月の抒情、瀧の激情
自由な思索空間──「月の抒情、瀧の激情」へようこそ。
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菊池展明『円空と瀬織津姫』上巻・下巻──内容のご案内

▲円空と瀬織津姫【上巻】──北辺の神との対話
四六判ハードカバー 本文:406頁 3400円(税別)【迅速発送・送料不要】
【再録】はじめに──円空の余韻と謎(上巻所収)
円空は、寛永九年(一六三二)に美濃国(現在の岐阜県)に生まれ、元禄八年(一六九五)七月十五日に同国(現在の関市池尻)の長良川河畔に入定した。
江戸時代の初期、生涯に十二万体の仏を彫ることを己に課して諸国を行脚し、最後は自らの死期を悟るや土中入定をもって、つまり納得の上で、円空は自らの生涯を締めくくった。
いったい円空とは何者なのか? 彼は、その膨大な彫像の裏でいったい何を考えていたのか?
円空の生涯のアウトラインをみただけでも、円空という人間存在が三百年以上の時間を超えて、なお異彩を放っている印象は消えない。
円空という人物が地元ではどのようにみられているのか、彼の終焉の地とされる「円空入定塚」の案内を読んでみよう。
江戸時代の前期に、鉈[なた]をふるい鑿[のみ]を打って幾多の造仏を各地に伝える円空は、一二万体造仏という菩薩行を営み、素朴な作造のなかに造形力豊かな作品を各地に残し、その創造性・彫刻性・精神性は、あの過酷な封建社会に、少しでも人間らしい生活を求めて、庶民の心の糧[かて]として、多くの人々の心を癒[いや]したに違いない。
その円空が、荒廃にまかせてあった池尻の白鳳時代の寺院跡である弥勒寺を訪れ、元禄二年(一六八九)にこの寺を再興し、同八年七月に死期を悟って自ら入定したと伝えられるのが、この入定塚である。
当該地一四一・八㎡の地目山林の地の中央に、藤[ふじ]・樫[かし]・桜が繁茂し、円空は、里人に入定するに因[ちな]んで「この藤の花が咲く間は、この土中に生きていると思ってほしい」と言い残して世を去ったという。とき、七月一五日であった。
このような強烈な精神力と、おそるべき情熱をもって生涯を閉じた円空は、いまも多くの余韻をここに残している。 関市教育委員会
円空は「藤」に特別の思いをもっている。なぜ「藤」なのか?
入定塚の藤の花は現在も咲きつづけており、円空の「強烈な精神力と、おそるべき情熱」、その「余韻」はいまも健在である。ただ、その余韻のよってきたる淵源、つまり円空の信仰(思想)の全体像がだれにもまだ明かされていないということが、おそらく円空論の最後の課題としてあるのだろう。
円空がとった自らの「死」の意志的な選択(入定)といった行為は一見異様にもみえる。円空の入定は即身成仏の思想によるもので、こういった現世からの離界は、異次元世界への転生といった意識を契機としている。これは、円空が晩年に弥勒寺を再興していることによく表れているように、弥勒菩薩という未来仏・救世仏と自己を一体化させんとする円空の究極の願望によるものだろう。つまり、彼はメシア(救世主)の思想に殉じたものともみられる。では、円空が抱いていた救世の信仰・思想とはどんな内容だったのかという問いも浮かんでくるところだろう。
弥勒信仰に収斂される円空の信仰・思想を考えるとき、わたしたち一般の眼にふれるものとしてだが、彼は二つの大きな表現群を残している。一つは、いうまでもなく「円空仏」といわれる膨大な数の彫像群であり、二つは、約千六百首にわたる「歌(和歌)」である。その他、志摩国への行脚時にみられる墨絵(宗教画)や、円空の信仰の原郷である高賀[こうか]山・星宮神社(郡上郡美並村:現郡上市美並町)に伝わる「粥川[かいかわ]鵼[ぬえ]縁起神祇大事」といった円空創作の縁起書もある。
わたしが本書で問うてみたいのは、弥勒信仰あるいは入定という「死」の選択への前過程としてある、これらの表現群が語る円空の信仰・思想の内実についてである。
これらの表現群のなかには、従来の円空研究書・円空論が首をかしげたり、あるいは無視してきたことがいくつもある。
すでに、円空と藤にまつわる「なぜ」を書いたが、円空の生涯にみられる「なぜ」をいくつか拾い出してみよう。
たとえば、円空の彫像の最初期とみなされている寛文三年(一六六三)作の男女神像がある。これらは美並村根村(現郡上市美並町)の神明神社に奉納されたものだが、円空は男神像を「天照皇太神」、女神像を「阿賀田大権現」として彫像していた。天照皇太神は、『古事記』や『日本書紀』の記述を鵜呑みにするかぎり「女神」アマテラスであることから、五来重氏はかつて、次のように述べていた(『円空佛』淡交社)。
円空の神像にはいろいろ解[げ]せないものがあるが、竜泉寺(名古屋市守山区…引用者)の「天照皇太神」と、背銘墨書のある神像と、美濃郡上郡美並村根村神明神社の背銘ある天照皇太神像は男神である。天照大神の本地、雨宝童子には女神的表現がみられるが、天照大神を男神としてあらわすのは、祇園祭の鉾人形以外に私は例をしらない。神話では高天原で素戔嗚尊[すさのおのみこと]が攻めのぼったとき、天照大神は髪を御髻[みずら]にまいて弓矢をもち、男装したということはある。しかし神官の姿をしたり、顎鬚[あごひげ]を生やすとは論外である。
これは円空の造像がかなり恣意独善で、御神体は氏子に見せるものでないから、かなり自由な作り方をしたのではないかとおもう。
円空が天照皇太神を男神として彫ったことについて、五来氏は「論外」「恣意独善」だという。この五来氏の断定は、その後の円空諸論に、陰陽にわたって影響を及ぼした感がある。
梅原猛氏は、『歓喜する円空』(新潮社)で、円空が天照皇太神を男神として彫った事実・理由について、次のように語っている。
円空が「記紀」にアマテラスオオミカミが女神として登場していることを知らないはずはない。それなのにあえて天照皇大神を男神として表現したのはなぜか。その理由はさだかではないが、白山神が明らかに女性神であるイザナミノミコトであるので、さらにアマテラスオオミカミが女性であるのであれば、日本の重要な神々のすべてが女性であることになる。それは代々の天皇が男系である日本社会の現実と矛盾する。それで円空はあえて天照皇大神を男性にしたのではなかろうか。
梅原氏は「その理由はさだかではない」と正直に書くも、以下「白山神が明らかに女性神であるイザナミノミコトであるので」云々と、説明にもならない理由の憶測を書いている。ここには、五来重氏が、円空が天照皇太神を男神として彫ったのは「論外」「恣意独善」と切り捨てたのと別様の無理解があるといってよかろう。なぜなら、円空は人生の後半期に、白山神が「イザナミノミコト」であるという先験的な祭神認識から自由になったところで、自身の白山信仰を深化・再構築しているからである。
延宝四年(一六七六)、円空は熱田神宮の奥の院とされる龍泉寺(名古屋市守山区)で、ここでも天照皇太神を男神として彫っている。これは熱田大明神を女神として一対の像とし、中尊の馬頭観音の脇侍に配したものである。梅原氏は「脇侍を同じ名古屋にいらっしゃる熱田大明神に務めていただくのはまだ分るとしても、こともあろうに伊勢から天照皇大神をわざわざ呼んで脇侍を務めていただくのは畏れ多い気がする」などと書いている。「畏れ多い」という自己呪縛内で書かれた梅原円空論とはなにかという問いも重ねて浮かんでくるところである。
五来・梅原両氏の無理解は、立松和平『芭蕉の旅、円空の旅』(日本放送出版協会)にもみられる。梅原氏は「円空が『記紀』にアマテラスオオミカミが女神として登場していることを知らないはずはない」と書いていたが、立松氏は、「円空の時代に『古事記』や『日本書紀』を簡単に読むことができたとは思えず、天照皇太神は太陽神であり、神の中の神であるというほどの認識でしかなかったかと思える。つまり、女神であることを知らなかった」と、あまりに無根拠な憶測とともに断じている。円空が記紀神話を読んでいないなどということはありえないことで、これについては、円空の和歌を読んでみれば一目瞭然なことなのだ。たとえば、次のような歌がある(歌番五六一、長谷川公茂編『底本 円空上人歌集』一宮史談会)。
ちわやふる天岩戸をひきあけて権にそかわる戸蔵の神
(ちはやふる天岩戸を引きあけて権[かり]にぞ代わる戸隠[とがくし]の神)
「天岩戸」神話は記紀神話の一節として描かれている。重い岩戸を引きあけて天照大神を引っ張り出した天手力男[あめのたちからお]神の存在を知らなければ、この歌はつくれるはずがない。また、この歌から、天手力男神を信濃国の戸隠[とがくし]神とみなすという祭神の通説化が、円空の時代にはすでに定着していたこともわかる。天岩戸から出てきた天照大神と戸隠神は仮に(「権に」)入れ替わったのだと円空は詠んでいる。アマテラスに代わって天岩戸に本来の戸隠神が封じられているというのが円空の認識なのである。
円空は仏教・修験と神道の三世界に精通している。現在、円空が「天照皇太神」を男神として彫ったのは八体が確認されていて(池田勇次『怨嗟する円空』牧野出版)、円空が天照大神を女神ではなく男神とみなしていたのは、彼の確信的認識であったとみるしかない。「とても世ニ長へはてぬ古への神もろ共ニ遊ふ言のは」(歌番一〇一五)の前詞として付された一行に、円空の天照「男神」へのおもいの一端がよく表れている。
越路火明神 世間万事空シ
(越[こし]の路[みち]火明神[ほあかりのかみ] 世間万事空し)
ここに記されている「火明神」、つまり『先代旧事本紀』いうところの「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊[あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと]」という男系太陽神こそが、円空が天照「男」神として認識している神である。円空は、この神の名を記し、つづけて「世間万事空し」と嘆息している。なぜ円空が「空し」とおもうかといえば、この神に注視しない「世間」が、すでに円空の時代においても主流となりつつあったからであろう。
文学にしろ哲学にしろ、処女作には、その表現者の終生にわたるテーマ・モティーフが表れるものだとすれば、円空の処女作である男神の天照皇太神像を、「恣意独善」「畏れ多い」「女神であることを知らなかった」などと見て見ぬふりをせずに、きちんと受け止める必要があろう。
五来氏たちの無理解に対して、円空はすでに歌でもって返答していたことを、わたしたちは忘れてはならない(歌番五七九)。
おそろしや浮世人ハしらさらん普照す御形再拝
(おそろしや浮世の人は知らざらん普[あまね] く照らす御形[みかげ]再拝[おろがむ])
この歌は、先の「世間万事空し」の歌とも深い関連があるだろう。円空は、おそろしいことに「浮世人」は知らないであろうが、ある神の「御形」を自分は「再拝」しているというのである。
しかし、「浮世人」が知らないのは、円空が彫像した男神「天照皇太神」だけではない。円空が神明神社へ奉納した男神「天照皇太神」は女神「阿賀田大権現」と一対のものとして彫られ、龍泉寺(熱田神宮「奥の院」)では、女神「熱田大明神」が同じく一対像として彫られていた。天照皇太神(男神)と一対の関係神として、なぜ阿賀田大権現や熱田大明神は彫られる必要があったのか。そもそも、円空が強いおもいの下に彫像したであろう阿賀田大権現や熱田大明神とはどのような「女神」なのかと問いを立ててみれば、このことに言及した円空論がかつて一冊もなかったことに気づく。
円空の「謎」については、まだいくつもある。
たとえば、天照皇太神・阿賀田大権現という初期彫像のあと、円空は寛文六年(一六六六)、美濃国から北行し、津軽国(青森県)から蝦夷地(北海道・松前)へと津軽海峡を渡り、最北の大地を彫像行脚している。そして、蝦夷地からふたたび海峡を渡り、奥羽各地に彫像の旅の足跡を残している。円空は、なぜ蝦夷地から奥羽へと、北辺の地を歩いたのか?
恐山から岩木山へ、そして秋田・男鹿半島の五社堂で、それぞれ十一面観音の秀作像を彫像したあと、円空は秋田市上新城の龍泉寺から由利本荘市の太子堂へと南下している。これは、日本海沿いを南下するコースで、このまま故郷の美濃国へ向かってよさそうなものだが、円空は、なぜか順当な帰路のコースをとらずに、湯沢市の旧院内銀山の地から奥羽山脈を越え太平洋側の松島・瑞巌寺へと向かっている。円空は、なぜ瑞巌寺へと向かったのか?
円空の謎はまだまだある。以下は、美濃への帰国後の「なぜ」のほんの一部である。
円空は生涯にわたって十一面観音を彫りつづけるが、寛文十二年(一六七二)頃の彫像と推定される神光寺(関市下有知)奉納の十一面観音一体のみが憤怒相をしていて、研究者の首をかしげさせている。円空が、なぜこの一体だけ顔をくしゃくしゃにした怒りの相で彫ったのかについて、明確な推論を下した円空研究書はまだない。
元禄三年(一六九〇)九月二十六日、円空は十万仏の彫像を遂げたことを「今上皇帝」の背に記していたが(上宝村:現高山市の桂峯寺所蔵)、こういった文面を、なぜ「今上皇帝」(天皇)像の背中に記す必要があったのか──。この今上皇帝像が主尊・十一面観音の脇侍として彫られていることとあわせて、これも読み解くに値する円空のメッセージであろう。
ほかにも円空の信仰・思想表現にはいくつも未解読のことが多い。円空のこれらの「謎」の表現行為に、どこまで「ことば」の光をあてられるかが本書の試みでもある。
円空は、阿賀田大権現や熱田大明神、そして十一面観音や不動尊に秘された神(女神)を「再拝」する気持ちを生涯もちつづけている。本書のタイトルに、円空と抱き合わせのように表記した「瀬織津姫[せおりつひめ]」という神が、円空が生涯にわたって崇敬の気持ちを抱いていた神である。これは、本書全体を貫く円空論の動脈のような仮説としてある。しかし、この神の名については、あるいは先の男系太陽神「火明神」よりも、「世間」「浮世人」の多くは、その名も知らないであろうとおもわれる。
かくいうわたしも、ほんの十年くらい前までは、この「瀬織津姫」という神の名を一度も聞いたことがなかった。日本の神道は、いつでも国家神道へと転ずる可能性を秘めていて、その歯止めの自己装置を祭祀理念の内部にもっておらず、要するに「うさんくさい」というのがわたしの直覚で、それまで、日本の神々に関心を寄せることはなかったからである。そういう意味では、円空の歌に揶揄[やゆ]された「浮世人」の一人が、かつてのわたし自身であった。
柳田國男『遠野物語』第二話に出てくる「大昔に女神あり」の女神を、早池峰[はやちね]・遠野郷では瀬織津姫神として伝えていて、それが機縁で、この大昔の女神を調べることがはじまった。早池峰・遠野郷の守護神とされる瀬織津姫神とは、そもそもどういう神なのかを明かす探究は、すでに一冊に著したが(『エミシの国の女神』風琳堂)、これは、伊勢・三河と遠野郷を結ぶ、いわば点と点を結ぶ線のような探究に限定されていた。同書出版後も、この神の探索・探究はつづけられていたが、あるとき、この神がかつてまつられていたに相違ないとおもわれるところに、円空の足跡があまりに重なっていることに気づいた。これが、本書を書くきっかけである。円空の足跡を追うことで、かつての線の探究は、面の広がりをもつことになった。それほど広範囲に、瀬織津姫という神の祭祀は、かつてあったのである。
『エミシの国の女神』においてすでに指摘した、この瀬織津姫という神の多彩な性格を列挙すれば、以下のようになろう。
一、水源神・滝神・川神、そして桜神であること。
一、皇祖神=アマテラスオオミカミの祖型神であること。
一、オシラ神(オシラサマ)・ザシキワラシと習合する神であること。
一、神仏混淆においては、不動尊および十一面観音と習合する神であること。
一、日本の神道(神社世界)においては、禊神・大祓神(祓戸大神)とされること。
一、三河地方においては、天白神とみなされていたこと。
一、ヤマトの中央権力側は、この神を「祟り神」「禍津日神」(悪神)とみなしていたこと。
本書であらためてふれるが、天智時代以前、瀬織津姫という神は、列島各地にまつられていた最重要な「水の神」であった可能性が高い。しかし、右第二項が理由で、神宮祭祀が皇祖神をまつる最高社として国家的に策定された七世紀以降、瀬織津姫神の列島各地の祭祀は消去の対象へと変貌する。神に非はないが、この消去の動きは国家的な意図によるもので、七世紀の古代から一九世紀の明治・近代、そして戦後現在に至るまで、この「意図」は継続している。
にわかに信じがたい話であることは承知しているが、江戸時代初期、少なくとも円空一人は、この不条理の祭祀消去がよくみえていた。円空の膨大な彫像は、「消された神」の供養を意図していたし、この神を再拝する崇敬の表現は、なによりも彼の「歌」によく表れている。日本の神まつりの真相を、孤高ともいえる真摯さで理解し、またその「消された神」の鎮魂を彫像行為によって果たそうとしたのが円空である。
円空は、自らの最期を長良川河畔に「入定」するという行為によって総括した。これは先に述べたように、円空の弥勒信仰に殉じた行為でもあったが、その入定地を長良川河畔に意図的に選んだとするなら、では、円空にとって長良川はなんだったのかという問いも生じてこよう。
円空の、その彫像行為の宣言歌とも読める一首がある。
今日よりハ神も台に形移せ清き心ハ万代まてに(歌番六七九)
(今日よりは神も台[うてな]に形[かげ]移せ清き心は万代[よろづよ]までに)
台[うてな]とは蓮台のことだが、円空はその彫像において「仏」を彫ったのではなく「神」を彫ったのだということを、わたしたちは忘れてはならないだろう。見える形がたとえ「仏」だとしても、円空の彫像意識の内部では、それは「神」なのである。
再拝む神ニ使る身なりせは心の内に罪とかもなし(歌番七八二)
(再拝[おろが]む神に使る身なりせば心の内に罪咎[つみとが]もなし)
円空は「神」一般に使われる身だといっているのではない。「浮世の人は知らざらん」神に奉仕するのが自分だと詠っているのである。では、円空が使われる、あるいは仕えることで「心の内に罪咎もなし」と晴れ晴れと断言できる神とはなにかという問いも浮かぶが、それが、先に紹介した瀬織津姫という神なのである。
本書は、円空の多くの彫像のなかでも、特に十一面観音を中心に論じている。これは、彼の白山信仰と深く関わる像だからだが、この像については、「一般に古い時代になればなるほど、十一面観音は水源の湧出地に祀られていることが多く、そういう場所にはもともと縄文思考的な蛇の女神の存在が観念されていた」といった貴重な指摘もなされている(中沢新一『精霊の王』講談社)。『精霊の王』ではついにふれられることはなかったが、円空が生涯にわたって心におもっていた瀬織津姫という神は「水・滝」の精霊神でもあり、この「縄文思考的な蛇の女神」の系譜を内蔵している神といえよう。
なお、円空の彫像に網羅的にふれたものとしては、丸山尚一『新・円空風土記』(里文出版)の右に出る書はない。本書は、丸山氏の労作とは異なる方法によって書かれている。
一体の十一面観音を、円空は、なぜ、「そこ」で彫り奉納したのかを明かすには、多くのことばが必要となる。ほかの円空論がたった三行ですませているところを、極端にいえば、三〇頁(以上)も費やしているのが本書である。これは、円空が「そこ」にみている神の祭祀が、先の理由から複雑に伏され隠されていて、その基底の祭祀事実を証すには、当該地の歴史にまで視野を広げ、同地における祭祀伝承を、周縁も含めて収集し吟味する必要があったからである。円空の時代、彼の修験者という立場は、修験仲間から、当地に秘されている神の知識を容易に入手できたはずである。しかし、現代において、同じことを明るみに出すには多くの手続きを経なくてはならない。たとえば、白山の神は、梅原氏が当然のごとくに述べた「イザナミノミコト」というのは仮の話にすぎず、白山の本源神は、円空おもうところの瀬織津姫という神であった。しかし、そういった結論のみを述べてもだれも納得しないだろう。それを実証するには、多くのことば・手続きが必要となる。
本書では、円空の思想・信仰を汲み取るために、彼の彫像を論じる即物性から一度離れて論じるという方法がとられている。この一見迂遠にみえる本書の記述スタイルが読者によく理解されるかどうかは自信があるわけではないが、少なくとも瀬織津姫という神の祭祀論として、新たな史的事実は提供できたとはおもっている。既刊の円空論を読み慣れた読者には、まったく異なった角度から円空に光があてられていることが伝わってくれればと願っている。
本巻(上巻)は、円空彫像のはじまり、あるいは、円空彫像の原郷ともいえる美濃国・高賀山から蝦夷地(北海道)へ、そして、恐山や岩木山など、北奥山岳霊地の最重要な「地神」との円空の秘された対話と、その彫像の過程を追っている。本書は「円空仏」を訪ねる紀行集というよりも、円空の彫像思想を解き明かす、もう一つの旅の書であることをお断りしておく。
本巻のあとの円空彫像思想の展開については、下巻『円空と瀬織津姫──白山の神との対話』をお読みいただければさいわいである。
上巻◆もくじ
はじめに──円空の余韻と謎
Ⅰ 円空彫像の胎動と旅立ち
円空彫像のはじまり──阿賀田大権現という女神
円空の彫像思想──高賀山の鬼神と地神
円空彫像の旅立ち──藤の呪力を超えて
Ⅱ 蝦夷地の円空
蝦夷地の観音たち──背銘が語る円空の足跡
北辺の神への鎮魂──姥神・駒ヶ岳の神と円空
霊場・太田山と円空──北辺の地から
Ⅲ 北奥の円空
恐山信仰と地神供養──円空十一面観音のおもい
岩木山の鬼神信仰──円空十一面観音の集中
男鹿の鬼風──赤神・齶田浦神と円空
円仁と円空──北の旅の終焉地・松島へ
*瀬織津姫祭祀社全国分布図
*瀬織津姫神全国祭祀社リスト

▲円空と瀬織津姫【下巻】──白山の神との対話
四六判ハードカバー 本文:464頁 3800円(税別)【迅速発送・送料不要】
下巻◆もくじ
Ⅳ 白山信仰の挫折と深化
十一面観音の忿怒と沈黙──円空白山信仰の挫折
白山信仰の本源神Ⅰ──藤原秀衡と円空
白山信仰の本源神Ⅱ──円空の確信
Ⅴ 白山信仰の展開
善女龍王像に化身した白山神──大峯山・志摩・伊勢へ
十一面観音の再生──白山比神=白山滝神の神託
翼をもった十一面観音たち──関東「地神供養」の旅
Ⅵ 鬼神供養から弥勒信仰へ
琵琶湖の水神と大祓神──伊吹山・三井寺と円空
円空の意志表示──両面宿儺と瀬織津姫神
弥勒菩薩の母なる神──生きている円空の白山信仰
【本に関するお問い合わせ先】
風琳堂
大分県速見郡日出町大字大神4258番地7(〒879-1504)
電話:0977-85-8538 Fax:0977-85-8539【終日受信】
メール:nabanakikaku@selery.ocn.ne.jp
(お知らせ)
風琳堂主人は平成26年8月23日肺がんのため、急逝しました。
風琳堂書籍は当方から送らさせていただきます。
【読者謝恩・特典】
「月の抒情、瀧の激情」で見たと添えていただいたご注文者には、本代1割引・送料風琳堂負担で直送いたします。
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