月の抒情、瀧の激情
自由な思索空間──「月の抒情、瀧の激情」へようこそ。
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貞観時代の天変地異──古記録と東北地方太平洋沖地震【再】
遅くなりましたが、震災にあわれた方々にはあらためてお見舞い申し上げます。
何人かの方々からは、わたしが遠野にいるものとおもい、問い合わせをいただきました。しかし、地震発生のとき、わたしは遠野にいなくて、連絡をくれたある人は「よかった」と言ってくれましたが、その後の震災報道をみていますと、とても複雑な心境だというのが本音です。
岩手の紫波の知人と電話で話していた、ちょうどそのときに地震が発生して、「大きい、動けない、こんな揺れは初めてだ」といったことばが受話器から聞こえてきて、一分後くらいでしょうか、電話が切れました。このときは名古屋の事務所にいて、それからどれくらいたったかはっきり覚えていませんが、名古屋にまで震度4の揺れがきました。
その後、知人の無事は確認されましたが、沿岸部の知人にはまだ連絡がとれない人もいます。この状況では無事を願うしかないですし、遠野入りするのも困難な状況で、ともかく冷静に自分を保つ以外にないといったところでしょうか。
なにか書く必要があるなとおもい、先回の「貞観時代の天変地異」を載せましたが、心ある読者から指摘をいただき、結果、削除いたしました。理由は、次のような末尾のことばがあったからです。
自然は人智を映し出す鏡だなと、あらためて認識させられたようです。この自然を「カミ」と呼んでも、そこに差異はないといってもよいでしょう。
これは不用意な書き方で、これですと、今回の地震・震災は「神」が引き起こしたといった文脈で読まれかねません。この「神」がさらに瀬織津姫神へとスライドしてゆく可能性も否定できず、そういった危険性をはらんでいるならばということで削除しました。
ただし、「貞観時代の天変地異」そのものについては、歴史の証言として残しておいてよいかとおもい、以下に、少しは生きているであろう部分を再録しておきます。
*
マスコミに登場する地震・津波研究の専門家の多くから、今回の巨大地震・津波は「想定外」といったことばが語られます。また、その後、福島の原発災害が深刻化するなかでも「想定外」の地震・津波ということばがきかれます。
ホリエモン事件(?)のときは「想定内」ということばが印象深かったですが、今回は「想定外」です。ただし、東北大学のある地震研究者が、貞観時代の三陸大地震で、その津波によって変異がみられる地質調査をすると、今回の巨大津波とよく似ている旨を語っていました。貞観時代は平安時代の九世紀にあたりますから、千年以上前の地震ということになります。千年という時間は「想定外」というのが現代の多くの学者感覚なのでしょうが、としますと、これは歴史(の記録)を甘くみていたということにもなります。
貞観時代は、西暦でいえば八五九~八七七年にあたり、このときの三陸大地震について記録していたのは『日本三代実録』という官撰の史書でした。本書には、具体的には次のように書かれています(吉川弘文館『国史大系』所収『日本三代実録』、旧漢字は新漢字に置き換えて引用)。
(貞観十一年五月)廿六日癸未。陸奥国地大震動。流光如昼隠映。頃之。人民叫呼。伏不能起。或屋仆圧死。或地裂埋殆。馬牛駭奔。或相昇踏。城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顚覆。不知其数。海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長。忽至城下。去海数十〔千〕百里。浩々不弁其涯涘。原野道路。惣為滄溟。乗船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。
貞観十一年(八六九)五月二十六日、陸奥国に大地震がおこり、多賀城の城郭その他建物が倒壊し、その数は知れない。また、大津波(「海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長」)はたちまち城下に至り、海浜から「数十〔千〕百里」ほど水が押し寄せ、城下の死者は千人に及んだ──。
大要を粗っぽく記しましたが、この大津波による土質変化を、多賀城・仙台平野からさらに広範囲に調査しているのが東北大学です。この調査結果は、「想定外」といった免責ことばに終始する日本の地震学・津波学に再考を迫るはずのものと考えますが、あるいは、結果は同じで無視されるのかもしれません。千年(以上)という時間に対するセンスをもつのは容易ではありませんから。
ところで、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東北のまつろわぬ民・蝦夷[えみし]の討伐を朝廷に奏上したのは延暦二十年(八〇一)九月二十七日のことでした。前年の延暦十九年(八〇〇)三月十四日には富士山の噴火があり、東北の九世紀は、きな臭さの余韻のなかではじまったようです。
貞観時代(八五九~八七七)を中心に、九世紀の天変地異は数多く記録されています。当時、当然ながら太平洋プレート云々といった地質学は存在しませんから、こういった異変は「祟り」とみなされていました。仁和二年(八八六)八月四日の『日本三代実録』の記録には、「安房国に天変地異があり、鬼気御霊の祟りで兵難の相があるとし、近隣諸国に厳戒させる」(『日本文化総合年表』)とあり、朝廷側は「鬼気御霊の祟り」を大真面目に認めていたようです。
ここで、天変地異の九世紀を『日本文化総合年表』ほかから、あらためて年表ふうに書き出してみます。
延暦十九年(八〇〇)──富士山噴火
弘仁九年(八一八)───北関東で地震、死者多数
天長四年(八二七)───大地震あり、以後、地震頻発
天長七年(八三〇)───出羽国秋田に大地震、秋田城・四天王寺等、倒壊
承和八年(八四一)───伊豆地震、死者多数
嘉祥三年(八五〇)───出羽地震、死者多数
斉衡三年(八五六)───この年、地震多く、被害甚だしい
貞観五年(八六三)───越中・越後地震、死者多数
貞観六年(八六四)───駿河国、富士山大噴火(貞観噴火)、阿蘇山噴火
貞観九年(八六七)───阿蘇山噴火
貞観十年(八六八)───播磨・山城地震
貞観十一年(八六九)──三陸大地震、津波(貞観津波)
貞観十三年(八七一)──出羽国、鳥海山噴火
貞観十六年(八七四)──薩摩国、開聞岳噴火
元慶二年(八七八)───相模・武蔵地震、死者多数
元慶四年(八八〇)───出雲大地震
仁和元年(八八五)───薩摩国、開聞岳大噴火
仁和二年(八八六)───安房国で地震・雷など頻発
仁和三年(八八七)───南海地震、東南海地震、東海地震
各地の神社伝承や地方史などをていねいにみてゆくならば、もっと拾い出すことは可能でしょうが、それにしても、貞観時代は天変地異が集中した時代だったようです。
気象庁発表によれば、今回の地震名は「東北地方太平洋沖地震」、震災名についてはマスコミによってばらばらで、たとえば「東北関東大震災」とか「東日本大震災」といった仮称がみられます。貞観時代における「東北地方太平洋沖地震」といってよい三陸大地震で気になるのは、その五年前に記録されている富士山噴火です。
地震・噴火の発生順はともかくとして、近い時間のなかで三陸大地震と富士山・鳥海山噴火、それと三陸からは遠隔の地にある阿蘇山・開聞岳噴火までが記録されています。
三月十五日には富士宮市あたりを震源地とする地震が発生しました(静岡県東部地震)。気象庁は「この地震による津波の心配はありません」といった通り相場の発表をしていましたが、富士宮市は富士山麓にありますから、富士山噴火の可能性の有無についても言及してよかっただろうとおもいました。
また、東北地方太平洋沖地震と静岡県東部地震は直接の関係はないだろうとの識者の意見も聞かれます。これはプレートが異なるものだからというプレート論に依拠したものですが、考えてみれば、そういったプレートを実見したものはだれもいませんし、ましてや、各プレートの下の地殻変動がどのようなメカニズムによるものかは不明です。
自然は予測不能なところで自己主張するはずで、科学・人智は過去(歴史)から学ぶという姿勢を手放さないほうがよいようにおもいます。
*
ここで補足しておきたいのは、貞観十三年(八七一)におこった鳥海山の噴火についてです。当時の朝廷側の記録(『日本三代実録』)は、この噴火に対しては異例に多くのことばを費やしています。
(貞観十三年五月)十六日辛酉。先是。出羽国司言。従三位勳五等大物忌神社在飽海郡山上。巌石壁立。人跡稀到。夏冬戴雪。禿無草木。去四月八日山上有火。焼土石。又有声如雷。自山所出之河。泥水泛溢。其色青黒。臰気充満。人不堪聞。死魚多浮。擁塞不流。有両大虵。長各十許丈。相連流出。入於海口。小虵随者不知其数。縁河苗稼流損者多。或浮濁水。草木臰朽而不生。聞于古老。未嘗有如此之異。但弘仁年中山中見火。其後不幾。有事兵仗。決之蓍亀。並云。彼国明神因所禱未賽。又冢墓骸骨汙其山水。由是発怒焼山。致此災異。若不鎮謝。可有兵役。是日下知国宰。賽宿禱。去旧骸。並行鎮謝之法焉。
当時、鳥海山という山名は語られず、大物忌神社が山上に在るというように、大物忌神がいます山というようにいわれていたようです。引用の漢文を正確に読み下すのは難儀ですが、出羽国司は四月八日のこととして、噴火(「山上有火」)と焼けた土石が河に流れ泥水があふれかえり、流域の田をつぶした様を記しています。長さ十丈ばかりの大蛇が二匹、流れ下っていって海にはいると、無数の小さな蛇がつき従っていったといった不思議な逸話も書かれています。
国司の報告の後半によれば、弘仁年中にも噴火があったとしていて、また、噴火は山中の死穢による不浄や、ていねいな神まつりをしなかったことを神が怒ったという理解だったようです。先に、安房国の天変地異は「鬼気御霊の祟り」で、これは兵乱の兆しであるという朝廷側のことばをみましたが、それにならえば、鳥海山の噴火は「大物忌神の祟り」となります。少なくとも、朝廷側は、そのように認識していたとおもわれます。
この大物忌神が瀬織津姫神を秘した神名であったことの考証はくりかえしませんけれども(『円空と瀬織津姫』上巻参照)、この神を「祟り」をなす神とみなしていたのは、朝廷支配層側に、それ相応の「祟られる」意識があったゆえで、庶民とは無縁の話です。
かつて『エミシの国の女神』を出したとき、「この神は天変地異を司る神。世に出してはいけない」といった匿名電話をもらったことがありました。天変地異、つまり自然災害をこの神の意思によるものとみなす発想は、現代にも根深くあるのかもしれません。しかし、これは、古代の朝廷支配層側がこの神に抱いていた認識を無批判に踏襲したものというべきで、そういった無思考的発想を現代にもつことは大いなる時代錯誤、ある意味、つまり、この神に対する畏怖の感情をもたない分、かつての朝廷思想よりも質[たち]がわるいといえます。
困難はありますが、瀬織津姫という神が正統に理解される道を信じて、一歩ずつ歩を進めてゆくしかないようです。
何人かの方々からは、わたしが遠野にいるものとおもい、問い合わせをいただきました。しかし、地震発生のとき、わたしは遠野にいなくて、連絡をくれたある人は「よかった」と言ってくれましたが、その後の震災報道をみていますと、とても複雑な心境だというのが本音です。
岩手の紫波の知人と電話で話していた、ちょうどそのときに地震が発生して、「大きい、動けない、こんな揺れは初めてだ」といったことばが受話器から聞こえてきて、一分後くらいでしょうか、電話が切れました。このときは名古屋の事務所にいて、それからどれくらいたったかはっきり覚えていませんが、名古屋にまで震度4の揺れがきました。
その後、知人の無事は確認されましたが、沿岸部の知人にはまだ連絡がとれない人もいます。この状況では無事を願うしかないですし、遠野入りするのも困難な状況で、ともかく冷静に自分を保つ以外にないといったところでしょうか。
なにか書く必要があるなとおもい、先回の「貞観時代の天変地異」を載せましたが、心ある読者から指摘をいただき、結果、削除いたしました。理由は、次のような末尾のことばがあったからです。
自然は人智を映し出す鏡だなと、あらためて認識させられたようです。この自然を「カミ」と呼んでも、そこに差異はないといってもよいでしょう。
これは不用意な書き方で、これですと、今回の地震・震災は「神」が引き起こしたといった文脈で読まれかねません。この「神」がさらに瀬織津姫神へとスライドしてゆく可能性も否定できず、そういった危険性をはらんでいるならばということで削除しました。
ただし、「貞観時代の天変地異」そのものについては、歴史の証言として残しておいてよいかとおもい、以下に、少しは生きているであろう部分を再録しておきます。
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マスコミに登場する地震・津波研究の専門家の多くから、今回の巨大地震・津波は「想定外」といったことばが語られます。また、その後、福島の原発災害が深刻化するなかでも「想定外」の地震・津波ということばがきかれます。
ホリエモン事件(?)のときは「想定内」ということばが印象深かったですが、今回は「想定外」です。ただし、東北大学のある地震研究者が、貞観時代の三陸大地震で、その津波によって変異がみられる地質調査をすると、今回の巨大津波とよく似ている旨を語っていました。貞観時代は平安時代の九世紀にあたりますから、千年以上前の地震ということになります。千年という時間は「想定外」というのが現代の多くの学者感覚なのでしょうが、としますと、これは歴史(の記録)を甘くみていたということにもなります。
貞観時代は、西暦でいえば八五九~八七七年にあたり、このときの三陸大地震について記録していたのは『日本三代実録』という官撰の史書でした。本書には、具体的には次のように書かれています(吉川弘文館『国史大系』所収『日本三代実録』、旧漢字は新漢字に置き換えて引用)。
(貞観十一年五月)廿六日癸未。陸奥国地大震動。流光如昼隠映。頃之。人民叫呼。伏不能起。或屋仆圧死。或地裂埋殆。馬牛駭奔。或相昇踏。城郭倉庫。門櫓墻壁。頽落顚覆。不知其数。海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長。忽至城下。去海数十〔千〕百里。浩々不弁其涯涘。原野道路。惣為滄溟。乗船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。
貞観十一年(八六九)五月二十六日、陸奥国に大地震がおこり、多賀城の城郭その他建物が倒壊し、その数は知れない。また、大津波(「海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長」)はたちまち城下に至り、海浜から「数十〔千〕百里」ほど水が押し寄せ、城下の死者は千人に及んだ──。
大要を粗っぽく記しましたが、この大津波による土質変化を、多賀城・仙台平野からさらに広範囲に調査しているのが東北大学です。この調査結果は、「想定外」といった免責ことばに終始する日本の地震学・津波学に再考を迫るはずのものと考えますが、あるいは、結果は同じで無視されるのかもしれません。千年(以上)という時間に対するセンスをもつのは容易ではありませんから。
ところで、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東北のまつろわぬ民・蝦夷[えみし]の討伐を朝廷に奏上したのは延暦二十年(八〇一)九月二十七日のことでした。前年の延暦十九年(八〇〇)三月十四日には富士山の噴火があり、東北の九世紀は、きな臭さの余韻のなかではじまったようです。
貞観時代(八五九~八七七)を中心に、九世紀の天変地異は数多く記録されています。当時、当然ながら太平洋プレート云々といった地質学は存在しませんから、こういった異変は「祟り」とみなされていました。仁和二年(八八六)八月四日の『日本三代実録』の記録には、「安房国に天変地異があり、鬼気御霊の祟りで兵難の相があるとし、近隣諸国に厳戒させる」(『日本文化総合年表』)とあり、朝廷側は「鬼気御霊の祟り」を大真面目に認めていたようです。
ここで、天変地異の九世紀を『日本文化総合年表』ほかから、あらためて年表ふうに書き出してみます。
延暦十九年(八〇〇)──富士山噴火
弘仁九年(八一八)───北関東で地震、死者多数
天長四年(八二七)───大地震あり、以後、地震頻発
天長七年(八三〇)───出羽国秋田に大地震、秋田城・四天王寺等、倒壊
承和八年(八四一)───伊豆地震、死者多数
嘉祥三年(八五〇)───出羽地震、死者多数
斉衡三年(八五六)───この年、地震多く、被害甚だしい
貞観五年(八六三)───越中・越後地震、死者多数
貞観六年(八六四)───駿河国、富士山大噴火(貞観噴火)、阿蘇山噴火
貞観九年(八六七)───阿蘇山噴火
貞観十年(八六八)───播磨・山城地震
貞観十一年(八六九)──三陸大地震、津波(貞観津波)
貞観十三年(八七一)──出羽国、鳥海山噴火
貞観十六年(八七四)──薩摩国、開聞岳噴火
元慶二年(八七八)───相模・武蔵地震、死者多数
元慶四年(八八〇)───出雲大地震
仁和元年(八八五)───薩摩国、開聞岳大噴火
仁和二年(八八六)───安房国で地震・雷など頻発
仁和三年(八八七)───南海地震、東南海地震、東海地震
各地の神社伝承や地方史などをていねいにみてゆくならば、もっと拾い出すことは可能でしょうが、それにしても、貞観時代は天変地異が集中した時代だったようです。
気象庁発表によれば、今回の地震名は「東北地方太平洋沖地震」、震災名についてはマスコミによってばらばらで、たとえば「東北関東大震災」とか「東日本大震災」といった仮称がみられます。貞観時代における「東北地方太平洋沖地震」といってよい三陸大地震で気になるのは、その五年前に記録されている富士山噴火です。
地震・噴火の発生順はともかくとして、近い時間のなかで三陸大地震と富士山・鳥海山噴火、それと三陸からは遠隔の地にある阿蘇山・開聞岳噴火までが記録されています。
三月十五日には富士宮市あたりを震源地とする地震が発生しました(静岡県東部地震)。気象庁は「この地震による津波の心配はありません」といった通り相場の発表をしていましたが、富士宮市は富士山麓にありますから、富士山噴火の可能性の有無についても言及してよかっただろうとおもいました。
また、東北地方太平洋沖地震と静岡県東部地震は直接の関係はないだろうとの識者の意見も聞かれます。これはプレートが異なるものだからというプレート論に依拠したものですが、考えてみれば、そういったプレートを実見したものはだれもいませんし、ましてや、各プレートの下の地殻変動がどのようなメカニズムによるものかは不明です。
自然は予測不能なところで自己主張するはずで、科学・人智は過去(歴史)から学ぶという姿勢を手放さないほうがよいようにおもいます。
*
ここで補足しておきたいのは、貞観十三年(八七一)におこった鳥海山の噴火についてです。当時の朝廷側の記録(『日本三代実録』)は、この噴火に対しては異例に多くのことばを費やしています。
(貞観十三年五月)十六日辛酉。先是。出羽国司言。従三位勳五等大物忌神社在飽海郡山上。巌石壁立。人跡稀到。夏冬戴雪。禿無草木。去四月八日山上有火。焼土石。又有声如雷。自山所出之河。泥水泛溢。其色青黒。臰気充満。人不堪聞。死魚多浮。擁塞不流。有両大虵。長各十許丈。相連流出。入於海口。小虵随者不知其数。縁河苗稼流損者多。或浮濁水。草木臰朽而不生。聞于古老。未嘗有如此之異。但弘仁年中山中見火。其後不幾。有事兵仗。決之蓍亀。並云。彼国明神因所禱未賽。又冢墓骸骨汙其山水。由是発怒焼山。致此災異。若不鎮謝。可有兵役。是日下知国宰。賽宿禱。去旧骸。並行鎮謝之法焉。
当時、鳥海山という山名は語られず、大物忌神社が山上に在るというように、大物忌神がいます山というようにいわれていたようです。引用の漢文を正確に読み下すのは難儀ですが、出羽国司は四月八日のこととして、噴火(「山上有火」)と焼けた土石が河に流れ泥水があふれかえり、流域の田をつぶした様を記しています。長さ十丈ばかりの大蛇が二匹、流れ下っていって海にはいると、無数の小さな蛇がつき従っていったといった不思議な逸話も書かれています。
国司の報告の後半によれば、弘仁年中にも噴火があったとしていて、また、噴火は山中の死穢による不浄や、ていねいな神まつりをしなかったことを神が怒ったという理解だったようです。先に、安房国の天変地異は「鬼気御霊の祟り」で、これは兵乱の兆しであるという朝廷側のことばをみましたが、それにならえば、鳥海山の噴火は「大物忌神の祟り」となります。少なくとも、朝廷側は、そのように認識していたとおもわれます。
この大物忌神が瀬織津姫神を秘した神名であったことの考証はくりかえしませんけれども(『円空と瀬織津姫』上巻参照)、この神を「祟り」をなす神とみなしていたのは、朝廷支配層側に、それ相応の「祟られる」意識があったゆえで、庶民とは無縁の話です。
かつて『エミシの国の女神』を出したとき、「この神は天変地異を司る神。世に出してはいけない」といった匿名電話をもらったことがありました。天変地異、つまり自然災害をこの神の意思によるものとみなす発想は、現代にも根深くあるのかもしれません。しかし、これは、古代の朝廷支配層側がこの神に抱いていた認識を無批判に踏襲したものというべきで、そういった無思考的発想を現代にもつことは大いなる時代錯誤、ある意味、つまり、この神に対する畏怖の感情をもたない分、かつての朝廷思想よりも質[たち]がわるいといえます。
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