月の抒情、瀧の激情
自由な思索空間──「月の抒情、瀧の激情」へようこそ。
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津波に耐えた川口神社
■はじめに──引っ越しはつづく
1DKに収まりきらない名古屋からの荷を倉庫に置いたままで、このことが気がかりの種でしたが、遠野で不動産業を営む知人のM氏から、アパートへの入居のキャンセルが突如あった、入る気があるかどうかという打診の電話を受けました。こちらの事情としては、古アパートだろうが古民家だろうがなんであってもかまわないということもあって、物件をみることもなく借りる意思を伝えたのでした。
この新物件は2LDKで、意外にも築二年という新しさ、しかも、1DKアパートからは歩いて十分ほどの近さで、なんといっても風呂の空間が一坪あり、M氏にいわせると、遠野のアパートのなかでもっとも贅沢な風呂だとのことです。風呂のことばかりではありませんが、いわばマンション仕様で、倉庫荷物をただ移す空間としては、たしかに贅沢なアパートというべきです。
震災後四ヶ月以上経った現在、アパートの空室を待っている人は二十人余とのことで、M氏からの入居打診は破格の特別優遇とおもわれます。このことを伝えますと、M氏曰く、「4月から空室の問い合わせをもらっていたから順番にすぎません」とのことで、彼のさりげない気遣いのことばもありがたく、ここは甘えることにしました。
同居人の自称「遠野のヤマンバ」は、きっと早池峰の神様の図らいでありがたいことだと瀬織津姫をまつる自作祭壇に手をあわせていましたが、信心が皆無のわたしとしては、アパート確保のありがたさの反面、また引っ越しかという思いもあります。ともかく、倉庫荷物を移すことに加え、古アパートの荷をも移すということになりました。
ここでいう「荷」とは、ほとんどが本のことなのですが、おもえば、昨年の夏からはじめた本の「仕分け」でした。この6月に名古屋事務所を解体・撤去するまでに、「資源ゴミ」として処理した分を含めて、おそらく5トンは下らない本を箱詰めしてきたはずで、おかげで座骨が1㎝ほど飛び出すことになり、遠野へたどりついたあとは、仰向けに寝ることのできない夜がつづいていました。
愛知県知多半島・内海町の「白砂の湯」という温泉に、わたしが信頼している整体の達人がいます。土地の引き渡しや法人関係の事務整理の必要もあって名古屋へ出向いた折、時間の合間をみつけて知多半島へ車を走らせました。「かみや整体」といいます(本店は半田市)。整体師の神谷さんは歪んだ脊髄を直すプロというのがわたしの密かな評価で、整体の最中に話される人体論・人骨論はなかなか説得的、カラダのメカニズムを再考させてくれます。日頃、カラダのことはあとまわしの自分ですが、彼のおかげで、ウソのように座骨は引っ込み腰痛は和らいだのでした。
新アパートへの荷運びは自分一人の仕事で、腰痛の再発はご免だということもあって、腰への負担を軽くするため、本は段ボール箱ではなくリュックサックに小分けして運ぶことにしました。結果、荷運びの回数(時間)は倍以上かかりましたが、ともかく本だけは運び終えて一段落したところです。
生き別れていた名古屋所蔵本と遠野所蔵本を合わせて棚に入れていきますと、同じ本が何冊もあることに気づきます。こんなところに、名古屋・遠野の「距離」が表れているようです。必要な一冊をどちらかに取りに行くにはやはり「遠い」ですから、いきおい買ったほうが速いということになります。
この新倉庫&編集空間は、先にも書いたように実質マンション仕様で、生活するという点からいえば、わたしがこれまで住んできたどの空間よりも先端的な設備が整っていて快適です。その象徴が、先にふれた一坪風呂でしょうか。ある意味、ここは「遠野らしくない」空間ですが、この新アパートに、風琳堂の出版(社)機能を徐々に移行していくことにしました。
東に六角牛山、南に物見山、西に高清水山(その奥に石上山)、北に天ヶ森(その奥に早池峰山)を望み、猿ヶ石川と早瀬川の合流・川合の地にあるというのが、この新アパートのおおよその立地です。
室内の片づけはまだ半分程度なのですが、引っ越しばかりにかまけていては面白くありませんので、遠野にいるという「地の利」を活かしたことを少し書いていきます。
■八戸・川口神社へ
岩手県領域における三陸沿岸部の震災状況については、神社を中心に少しふれてきました。この「神社」を瀬織津姫祭祀社というように限定してみたとき、三陸沿岸の最北にまつられる川口神社の存在・消息はとても気になるところです。なぜなら、川口神社は青森県八戸市の港内の岩礁のような小島(現在は陸続き)にまつられているからです。
八戸港を襲った津波の高さは約6メートルとのことで、岩手以南のそれに比べれば小さくも感じますが、港湾部を中心に八戸市も津波による被害は甚大であったといえます。川口神社を所管する御前神社の宮司さんの談によれば、地震時、御前神社境内の地面が大きく波打っていた、周囲の人は避難したが自分は神社を守る覚悟でいつづけたものの、まったく生きた心地がしなかったとのことです。

▲御前神社
川口神社が無疵ということはありえない、ひょっとすると流出して何もないかもしれない、それをこの眼で確かめるだけでもいい──、どうしても川口神社を訪ねたいというヤマンバと車中でそんなことを話しながら、神社へと向かったのでした。
しかし、これはわたしたちの杞憂であったというべきか、川口神社の社殿は、先年にわたしが訪れたままの姿でそこにありました。震災から四ヶ月余も過ぎているということもありましょうが、津波に襲われた痕跡を外観にみつけることはまったく困難でした。御前神社の宮司さんにこのことを話すと、「よく聞いてくれました」といって、氏子の皆さんと一緒に泥の搔きだしや清掃でほんとうに大変だったという苦労話を拝聴することになりました。川口神社健在があまりに意外だったからなのでしょう、ヤマンバはすでに参拝のときから眼を真っ赤にしていて、宮司さんの話を傍らで聞いていて、また真っ赤赤です。

▲川口神社【社頭】
わたしたちは、御前神社特製の御神酒と「川口神社略記」をいただき辞したのでしたが、この略記は、わたしが初めて眼にするもので、瀬織津姫という神が八戸の海民にいかに信奉・崇敬されていたかがよく伝わってきます。以下に全文を紹介します。
川口神社略記
祭神 速瀬織津比売神・速秋津比古神・速秋津比売神
由緒・沿革
川口神社の鎮座するここ湊川口は、今はそのおもかげはありませんが、かつて馬淵川と新井田川とが合流して太平洋に注ぐ、天候によっては船の出入りの極めて難儀する岩石重塁する処でありました。
当初は地元の漁師たちの崇敬する一小祠であったようですが、水戸(港)の出入口でしたので、海に依存する地域の人々にとっては、航海安全・大漁成就を中心とする信仰とともに、災いや汚れを祓う神としても崇敬され、別名『川口大明神』とも又『川口の龍神さま』とも呼ばれ尊称されてきました。
流れゆく潮のように、罪や汚れを祓い清める水戸[みなと]の神である主祭神の他に、さらに川口神社には海の幸を生み育てる大綿津見神及び食物の神である豊受比売神の二坐をも合祀しています。
社伝によりますと、創建は万治2年(1659)と言われ、寛保3年(1743)には、当時の藩主より「御屋根柾十五丸寄進」があり、川口勇猛善神と称号した旗二流の奉納があったということです。
藩政時代は、水揚げの十分の一を納税するいわゆる「十分一役所」が近くに置かれたこともあり、寺社奉行大目付役等の御代参が毎年あったとも伝えられています。
近くは南氷洋の捕鯨漁業の盛んであった折りには、毎年南郷村出身の多くの乗組員がここ川口神社のお守りを身につけ、地球の裏側南半球の厳しい氷の海で大活躍したことも忘れられない神社の歴史の一コマです。
昭和30年代前半は、八戸港のいか釣り船が最も多かった時代ですが、盛漁期の毎夕数百隻が川口神社に見守られながらここ川口をひしめくように勇躍出漁していったあの光景は、今の古老の方々にはなんとも懐かしい思い出となっていることでしょう。 平成十二年秋 記
川口神社の「創建は万治2年(1659)」とありますが、この「創建」は「分社創建」という意味で、「速瀬織津比売神」は江戸期まで本社・御前神社の神でもありました。これについてはすでにふれたことですから、ここではくりかえしません(青森県「川口神社」参照)。
昭和前期(戦前)のいつの時点かは不明ですが、手書きの「神社調」の御前神社(「神社調」の社号表記は三前神社)の項には、川口神社は「摂社」とあり、また、御前(三前)神社ともども「式外」と記されています(八戸市立図書館所蔵)。平安期の延喜式内社には記録されなかったものの、当時すでに存在していたとされる式外社としてあるとしますと、御前神・川口神の祭祀は相応に古くさかのぼるものであることを伝えようとしていたのかもしれません。
それはともかく、藩政時代(江戸時代)、藩主から「川口勇猛善神」の称号を贈られていたというのも、瀬織津姫神に対するものと理解できますが、中央祭祀において、この神が「天照大神荒魂」の異称をもっていたことをおもえば、これは、なるほど「言い得て妙」の称号です。
ところで、川口神社の祭祀地について、「かつて馬淵川と新井田川とが合流して太平洋に注ぐ、天候によっては船の出入りの極めて難儀する岩石重塁する処」だったとあります。この「岩石重塁する処」については、現社殿の背後にその面影を確認できますし、江戸時代末期の俳人三峰館寛兆[さんぽうかんかんちょう]が描いた八戸の風景図の一齣によってもわかります。

▲岩礁上の川口神社

▲川口神社(左岩礁の小島にまつられる)
瀬織津姫神が航海守護の霊神として崇敬されていたことは、西国・宗像や佐賀関、また瀬戸内海・大三島の祭祀などにも顕著にみられることで、それが、はるか北の陸奥国の沿岸部にまで伝わっていたことに、わたしたちはもっと真摯に驚いてよいのかもしれません。
御前神社に伝わる、かつての宮司氏の作とおもわれる古歌がありますが、引用の略記にはふれられていませんので、これも再録しておきます。
みちのくの 唯[ただ]白幡旗[しらはた]や 浪打に 鎮りまつる 瀬織津の神
戦前の「神社調」における御前神社の由緒を読みますと、平安期にはじまる神仏習合時、同社の神宮寺は「浪打山光伏寺」といったとのことです。その後の廃寺過程についてははっきり書かれていませんが、一つ興味深いのは、この神仏習合時、「当社ノ側ニ祠ヲ造営シテ慈覚大師一刀三礼ノ作八幡ノ尊像ヲ安置ス」とあることです。
慈覚大師(円仁)が浪打山光伏寺(御前神社)へやってきて、「八幡ノ尊像」を彫りおいたという伝承が何を意味するのかについての解釈はさまざまでしょうが、御前神社の神が八幡祭祀と無縁でないことが、円仁伝承に仮託して語られていること、このことはやはり注意を引きます。御前神社の初源の神が八幡祭祀とも深く関わっていること、つまり、八幡大神がもともと白幡(白旗)神でもあったことなどが想起され、引用の瀬織津姫賛歌が含意することを考えますと、やはり深慮の歌という印象は消せないようです。
1DKに収まりきらない名古屋からの荷を倉庫に置いたままで、このことが気がかりの種でしたが、遠野で不動産業を営む知人のM氏から、アパートへの入居のキャンセルが突如あった、入る気があるかどうかという打診の電話を受けました。こちらの事情としては、古アパートだろうが古民家だろうがなんであってもかまわないということもあって、物件をみることもなく借りる意思を伝えたのでした。
この新物件は2LDKで、意外にも築二年という新しさ、しかも、1DKアパートからは歩いて十分ほどの近さで、なんといっても風呂の空間が一坪あり、M氏にいわせると、遠野のアパートのなかでもっとも贅沢な風呂だとのことです。風呂のことばかりではありませんが、いわばマンション仕様で、倉庫荷物をただ移す空間としては、たしかに贅沢なアパートというべきです。
震災後四ヶ月以上経った現在、アパートの空室を待っている人は二十人余とのことで、M氏からの入居打診は破格の特別優遇とおもわれます。このことを伝えますと、M氏曰く、「4月から空室の問い合わせをもらっていたから順番にすぎません」とのことで、彼のさりげない気遣いのことばもありがたく、ここは甘えることにしました。
同居人の自称「遠野のヤマンバ」は、きっと早池峰の神様の図らいでありがたいことだと瀬織津姫をまつる自作祭壇に手をあわせていましたが、信心が皆無のわたしとしては、アパート確保のありがたさの反面、また引っ越しかという思いもあります。ともかく、倉庫荷物を移すことに加え、古アパートの荷をも移すということになりました。
ここでいう「荷」とは、ほとんどが本のことなのですが、おもえば、昨年の夏からはじめた本の「仕分け」でした。この6月に名古屋事務所を解体・撤去するまでに、「資源ゴミ」として処理した分を含めて、おそらく5トンは下らない本を箱詰めしてきたはずで、おかげで座骨が1㎝ほど飛び出すことになり、遠野へたどりついたあとは、仰向けに寝ることのできない夜がつづいていました。
愛知県知多半島・内海町の「白砂の湯」という温泉に、わたしが信頼している整体の達人がいます。土地の引き渡しや法人関係の事務整理の必要もあって名古屋へ出向いた折、時間の合間をみつけて知多半島へ車を走らせました。「かみや整体」といいます(本店は半田市)。整体師の神谷さんは歪んだ脊髄を直すプロというのがわたしの密かな評価で、整体の最中に話される人体論・人骨論はなかなか説得的、カラダのメカニズムを再考させてくれます。日頃、カラダのことはあとまわしの自分ですが、彼のおかげで、ウソのように座骨は引っ込み腰痛は和らいだのでした。
新アパートへの荷運びは自分一人の仕事で、腰痛の再発はご免だということもあって、腰への負担を軽くするため、本は段ボール箱ではなくリュックサックに小分けして運ぶことにしました。結果、荷運びの回数(時間)は倍以上かかりましたが、ともかく本だけは運び終えて一段落したところです。
生き別れていた名古屋所蔵本と遠野所蔵本を合わせて棚に入れていきますと、同じ本が何冊もあることに気づきます。こんなところに、名古屋・遠野の「距離」が表れているようです。必要な一冊をどちらかに取りに行くにはやはり「遠い」ですから、いきおい買ったほうが速いということになります。
この新倉庫&編集空間は、先にも書いたように実質マンション仕様で、生活するという点からいえば、わたしがこれまで住んできたどの空間よりも先端的な設備が整っていて快適です。その象徴が、先にふれた一坪風呂でしょうか。ある意味、ここは「遠野らしくない」空間ですが、この新アパートに、風琳堂の出版(社)機能を徐々に移行していくことにしました。
東に六角牛山、南に物見山、西に高清水山(その奥に石上山)、北に天ヶ森(その奥に早池峰山)を望み、猿ヶ石川と早瀬川の合流・川合の地にあるというのが、この新アパートのおおよその立地です。
室内の片づけはまだ半分程度なのですが、引っ越しばかりにかまけていては面白くありませんので、遠野にいるという「地の利」を活かしたことを少し書いていきます。
■八戸・川口神社へ
岩手県領域における三陸沿岸部の震災状況については、神社を中心に少しふれてきました。この「神社」を瀬織津姫祭祀社というように限定してみたとき、三陸沿岸の最北にまつられる川口神社の存在・消息はとても気になるところです。なぜなら、川口神社は青森県八戸市の港内の岩礁のような小島(現在は陸続き)にまつられているからです。
八戸港を襲った津波の高さは約6メートルとのことで、岩手以南のそれに比べれば小さくも感じますが、港湾部を中心に八戸市も津波による被害は甚大であったといえます。川口神社を所管する御前神社の宮司さんの談によれば、地震時、御前神社境内の地面が大きく波打っていた、周囲の人は避難したが自分は神社を守る覚悟でいつづけたものの、まったく生きた心地がしなかったとのことです。

▲御前神社
川口神社が無疵ということはありえない、ひょっとすると流出して何もないかもしれない、それをこの眼で確かめるだけでもいい──、どうしても川口神社を訪ねたいというヤマンバと車中でそんなことを話しながら、神社へと向かったのでした。
しかし、これはわたしたちの杞憂であったというべきか、川口神社の社殿は、先年にわたしが訪れたままの姿でそこにありました。震災から四ヶ月余も過ぎているということもありましょうが、津波に襲われた痕跡を外観にみつけることはまったく困難でした。御前神社の宮司さんにこのことを話すと、「よく聞いてくれました」といって、氏子の皆さんと一緒に泥の搔きだしや清掃でほんとうに大変だったという苦労話を拝聴することになりました。川口神社健在があまりに意外だったからなのでしょう、ヤマンバはすでに参拝のときから眼を真っ赤にしていて、宮司さんの話を傍らで聞いていて、また真っ赤赤です。

▲川口神社【社頭】
わたしたちは、御前神社特製の御神酒と「川口神社略記」をいただき辞したのでしたが、この略記は、わたしが初めて眼にするもので、瀬織津姫という神が八戸の海民にいかに信奉・崇敬されていたかがよく伝わってきます。以下に全文を紹介します。
川口神社略記
祭神 速瀬織津比売神・速秋津比古神・速秋津比売神
由緒・沿革
川口神社の鎮座するここ湊川口は、今はそのおもかげはありませんが、かつて馬淵川と新井田川とが合流して太平洋に注ぐ、天候によっては船の出入りの極めて難儀する岩石重塁する処でありました。
当初は地元の漁師たちの崇敬する一小祠であったようですが、水戸(港)の出入口でしたので、海に依存する地域の人々にとっては、航海安全・大漁成就を中心とする信仰とともに、災いや汚れを祓う神としても崇敬され、別名『川口大明神』とも又『川口の龍神さま』とも呼ばれ尊称されてきました。
流れゆく潮のように、罪や汚れを祓い清める水戸[みなと]の神である主祭神の他に、さらに川口神社には海の幸を生み育てる大綿津見神及び食物の神である豊受比売神の二坐をも合祀しています。
社伝によりますと、創建は万治2年(1659)と言われ、寛保3年(1743)には、当時の藩主より「御屋根柾十五丸寄進」があり、川口勇猛善神と称号した旗二流の奉納があったということです。
藩政時代は、水揚げの十分の一を納税するいわゆる「十分一役所」が近くに置かれたこともあり、寺社奉行大目付役等の御代参が毎年あったとも伝えられています。
近くは南氷洋の捕鯨漁業の盛んであった折りには、毎年南郷村出身の多くの乗組員がここ川口神社のお守りを身につけ、地球の裏側南半球の厳しい氷の海で大活躍したことも忘れられない神社の歴史の一コマです。
昭和30年代前半は、八戸港のいか釣り船が最も多かった時代ですが、盛漁期の毎夕数百隻が川口神社に見守られながらここ川口をひしめくように勇躍出漁していったあの光景は、今の古老の方々にはなんとも懐かしい思い出となっていることでしょう。 平成十二年秋 記
川口神社の「創建は万治2年(1659)」とありますが、この「創建」は「分社創建」という意味で、「速瀬織津比売神」は江戸期まで本社・御前神社の神でもありました。これについてはすでにふれたことですから、ここではくりかえしません(青森県「川口神社」参照)。
昭和前期(戦前)のいつの時点かは不明ですが、手書きの「神社調」の御前神社(「神社調」の社号表記は三前神社)の項には、川口神社は「摂社」とあり、また、御前(三前)神社ともども「式外」と記されています(八戸市立図書館所蔵)。平安期の延喜式内社には記録されなかったものの、当時すでに存在していたとされる式外社としてあるとしますと、御前神・川口神の祭祀は相応に古くさかのぼるものであることを伝えようとしていたのかもしれません。
それはともかく、藩政時代(江戸時代)、藩主から「川口勇猛善神」の称号を贈られていたというのも、瀬織津姫神に対するものと理解できますが、中央祭祀において、この神が「天照大神荒魂」の異称をもっていたことをおもえば、これは、なるほど「言い得て妙」の称号です。
ところで、川口神社の祭祀地について、「かつて馬淵川と新井田川とが合流して太平洋に注ぐ、天候によっては船の出入りの極めて難儀する岩石重塁する処」だったとあります。この「岩石重塁する処」については、現社殿の背後にその面影を確認できますし、江戸時代末期の俳人三峰館寛兆[さんぽうかんかんちょう]が描いた八戸の風景図の一齣によってもわかります。

▲岩礁上の川口神社

▲川口神社(左岩礁の小島にまつられる)
瀬織津姫神が航海守護の霊神として崇敬されていたことは、西国・宗像や佐賀関、また瀬戸内海・大三島の祭祀などにも顕著にみられることで、それが、はるか北の陸奥国の沿岸部にまで伝わっていたことに、わたしたちはもっと真摯に驚いてよいのかもしれません。
御前神社に伝わる、かつての宮司氏の作とおもわれる古歌がありますが、引用の略記にはふれられていませんので、これも再録しておきます。
みちのくの 唯[ただ]白幡旗[しらはた]や 浪打に 鎮りまつる 瀬織津の神
戦前の「神社調」における御前神社の由緒を読みますと、平安期にはじまる神仏習合時、同社の神宮寺は「浪打山光伏寺」といったとのことです。その後の廃寺過程についてははっきり書かれていませんが、一つ興味深いのは、この神仏習合時、「当社ノ側ニ祠ヲ造営シテ慈覚大師一刀三礼ノ作八幡ノ尊像ヲ安置ス」とあることです。
慈覚大師(円仁)が浪打山光伏寺(御前神社)へやってきて、「八幡ノ尊像」を彫りおいたという伝承が何を意味するのかについての解釈はさまざまでしょうが、御前神社の神が八幡祭祀と無縁でないことが、円仁伝承に仮託して語られていること、このことはやはり注意を引きます。御前神社の初源の神が八幡祭祀とも深く関わっていること、つまり、八幡大神がもともと白幡(白旗)神でもあったことなどが想起され、引用の瀬織津姫賛歌が含意することを考えますと、やはり深慮の歌という印象は消せないようです。
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