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伊豆・三嶋大社へ──広瀬神のその後

 金達寿[キムタルス]『日本の中の朝鮮文化』は、列島内の古代朝鮮遺跡を訪ねる、全十二巻の紀行文集です。本シリーズは一九七〇年から足掛け二十一年にわたって刊行されたものですが、今では当たり前のようにつかっている「渡来人」の概念を定着させた書といえます。日本に統一国家が形成されるのは六~七世紀からのことで、それ以前に「帰化人」ということばをつかうのはおかしいというのが、金氏の一貫して主張することでした。これは、当然ながら『日本書紀』の史観、つまり、つくられた皇国史観への再考を迫るものでもありました。
 少し具体的にいいますと、たとえば、四世紀の古墳から朝鮮と同じ出土物が検出されたとき、朝鮮との「交流」があった、あるいは朝鮮から「伝来」「輸入」されたなどといった、日本人識者からの解説がまことしやかになされていたりすると、金氏はすかさず、「物」だけがやってくるということはない、「人」も同時にやってきたのだと批評のことばを投げかけます。日本にまだ統一国家が成立していないとき、このようにやってきた「人」は、帰化人ではなく、渡来人だというのが金氏の主張です。
 本シリーズによって、古墳初心者であるわたしなどは、最新の古墳情報はともかく、全国にわたる考古学的な知見と接することができて、また、いながら「旅」をしたようで、なにか得をしたような気になります。本書には、遺跡・古墳(の被葬者=渡来人)ばかりでなく、渡来人が信奉していた神仏や寺社祭祀への言及もみられ、なかには異論があるものもないではありませんが、『日本書紀』の史観から自由な分だけ、共感・共有できることが多く、ときに読み手を「考える場」に誘ってもくれます。たとえば、こういった記述があります(同書第八巻)。

「維新の神仏分離令」は神と仏とを分離しただけではなく、神社の祭神や神社名をも変えているという事実である。
 これは日本全国、ほかにもたくさんそういうことがある。たとえば、伊豆(静岡県)三嶋大社の祭神は百済系の大山祇神であったが、これが維新後は事代主命に変わっている。いまは大山祇、事代主の二祭神となっているけれども──。

 第八巻は「因幡・出雲・隠岐・長門ほか」の地域を対象としたもので、北辰星をまつる妙見宮が天御中主神社へと変わった例などから書かれた部分です。天御中主神社といった社号は明治の前には存在しなかったもので、こういった社号・祭神の変更事例は、たとえば(牛頭)天王社が八坂神社あるいは津島神社に変わり、祭神はスサノオに統一されるなど、ほかにもあります。
 引用中、祭神変更の一例として、「伊豆(静岡県)三嶋大社の祭神は百済系の大山祇神であったが、これが維新後は事代主命に変わっている」とあります。「百済系の大山祇神」というのは、『伊予国風土記』(逸文)にみられる、大山積神は「和多志[わたし] (渡海・航海守護)の大神」、この神は仁徳天皇の時代に出現したもので、「百済[くだら]の国より度[わた]り来まして、津の国の御嶋[みしま]に坐[いま]しき」という記述に依拠したものです。
 オオヤマツミ(大山祇・大山積)という神が百済からの渡来神であるという風土記の記述は、列島内の朝鮮文化を訪ね歩く金氏にとっては、わが意を得たりといったところか、随所で言及されています。三嶋大社祭神から大山祇神が消去されたのはなぜかについて、金氏のいうところはこうです(同書第七巻)。

 要するに、大山祇(積)命は古代朝鮮三国の一国である百済から渡来したそれだったので、一八七一年の明治四年に官幣大社となっていた三嶋大社の祭神がそういう朝鮮の神であってはぐあいわるい、というわけだったのである。

 官幣大社・三嶋大社が「朝鮮の神」をまつるのは「ぐあいわるい」というのは、一読そうかとおもわないわけではありません。しかし、四国唯一の国幣大社・大山祇神社をみますと、三嶋大社と同様な祭神変更はまったくみられませんでした。また、北海道の樽前山神社では、本来の祭神は瀬織津姫神でしたが、それを「明治天皇の勅命」の名のもとにオオヤマツミ神に祭神変更させた事例さえあります(菊池展明『円空と瀬織津姫』上巻)。金氏のことばにならえば、「朝鮮の神」をまつるよりももっと「ぐあいわるい」神がいたのです。したがって、「朝鮮の神」云々は、祭神変更の本質的理由とみなすことはできないだろうとなります。
 明治期初頭、三島明神をどのような神として表示するかについて、識者の間で、あるいは三嶋大社において、オオヤマツミ神ではないという祭神異論があったということだとおもいます。もっとも、オオヤマツミ神ではなく事代主命を三島明神とみなす祭神論にしても、説得性は大いに欠如しています。かほどに、三島明神の不明性は根深いといわねばなりませんが、これは、おおよそ八世紀初頭の時点からはじまる不明性で、つまるところ、神宮祭祀との対照関係を踏まえて説くしかないことだとおもいます。天皇を中心とする国家を再構築せんとする明治政府の国家思想と連動して、天皇の祖神をまつるとする神宮の絶対化が標榜されていたわけですから、こういった本質論議がなされるはずもない時代だったとはいえますが。
 ところで、オオヤマツミ神が仁徳天皇の時代に出現したなどという風土記の記述は考証のしようもないもので、金氏もそこにふれることはありません。ましてや、オオヤマツミ(大山祇・大山積)という百済系渡来神と、金氏が新羅系渡来神とみなしている瀬織津姫神、つまり、神宮祭祀の思想から表立ってまつることはならないとみなされていた神とが、大三島においては至近の関係として伝えられていたことなども、当然ながら視野の外だったようです。
 金氏はさらに、風土記の記述から、「百済系の大山祇神」を奉祭する「百済系渡来人の越智氏族」(第九巻)と、越智氏を百済系の渡来氏族とまで断じています。列島内の諸氏族はいうにおよばず、わたしたち一人一人のDNA的記憶からいっても、それぞれの祖はいずこからの渡来人であることは肯定できるものです。したがって「渡来人」そのものについての金氏の言説は否定するものではありませんが、越智氏に限るならば、それを「百済系渡来人」と断定することが妥当かどうかという問題は残ります。
 なぜならば、越智─河野氏の秘伝的家伝書『水里玄義』には、その祖を秦徐福と神饒速日命とする二つの異伝承が書かれているからです。前者は秦氏と関わり、後者は物部氏同族といった意識の表れを語っています。
 白石成二『古代越智氏の研究』(創風社出版)には、長岡京出土の二つの木簡が紹介されています。そこには、「伊与国越智郡旦[あさ](朝)倉村秦足国[はたのたりくに]戸白米伍斗」、「伊予国越智郡朝倉村物部家公[もののべのいえきみ] 戸白米伍斗」と書かれていて、越智氏の性格を考える上で示唆することが多いです。
 秦氏と物部氏の存在が確認できる越智郡朝倉村について、白石氏は、次のように述べています。

 木簡に記された朝倉の地は古墳の里として知られている。県下最大の群集墳と言われる野々瀬古墳群、墳丘は東西三十六㍍、南北三十㍍で竪穴式石室をもつ樹之本古墳、そして多伎宮古墳群などがある。その中でも多伎神社の境内に三十余基あったとされる多伎宮古墳は、栗石を積み上げて造られた積石塚で朝鮮半島に多くみられる特異なもので、木簡によって確認された秦氏との関係が強く想定される。このように郡内に多くの秦氏が実在したことから、秦に関連する伝承が生じたのであろう。

 新羅・伽耶系渡来人の秦氏も、その祖は徐福にいくだろうというのは私見ですが、それはおくとしても、古墳的史実からいえば、越智氏は百済よりも、むしろ新羅に近縁性をもっていたようです。

津島
▲津島

 伊予国越智郡には、オオヤマツミ神をまつる越智氏と、瀬織津姫神をまつる越智氏がいました。前者は大三島を中心とするもので朝廷の祭祀思想に準じてオオヤマツミ神をまつり、後者は来島[くるしま]海峡に浮かぶ小さな津島を本拠とし大三島と一線を画すように瀬織津姫神をまつりつづけていました。『古代越智氏の研究』は、「今治市と大島の間の海峡は早瀬で航海の難所として知られる来島海峡」、この海峡には「多くの小島が点在している」として、次のようにつづけています。

 今治側からあげると小島、馬島、中渡島、武志島、毛無島、小武志島、大突間島、そして津島である。津島の山上には大岩が幾つもみえ、「津島立石」と言われ、ここが旧津島神社の跡地である。こうしたことから来島海峡の東水道を航行する場合の目標となっており、現在でも西端に潮流信号所が設置されている。これら来島群島の中では津島は最大であり、現在も有人の島である。津倉湾の入口にあることから門島[つしま]と呼ばれ、明治期には渦浦村となっている。いかにも急流の来島海峡に存在するにふさわしい地名である。〔中略〕
 この「津島」に関連して江戸末期の人である半井梧庵はその著書『愛媛面影』で「津島神社」に注目している。そこには「津島山上に立たせり。俗に津島大明神と名づく。祭る所瀬織津姫なりと云ふ。三代実録に曰く、仁和元年二月十日丙申、授伊予国正六位上徳威神、門島[つしま]神、宇和津彦神従五位下。民部帳に曰く。越智郡門島神社或津島神、神田六十一束二字田、観松日古香殖稲命[みまつひこかえしねのみこと]御宇三年戊辰、祭所瀬織津比也。有神戸部巫戸。」とある。

 文中「民部帳に曰く」とされるなかにみえる、「観松日古香殖稲命」は孝昭天皇の和風諡号で、その三年に「瀬織津比」がまつられたというのは、日本書紀年で換算すると紀元前のことで、途方もない話です。また「民部帳」そのものを確認できず、これは怪しい伝承というしかありませんけれども、津島に瀬織津姫神が古くからまつられていたことはまちがいありません。
 津島=門島神としての瀬織津姫神については別に言及したことがありますが(「大濱八幡大神社──越智・河野氏の気概」)、白石氏は、「大浜八幡神社の社伝によれば、天智天皇の時に大島の津島にあった門島神を遷座し、門島神社と号した。平安時代になって大分の宇佐八幡神社より八幡神を勧請して大浜八幡に改称したと言う」、「大島の門島神を勧請して大浜八幡神社となったこと、つまり大浜八幡神社の前身は門島神であったことは確実とみてよかろう」とも添えています。
 津島は小さな島で、津島越智氏がそれなりの勢力でこの島を本拠としていたことを、わたしは『古代越智氏の研究』で初めて知りました。この津島越智氏は宇和郡にまで展開がみられるとのことですが、津島越智氏と津島=門島神の関係について、同書のいうところを読んでみます。

(津島は)瀬戸内海航路の来島海峡の難所中の難所とされる場所に位置していたから、航海の安全を祈願する神として重要視された。そうでなければ、四国側の大浜八幡神社などよりも高い社格を与えられるということは考え難いことであろう。
 そしてこの津島にある門島神が重要視されたのは史料からみる限り大同二(八〇七)年から仁和元(八八五)年の平安時代であり、伊予国周辺で海賊の跳梁が顕著となった時期と重なっている。神階はその神を祭祀する氏族に対して与えられるものとすれば、門島神に対する従五位下の叙位は越智郡の「津島」に本拠を有して同神を篤く信仰していた越智氏に対するものであったと言える。

 伊予国周辺における「海賊の跳梁」と津島=門島神への神階の叙位が関係あるとすれば、朝廷による津島=門島神(瀬織津姫神)への異敵降伏祈願の意味が込められていたゆえなのでしょう。たしかに、瀬織津姫神は異敵を祓う神威を有する神と信じられていた時代で、このことは、大分県中津市の闇無浜[くらなしはま]神社をはじめ多くの例をみることができます。
 ところで、こういった叙位の問題とは別に、津島は「瀬戸内海航路の来島海峡の難所中の難所とされる場所に位置していた」わけで、海峡の潮流の早瀬をそのままに社号としたとおもわれる、その名も「早瀬神社」が大三島・大山祇神社の境内社・十七神社に確認できます(「大通智勝仏と十六王子──大山祇神社の本地仏たち」)。
 大山祇神社本社においては、境内社の一社にすぎないというように降格祭祀がなされていますが、津島の越智氏によって「篤く信仰」されていたのが津島=門島神(瀬織津姫神)でした。
 越智氏が東進した地が伊豆国で、それが瀬戸内海・大三島一帯を本拠としていた同じ越智氏族ならば、伊豆にも津島=門島神(瀬織津姫神)の祭祀は伝播したものと想像されます。
 ここで瀬戸内海・大三島の神を「三島明神」と仮称しますと、その東進を象徴的に表しているのが三嶋大社です。しかし、この明神が現在地(静岡県三島市)にまつられる過程は単純ではなく、金達寿氏は、その祭祀変遷を簡潔に提示するために、静岡県高等学校社会科教育研究協議会編『静岡県の歴史散歩』を引用しています(『日本の中の朝鮮文化』第七巻)。

 旧下田街道が国道一号線と分岐する位置に、伊豆一の宮三島神社がある。中世以後の伝説によると、伊予国大三島の三島明神が伊豆の三宅島に上陸、さらに賀茂郡白浜にうつり(現下田市白浜神社)、大仁町の広瀬神社をへて現在地に鎮座されたという。これは三島神を信仰する瀬戸内海の集団が、その航海術を利用して伊豆半島にうつったとされる。祭神に事代主命が合祀されたのは明治になってからで、それまでは大山祇神だった。

 三島明神の遷座過程として、「伊予国大三島の三島明神が伊豆の三宅島に上陸、さらに賀茂郡白浜にうつり(現下田市白浜神社)、大仁町の広瀬神社をへて現在地に鎮座された」といった遷座伝承が語られています。途中「大仁町の広瀬神社をへて」とありますが、この広瀬神社については、地元の郷土史家である李沂東[リキトウ]『高天原は朝鮮か』に、次のように書かれています。

 三島神は伊豆白浜に上陸し鎮座したが、やがてその後、中伊豆の発展にともない、伊豆田方郡大仁町田京の広瀬神社のあたりへ勧請されて来て、ここに何百年か鎮座していたようである。大仁町田京の口碑によれば、「三島明神は牛の背に乗って移ってこられた」と伝承されており、広瀬神社には三島明神と最も関係の深い瀬織津比売が祭られている。

 広瀬神社にはかつてわたしも訪れたことがありますが、宮司氏によれば、瀬織津姫神をまつる記録はないとのことでした。広瀬神社の現主祭神は「三嶋溝杙姫命」とされ、ここも祭神の変遷があったものとおもわれます。その意味で、李沂東氏が拾ってくれた「大仁町田京の口碑」は大きな価値があります。ちなみに、下田の白浜神社(伊古奈比命神社)の境内社・二十六社神社のうちの一社は瀬織津姫命神社で、李氏いうところの「三島明神と最も関係の深い瀬織津比売」の痕跡を今にかすかに伝えています。
 それにしても、「三島明神と最も関係の深い瀬織津比売」とはただならぬ認識です。もう少し詳しく書かれていないかと、李沂東『高天原は朝鮮か』の全文を読んでもみましたが、李氏は、この貴重な口碑を書き留めただけのようです。
 実は、この『高天原は朝鮮か』という書の存在は、内海邦彦『わが悠遠の瀬織津比』において知ったのですが、内海氏は本書で、李沂東氏の「口碑」を読んで三嶋大社を訪ね、同社神官の言として、かつて三嶋大社のなかに広瀬神社がまつられていた、しかし、現在は境外の公園「楽寿園」に遷されていると、これまた貴重な証言を拾ってくれています。
 北上山地の山深い盆地である遠野郷まできますと、瀬織津姫神は伊豆大神・伊豆大権現として今に伝えられています(岩手県遠野市上郷町来内・伊豆神社)。しかし、本貫地といってよい伊豆地方をみますと、東の熱海・伊豆山神社はいうまでもなく、伊豆半島南端の白浜神社や中伊豆の広瀬神社の祭祀において、それらに伊豆大神としての瀬織津姫神の面影祭祀を拾うのは容易ではありません。
 瀬戸内海・大三島を中心に、これまで三島明神の祭祀をみてきましたが、かつて瀬織津姫神をまつっていた伊豆の広瀬神社は三嶋大社に一度はまつられていた、しかし、その後、いつのことかははっきりしませんけれども、広瀬神社は「楽寿園」に遷されたとのことが気になり訪ねてみました。
 園内の案内によれば、「楽寿園は1万4千年前の富士山噴火の際流出した溶岩(三島溶岩流)の上にできた自然公園」とあり、三島市教育委員会による別案内では、次のように説明されています。

楽寿園(国指定天然記念物・名勝)
 六万㎡におよぶ楽寿園は、小浜池を中心とする富士山の基底溶岩流の末端にあるという溶岩地形と、その溶岩中から数か所にわたって地下水が湧出している現象が天然記念物として指定されている。また、それとあわせて特殊な地形・地質に人工を加えて生み出された固有の美観が、名勝として指定されている。
 しかし、昭和三〇年代から環境変化の激しい国土の中で涌水現象が変化しつつあり、現在その方策を検討中である。
 明治二三年(一八九〇)に小松宮彰仁王の別邸がここに築かれ、その後明治四四年李王世殿下の別邸、昭和に入って個人の所有となったが、昭和二七年(一九五二)三島市立公園「楽寿園」として市民に公開された。

楽寿園【小浜池】
▲小浜池

宮島と広瀬神社
▲宮島と広瀬神社

広瀬神社社殿
▲広瀬神社社殿

 楽寿園は小浜池を中心に構成されているものの、池は、高度成長期から枯渇がはじまり、現在は無残な池底をさらしています。富士山からの伏流水の水脈が断たれたためでしょうが、広瀬神社は、この小浜池の中島「宮島」に鎮座しています。
 富士山の伏流水をたたえた池中の島(御島)に、水霊神である瀬織津姫神がまつられていたと想像しますと、その祭祀はたしかに「絵になる」とはいえます。しかし、これは幻の話で、現在、社殿の横に「広瀬神社」という社号の標識はあるものの、ここにどのような神がまつられているのかは、だれにもわからないものとなっています。

広瀬神社由緒書
▲広瀬神社由緒書き

 楽寿園の受付で、広瀬神社の由緒書を所望したところ、頒布するものはないとのことで一枚のメモのような説明書をみせてもらいました。撮影は可とのことでしたが、それには、祭神の項に「倉稲魂命(若宇迦能売命)」とあります。また、「明治初年、三嶋大社の末社に指定」、「元摂社は田方郡田京村に鎮座」、「古くは四の宮と称した名社の1つ」、「現在は楽寿園の守護神(氏子はいない)」といった断片的なメモが記されています。
 田方郡田京村(大仁町)の広瀬神社の主祭神は「三嶋溝杙姫命」、それが三嶋大社経由で楽寿園にまつられると「倉稲魂命(若宇迦能売命)」となります。こういった祭神のあまりに安直な不整合表示が何からくるものかは、今更いうまでもありません。
 伊豆の広瀬神社(かつての三嶋大社摂社)からは消えた(消された)瀬織津姫神ですが、三嶋大社がこの神を完全に忘却したわけでなかったことは、大祓神(祓戸大神)に変質・限定するも、境内に「浦島さん」といった、これももう一つの御島神であろう古い親称名を残してまつっていることなどに表れています。
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