月の抒情、瀧の激情
自由な思索空間──「月の抒情、瀧の激情」へようこそ。
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吉里吉里の精神──大槌湾の「ひょうたん島」
3月22日付の『朝日新聞』朝刊に、「ひょうたん島壊れた」「モデルの地復興の旗頭」「岩手・大槌町」の見出しで、次のような記事が載っています。
岩手県大槌町は、作家・劇作家の故・井上ひさしさんの代表作「ひょっこりひょうたん島」や「吉里吉里人」のモデルとされる。地震と大津波は町を無残な姿に変えた。だが、生き残った町民は吉里吉里の精神で結束し、復興に向けてどこまでも前向きだった。(森本未紀、河村能宏)
大槌湾沖の小さな島、蓬莱島には、大小二つの丘があり、島影はひょうたんの形をしていた。小さい方の丘に灯台があった。NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルの一つとされ、町の自慢だった。震災前は毎日正午に町内にテーマソングも流れた。
だが、島は津波にのまれ、灯台も流された。ひょうたん形の丘も一部が崩れ落ちた。
町職員の佐々木健さん(54)は「『泣くのはいやだ、笑っちゃおう』という希望をもたらしてくれるのがひょうたん島。これから復興の旗頭になったらいい」と話した。
町中心部から北東に約4㌔。海岸沿いに広がる吉里吉里地区は、小説「吉里吉里人」のモデルとなった。東北の寒村が日本から独立をめざすという物語。ベストセラーとなり、同地区は「吉里吉里国」として井上作品のファンたちに親しまれてきた。
地震と大津波で「吉里吉里国」も一面がれきの山と化した。約300世帯2500人が暮らすが、約30人が亡くなり、約45人が行方不明になっている。
だが、震災当日に住民自ら対策本部を発足させ、翌日から、経営者の許可を得て、ガソリンスタンド地下のタンクに残された灯油や軽油の確保に乗り出した。地元の水道事業者らが手動ポンプをつくり、13日までに設営。14日から油をくみ上げた。灯油は避難所を暖める暖房機器に、軽油は、地元の建設会社や造園会社から提供を受けた重機に供給された。住民100人以上ががれきの撤去に乗り出し、生活道路の確保を目指した。
避難所で被災者の相談を受ける芳賀広喜さん(63)は胸を張る。「吉里吉里国は大変なことになったけど、人々の結束は強くなった。吉里吉里の人間であることを誇りに思う」
NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」は、ドン・ガバチョなどのコミカルな名も思い出され、わたしも子どもの頃、毎回楽しみにしていた番組の一つでした。
大槌町全体の被災については、現在「市街地はほぼ壊滅状態。町長をはじめ523人死亡。約1千人行方不明。約5800人避難」(3月31日付新聞)とあり、大槌町吉里吉里地区の自立復興のなかで語られた、芳賀広喜さんの「吉里吉里国は大変なことになったけど、人々の結束は強くなった。吉里吉里の人間であることを誇りに思う」ということばが印象的です。
甚大な被災のなかで「復興の旗頭」(シンボル)として語られていた「ひょうたん島」、記事によれば、この島の正式名は「蓬莱島」とのことです。
かつて「閑話休題──大槌湾の弁天島」と題して、大槌湾に浮かぶ小島にある弁天神社を紹介したことがありますが、この弁天島が「蓬莱島」です。井上ひさしさんの「ひょっこりひょうたん島」のモデルとされる島はほかにもありますが、大槌町の人々にとっては、この島こそ「ひょうたん島」であり、それが復興のシンボルとしてあるならば、そうであってほしいものです。
新聞に載った震災後の蓬莱島(弁天島)の写真には、へし折られた灯台の土台が写しだされていて、津波の破壊力をあらためて感じさせます。ここは、かつて、わたしが三陸の海で初めて釣りをした所でもあり、「あの灯台が……」とおもうと、やはりことばが途絶えます。また、掲載の写真は、弁天神社の社殿や樹木(松など)もとらえています。おそらく、社殿内の神体像(弁天像)ほかは、鳥居とともに流出してしまったと想像されますが、弁天さんの「家」や樹木はよく残ったものです。

▲朝日新聞

▲被災前の弁天神社(灯台から撮影)
(追伸1)
この24日、東北自動車道は一般車の通行が可能となりました。すぐに遠野入りをとおもいましたが、ガソリンの給油状況や物流状況がまだ完全復旧しておらず、またガソリンの補助タンクは売り切れとのことで、今しばらく待機のようです。
遠野の風琳堂編集室は1DKのアパートを使っていて、大家さんに現状確認に行ってもらったところ、電話口で「なんといっていいものやら……」と口ごもった応対で、「そんなにグチャグチャですか」と尋ねると、室内は足の踏み場もないといった状態らしいです。
聞くところによれば、遠野ではなぜか市役所一つが全壊で、一般の民家の損壊被害も人的被害も多くはなかったそうですが、室内への地震の影響はそれなりにあったとのことです。あるいは、編集用の機器など無事ではないのかもしれませんが、落下・散乱程度で済んでいるとするならば「よし」としなければなりません。
(追伸2)
売れない土地ならば無理して売らない、活用するということで「都会の小さな隠れ家【案】」を書いたところ、皮肉なことにというべきか、買ってもよいという人が現れました。この話がそのまま進むと、5月末までに名古屋を完全撤去することになります。
荷物はいったん遠野に部屋を借りて置いておこうかとおもい、不動産業をやっている遠野の知人のHPを開いてみると、25ほどあった賃貸物件にはすべて「御成約」か「商談中」のマークが付いています。知人曰く、ちょうど転勤時期ということもあるが、多くは沿岸からの避難者が借りているとのことです。
避難者の家族のプライバシーが守られること、また、風呂にも入れてゆっくり眠れることなどは「次」への第一歩ですから、わたしに部屋の空きがないことなどはたいした問題ではありません。とはいえ、関係荷物をどこかに移す必要はあります。
ときどき名古屋の倉庫事務所といった書き方をしてきたように、風琳堂はまがりなりにも出版社ですから、相応の「本の山」(在庫)を抱えています。個人的な蔵書類も含めて、おもいきった整理をすることになりそうです。
関係著者および読者の方には、よろしく「了」としていただくことを希望しています。
岩手県大槌町は、作家・劇作家の故・井上ひさしさんの代表作「ひょっこりひょうたん島」や「吉里吉里人」のモデルとされる。地震と大津波は町を無残な姿に変えた。だが、生き残った町民は吉里吉里の精神で結束し、復興に向けてどこまでも前向きだった。(森本未紀、河村能宏)
大槌湾沖の小さな島、蓬莱島には、大小二つの丘があり、島影はひょうたんの形をしていた。小さい方の丘に灯台があった。NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルの一つとされ、町の自慢だった。震災前は毎日正午に町内にテーマソングも流れた。
だが、島は津波にのまれ、灯台も流された。ひょうたん形の丘も一部が崩れ落ちた。
町職員の佐々木健さん(54)は「『泣くのはいやだ、笑っちゃおう』という希望をもたらしてくれるのがひょうたん島。これから復興の旗頭になったらいい」と話した。
町中心部から北東に約4㌔。海岸沿いに広がる吉里吉里地区は、小説「吉里吉里人」のモデルとなった。東北の寒村が日本から独立をめざすという物語。ベストセラーとなり、同地区は「吉里吉里国」として井上作品のファンたちに親しまれてきた。
地震と大津波で「吉里吉里国」も一面がれきの山と化した。約300世帯2500人が暮らすが、約30人が亡くなり、約45人が行方不明になっている。
だが、震災当日に住民自ら対策本部を発足させ、翌日から、経営者の許可を得て、ガソリンスタンド地下のタンクに残された灯油や軽油の確保に乗り出した。地元の水道事業者らが手動ポンプをつくり、13日までに設営。14日から油をくみ上げた。灯油は避難所を暖める暖房機器に、軽油は、地元の建設会社や造園会社から提供を受けた重機に供給された。住民100人以上ががれきの撤去に乗り出し、生活道路の確保を目指した。
避難所で被災者の相談を受ける芳賀広喜さん(63)は胸を張る。「吉里吉里国は大変なことになったけど、人々の結束は強くなった。吉里吉里の人間であることを誇りに思う」
NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」は、ドン・ガバチョなどのコミカルな名も思い出され、わたしも子どもの頃、毎回楽しみにしていた番組の一つでした。
大槌町全体の被災については、現在「市街地はほぼ壊滅状態。町長をはじめ523人死亡。約1千人行方不明。約5800人避難」(3月31日付新聞)とあり、大槌町吉里吉里地区の自立復興のなかで語られた、芳賀広喜さんの「吉里吉里国は大変なことになったけど、人々の結束は強くなった。吉里吉里の人間であることを誇りに思う」ということばが印象的です。
甚大な被災のなかで「復興の旗頭」(シンボル)として語られていた「ひょうたん島」、記事によれば、この島の正式名は「蓬莱島」とのことです。
かつて「閑話休題──大槌湾の弁天島」と題して、大槌湾に浮かぶ小島にある弁天神社を紹介したことがありますが、この弁天島が「蓬莱島」です。井上ひさしさんの「ひょっこりひょうたん島」のモデルとされる島はほかにもありますが、大槌町の人々にとっては、この島こそ「ひょうたん島」であり、それが復興のシンボルとしてあるならば、そうであってほしいものです。
新聞に載った震災後の蓬莱島(弁天島)の写真には、へし折られた灯台の土台が写しだされていて、津波の破壊力をあらためて感じさせます。ここは、かつて、わたしが三陸の海で初めて釣りをした所でもあり、「あの灯台が……」とおもうと、やはりことばが途絶えます。また、掲載の写真は、弁天神社の社殿や樹木(松など)もとらえています。おそらく、社殿内の神体像(弁天像)ほかは、鳥居とともに流出してしまったと想像されますが、弁天さんの「家」や樹木はよく残ったものです。

▲朝日新聞

▲被災前の弁天神社(灯台から撮影)
(追伸1)
この24日、東北自動車道は一般車の通行が可能となりました。すぐに遠野入りをとおもいましたが、ガソリンの給油状況や物流状況がまだ完全復旧しておらず、またガソリンの補助タンクは売り切れとのことで、今しばらく待機のようです。
遠野の風琳堂編集室は1DKのアパートを使っていて、大家さんに現状確認に行ってもらったところ、電話口で「なんといっていいものやら……」と口ごもった応対で、「そんなにグチャグチャですか」と尋ねると、室内は足の踏み場もないといった状態らしいです。
聞くところによれば、遠野ではなぜか市役所一つが全壊で、一般の民家の損壊被害も人的被害も多くはなかったそうですが、室内への地震の影響はそれなりにあったとのことです。あるいは、編集用の機器など無事ではないのかもしれませんが、落下・散乱程度で済んでいるとするならば「よし」としなければなりません。
(追伸2)
売れない土地ならば無理して売らない、活用するということで「都会の小さな隠れ家【案】」を書いたところ、皮肉なことにというべきか、買ってもよいという人が現れました。この話がそのまま進むと、5月末までに名古屋を完全撤去することになります。
荷物はいったん遠野に部屋を借りて置いておこうかとおもい、不動産業をやっている遠野の知人のHPを開いてみると、25ほどあった賃貸物件にはすべて「御成約」か「商談中」のマークが付いています。知人曰く、ちょうど転勤時期ということもあるが、多くは沿岸からの避難者が借りているとのことです。
避難者の家族のプライバシーが守られること、また、風呂にも入れてゆっくり眠れることなどは「次」への第一歩ですから、わたしに部屋の空きがないことなどはたいした問題ではありません。とはいえ、関係荷物をどこかに移す必要はあります。
ときどき名古屋の倉庫事務所といった書き方をしてきたように、風琳堂はまがりなりにも出版社ですから、相応の「本の山」(在庫)を抱えています。個人的な蔵書類も含めて、おもいきった整理をすることになりそうです。
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