月の抒情、瀧の激情
自由な思索空間──「月の抒情、瀧の激情」へようこそ。
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名古屋事務所閉鎖→移転のお知らせ
東に早池峰山、西に(秋田)駒ヶ岳、南に南昌山、北に岩手山が聳え、北上川と雫石川が合流する川合の地──。前九年の役における奥州安倍氏終焉の厨川柵近くに建つ、しかも岩手県立図書館まで歩いて五分という好立地に建つ、この高層マンションの一室はかなり気に入っていたのですが、いかんせん、同居人の自称「遠野のヤマンバ」の一言「空中生活はイヤだ」で、あっさりと撤回することになりました。
盛岡に職住一体の場を索めるならばココしかないだろうとおもっていたものの、もともと永遠[とわ]の住み家といった幻想をもたない自分ですから、この盛岡案が消えたことは、自分の人生観をあらためて確認させることになったようです。それに、今回の大震災です。
遠野の小さなアパート(1DK)に風琳堂編集室を設けて、来年でちょうど二十年になりますが、地震による室内の散乱やコピー・ファクスなどの損傷・停止を回復するのに一週間ほど時間を要しました。ほかに、柱の四本に縦の亀裂が生じたものの、これを機会に、31箱分の不要資料・本を廃棄してみると、ずいぶんと広くなりました。要するに、狭いながらも、当面、ここに住めないことはないわけで、引越難民になりかけていた感覚をどうにか修正できたようです。
とはいえ、名古屋の家は三世帯がかつて暮らしていた古家で(室町時代の日本刀や戦前・帝国時代のサーベルなどがあったことにはびっくり)、そこで愛用されていた生活道具をまるごと1DKに入れることはできません。しかも、風琳堂の出版在庫(本)もかなりあります。荷物を移す先の空間(スペース)が決まらないことには、整理のしようもありません。
遠野は現在、震災後、沿岸被災地の後方支援基地といった役割を果たしていて、震災景気を心ならずも享受しているのは不動産業と宿泊施設かもしれません。現在、遠野で物件を探すのは困難であることは先に書きましたが、こちらの事情に限れば、五月末という引越期限が迫ってきて、しかし、転居先が決まらないということがぎりぎりまでつづいていました。ある読者から熊野(新宮市)の駅近くに一軒家があるからこちらへ来てはどうかというありがたい申し出もあって、浮気性の自分はそれも面白いなとおもったのですが、これも自称「遠野のヤマンバ」の却下で消えました。
遠野の知人から、十畳の倉庫ならば空いているという連絡をもらったのが五月中旬のことで、贅沢をいえる立場にはありませんから即「決定」とし、名古屋の荷物はそこに仮置きすることにしました。
沿岸各地を歩いてきた「眼」は、家具などモノへの執着を自分に捨てさせたようです。自称「遠野のヤマンバ」にも因果を含めるように、つまり、なかば半強制的でしたが、基本的にすべて捨てようという合意をとりつけました。身の回りの最低限のモノに限り、あとは「本の山」をどう処理するかに絞って「仕分け」を開始したのが五月十六日でした。富士山には詩の女神がいると詩[うた]っていた、明治期初めの北村透谷という先鋭的詩人の自死した日が「今日」だったななどとおもいながら、仕分け→荷造りがはじまったのでした。
遠野の片付けで本(特に文学本)を廃棄するときにおもったのでしたが、それは、「本を棄てる基準」が自分には二つあるなということです。一つは、今回の震災そして復興のプロセスに耐えられない「ことば」(本)は棄てるということ、もう一つは、この先、五年か五十年かはわかりませんが、読み返すことはおそらくないだろうとおもわれる本は棄てる、というものです。

▲遠野編集室の散乱
遠野での片付けで会得(?)した、この二つの「本を棄てる基準」あるいは方法は、名古屋での整理においても適用されるもので、そうとなれば、あとは力仕事みたいなものです。遠野は約二十年、名古屋には三十年余にわたる本の集積時間があり、物量ということでいえば、名古屋の方が圧倒的に多くの「本の山」を抱えています。
十畳という倉庫スペースを想像しますと、隙間無く荷を詰め込むならば、かなりはいるようにおもいます。しかし、もともと必要なモノに絞ってのことですから、必要に応じてすぐに取り出せるためのスペースも確保しなくてはなりません。そう考えますと、荷の占有空間は実質六畳分といったところでしょう。引越業者と相談すると、2トンロングのトラックがちょうど六畳分に相当するとのことです。
名古屋からの立ち退き期限は五月末で、残された時間は二週間、「仕分け」して箱詰めするには余裕があるとはおもえず、荷造りのゴールが見えるまで二十四時間体制でいくことにしました。仮眠しては荷造りといった日々がはじまったわけですが、書棚には卒業アルバムや古い文集なども紛れ込んでいて、忘れていた遠い過去に向かっての「仕分け」もしているようで、これは遠野のそれと異なることでした。なにやら人生そのものを整理しているような感覚にとらわれるときもありましたが、懐旧的な感覚も「仕分け」の対象としました。
持っていくモノは六畳分ということで、S引越業者から提供された段ボール箱を六畳の寝室に積み上げていきました。箱にはパンダの絵が描かれていて、箱が積み上げられていくと、パンダたちが一斉にこちらをみつめているような、あるいは、自分がパンダたちの親にでもなったような感覚が生じたのは不思議でした。不要なモノはスーパーからもらってきた段ボール箱に詰め、こちらはこちらで、出入口付近から順に積み上げていきました。

▲パンダたち
ようやく本の「仕分け」がみえかけたとき、家の解体業者から、解体の開始を六月九日に変更させてくれという連絡がはいりました。こちらの体力は限界に近くなっていましたので、これは「渡りに舟」でした。さっそく引越業者の担当者に連絡をして、引っ越しの日の先延ばしは可能かどうか打診したところ、五日ならばトラックの空きがあるとのことです。荷造り完了の期限が四日延びたことは大きかったです。
出入りに蟹歩きするしかないほどでしたから、「紙のリサイクル」をうたう紙業者に連絡をし、「本の山」つまり「紙の山」を引き取ってもらうことにしました。やってきたトラックは、なぜか同じ2トンロングで、二時間半ほどかけて荷台に「紙(本)」を並べていきました。運びながら、昨年の夏にも同じことをしていたのを思い出しました。仕事が終わった紙業者曰く、2トンはあるなとのことでしたが、昨年のうちに二人の故人分の私物を含め、第一次本の整理をすでに終えていたこと──、おもえば、これも大きいことでした。

▲仕分けされた本たち
本というのはモノを考えるときの契機・媒体にすぎず、わたしの場合、決して「財産」ではありません。しかし、「仕分け」にあたって、岩手ゆかりの、たとえば石川啄木や宮沢賢治・高村光太郎の本などはやはり棄てられないなとおもいましたし、遠野に限定しても、柳田国男や佐々木喜善、柳田との関係でいえば折口信夫や南方熊楠など、早池峰信仰あるいは日本の信仰史を再考する参考・関連本も棄てられません。
荷造りしながら、「六畳空間」ということばをブツブツつぶやいている自分がいました。鴨長明『方丈記』とは少し異なりますが、「六畳」という空間に思考の宇宙が存在していると考えると楽しい気分にもなりました。
風琳堂名古屋事務所の消滅・撤去にあたって、そのドタバタと志向のプロセスについて少しでも残しておきたくこれを書きましたが、読者にどこまで伝わるのかはまったく想像がつきません。
ともかく、六月六日には、奥州安倍氏時代からの「隠れ里」であっただろう遠野の、さらに小さな隠れ家のようなアパートの一室に、ある老女とともにいることだけはまちがいなさそうです。あとのことは、そこでまた考えてみることにします。
盛岡に職住一体の場を索めるならばココしかないだろうとおもっていたものの、もともと永遠[とわ]の住み家といった幻想をもたない自分ですから、この盛岡案が消えたことは、自分の人生観をあらためて確認させることになったようです。それに、今回の大震災です。
遠野の小さなアパート(1DK)に風琳堂編集室を設けて、来年でちょうど二十年になりますが、地震による室内の散乱やコピー・ファクスなどの損傷・停止を回復するのに一週間ほど時間を要しました。ほかに、柱の四本に縦の亀裂が生じたものの、これを機会に、31箱分の不要資料・本を廃棄してみると、ずいぶんと広くなりました。要するに、狭いながらも、当面、ここに住めないことはないわけで、引越難民になりかけていた感覚をどうにか修正できたようです。
とはいえ、名古屋の家は三世帯がかつて暮らしていた古家で(室町時代の日本刀や戦前・帝国時代のサーベルなどがあったことにはびっくり)、そこで愛用されていた生活道具をまるごと1DKに入れることはできません。しかも、風琳堂の出版在庫(本)もかなりあります。荷物を移す先の空間(スペース)が決まらないことには、整理のしようもありません。
遠野は現在、震災後、沿岸被災地の後方支援基地といった役割を果たしていて、震災景気を心ならずも享受しているのは不動産業と宿泊施設かもしれません。現在、遠野で物件を探すのは困難であることは先に書きましたが、こちらの事情に限れば、五月末という引越期限が迫ってきて、しかし、転居先が決まらないということがぎりぎりまでつづいていました。ある読者から熊野(新宮市)の駅近くに一軒家があるからこちらへ来てはどうかというありがたい申し出もあって、浮気性の自分はそれも面白いなとおもったのですが、これも自称「遠野のヤマンバ」の却下で消えました。
遠野の知人から、十畳の倉庫ならば空いているという連絡をもらったのが五月中旬のことで、贅沢をいえる立場にはありませんから即「決定」とし、名古屋の荷物はそこに仮置きすることにしました。
沿岸各地を歩いてきた「眼」は、家具などモノへの執着を自分に捨てさせたようです。自称「遠野のヤマンバ」にも因果を含めるように、つまり、なかば半強制的でしたが、基本的にすべて捨てようという合意をとりつけました。身の回りの最低限のモノに限り、あとは「本の山」をどう処理するかに絞って「仕分け」を開始したのが五月十六日でした。富士山には詩の女神がいると詩[うた]っていた、明治期初めの北村透谷という先鋭的詩人の自死した日が「今日」だったななどとおもいながら、仕分け→荷造りがはじまったのでした。
遠野の片付けで本(特に文学本)を廃棄するときにおもったのでしたが、それは、「本を棄てる基準」が自分には二つあるなということです。一つは、今回の震災そして復興のプロセスに耐えられない「ことば」(本)は棄てるということ、もう一つは、この先、五年か五十年かはわかりませんが、読み返すことはおそらくないだろうとおもわれる本は棄てる、というものです。

▲遠野編集室の散乱
遠野での片付けで会得(?)した、この二つの「本を棄てる基準」あるいは方法は、名古屋での整理においても適用されるもので、そうとなれば、あとは力仕事みたいなものです。遠野は約二十年、名古屋には三十年余にわたる本の集積時間があり、物量ということでいえば、名古屋の方が圧倒的に多くの「本の山」を抱えています。
十畳という倉庫スペースを想像しますと、隙間無く荷を詰め込むならば、かなりはいるようにおもいます。しかし、もともと必要なモノに絞ってのことですから、必要に応じてすぐに取り出せるためのスペースも確保しなくてはなりません。そう考えますと、荷の占有空間は実質六畳分といったところでしょう。引越業者と相談すると、2トンロングのトラックがちょうど六畳分に相当するとのことです。
名古屋からの立ち退き期限は五月末で、残された時間は二週間、「仕分け」して箱詰めするには余裕があるとはおもえず、荷造りのゴールが見えるまで二十四時間体制でいくことにしました。仮眠しては荷造りといった日々がはじまったわけですが、書棚には卒業アルバムや古い文集なども紛れ込んでいて、忘れていた遠い過去に向かっての「仕分け」もしているようで、これは遠野のそれと異なることでした。なにやら人生そのものを整理しているような感覚にとらわれるときもありましたが、懐旧的な感覚も「仕分け」の対象としました。
持っていくモノは六畳分ということで、S引越業者から提供された段ボール箱を六畳の寝室に積み上げていきました。箱にはパンダの絵が描かれていて、箱が積み上げられていくと、パンダたちが一斉にこちらをみつめているような、あるいは、自分がパンダたちの親にでもなったような感覚が生じたのは不思議でした。不要なモノはスーパーからもらってきた段ボール箱に詰め、こちらはこちらで、出入口付近から順に積み上げていきました。

▲パンダたち
ようやく本の「仕分け」がみえかけたとき、家の解体業者から、解体の開始を六月九日に変更させてくれという連絡がはいりました。こちらの体力は限界に近くなっていましたので、これは「渡りに舟」でした。さっそく引越業者の担当者に連絡をして、引っ越しの日の先延ばしは可能かどうか打診したところ、五日ならばトラックの空きがあるとのことです。荷造り完了の期限が四日延びたことは大きかったです。
出入りに蟹歩きするしかないほどでしたから、「紙のリサイクル」をうたう紙業者に連絡をし、「本の山」つまり「紙の山」を引き取ってもらうことにしました。やってきたトラックは、なぜか同じ2トンロングで、二時間半ほどかけて荷台に「紙(本)」を並べていきました。運びながら、昨年の夏にも同じことをしていたのを思い出しました。仕事が終わった紙業者曰く、2トンはあるなとのことでしたが、昨年のうちに二人の故人分の私物を含め、第一次本の整理をすでに終えていたこと──、おもえば、これも大きいことでした。

▲仕分けされた本たち
本というのはモノを考えるときの契機・媒体にすぎず、わたしの場合、決して「財産」ではありません。しかし、「仕分け」にあたって、岩手ゆかりの、たとえば石川啄木や宮沢賢治・高村光太郎の本などはやはり棄てられないなとおもいましたし、遠野に限定しても、柳田国男や佐々木喜善、柳田との関係でいえば折口信夫や南方熊楠など、早池峰信仰あるいは日本の信仰史を再考する参考・関連本も棄てられません。
荷造りしながら、「六畳空間」ということばをブツブツつぶやいている自分がいました。鴨長明『方丈記』とは少し異なりますが、「六畳」という空間に思考の宇宙が存在していると考えると楽しい気分にもなりました。
風琳堂名古屋事務所の消滅・撤去にあたって、そのドタバタと志向のプロセスについて少しでも残しておきたくこれを書きましたが、読者にどこまで伝わるのかはまったく想像がつきません。
ともかく、六月六日には、奥州安倍氏時代からの「隠れ里」であっただろう遠野の、さらに小さな隠れ家のようなアパートの一室に、ある老女とともにいることだけはまちがいなさそうです。あとのことは、そこでまた考えてみることにします。
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