぴきならぬ関係として説話化されることを指摘しておきたくおもいます。
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