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求菩提山・岩岳川の守護神──鬼の供養のために

 渡邊晴見『豊前地方誌』(葦書房)には「岩岳川は豊前市の母なる川である」とあり、求菩提[くぼて]山を信仰的な源流山とする岩岳川は、当地において特別視されているようです。重松敏美『豊求菩提山修験文化攷』(豊前市教育委員会)は、川名を岩岳川ということについて、次のように記しています。

 水は、山に湧き、里に流れて、人々の生活があった。山は、水の神であるわけである。里に流れれば田の神である。〔中略〕
 現在、豊前市に流れている川を岩岳川と呼んでいる。本来、水源は犬ヶ岳であるが、これを犬ヶ岳川と言わない。岩岳川の呼び名は、求菩提山から起こっている。求菩提山名は、寺号の上につく山号の名前であって、求菩提山のことを地形名では、岩岳山と古くよんでいる。岩岳川の名はここから発している。

 現在は地形山名として求菩提山が定着していますが、もとは「岩岳山」で、この山を源流山とするゆえに「岩岳川」の名があるとのことです。
 求菩提山頂は「岩岳」の古名にふさわしいというべきか、文字通り「岩」がごろごろしていて、なかでも、冬でも雪が積もらない霊石は白山権現の影向石ともいわれ、しかも、この霊石の割れ目の奥には地熱がこもっていて、冬には水蒸気の噴出がみられるとのことです。

1001◆求菩提山山頂の霊石
▲求菩提山頂の霊石

 この山頂の霊石の割れ目の奥に、おそらく、岩岳川の水源中の水源があるようです。求菩提山には五つの窟がありますが、なかでも水源の窟とみなされているのが第二窟の普賢窟です。『文化攷』は、次のように書いています。

 岩壁に神仏を現[うつ]したものの中に、普賢窟がある。多聞窟もそうであるが、この普賢窟のことを、三昧耶形[さんまやぎょう]とある。その意は他の器物で仏を象徴するかたちをいい、女陰の形をする岩壁の亀裂をさし、聖体化している。これを胎蔵窟ともいっている。
 この亀裂の中に地下水が湧き、流れている。眼には見えないが、その音は不可思議かのように響き、これを普賢三昧耶の梵音と称している。
 岩岳川の水の源はここにあって、水分神を祀ってあった。江戸期まで盛んに水神祭が行なわれている。

 普賢窟(胎蔵窟)の「亀裂の中に地下水が湧き、流れている。眼には見えないが、その音は不可思議かのように響き、これを普賢三昧耶の梵音と称している」とあり、岩岳川の水源がまさに「神妙」の音[ね]とともに語られています。普賢窟には「水分神」がまつられていたとあり、ここでは、その水神(水分神)の名は語られていませんけれども、ここには「岩瀧大明神」がまつられていました(近世末に成る「諸堂記」)。その祭祀の祠は「岩瀧宮」と呼ばれ、『文化攷』は、明治期初頭の文献から、次のように神の名を明かしていました。

岩瀧宮  瀬織津姫命

 求菩提山頂・白山権現の足下に、「瀬織津姫命」という白山祭祀の本源神の名がみられるというのは、実に貴重です。宮号に「岩瀧」とあるように、この神は滝の神でもあります。普賢窟の地下水が湧出して岩肌をやわらかに流れている様を「普賢の滝」と呼んでいますが、これもまた岩岳川の水源の滝です。

1002◆普賢の滝
▲普賢の滝

 犬ヶ岳の霊神は「鬼神」とみなされていましたが、これは、天皇を中心とする律令的国家構想と連動している伊勢の皇祖神祭祀を相対化する神でもあったからです。まさに「王政復古」的に近代天皇制を国家構想の基本に置いて動き出した明治政府(の神祇思想)が、そういった「鬼神」祭祀を容認するはずもなく、明治十三年二月に成る「神社明細書」からは、「瀬織津姫命」の名は消えることになります(『文化攷』)。
 しかし、「鬼神」規定は中央の祭祀思想による一方的なもので、求菩提山・犬ヶ岳を「水神」が住まう山として信仰してきた山麓の民の生活感覚からすれば、この神による水の守護を願う信仰の方がはるかに普遍的といえるはずです。
 かつての筑前・豊前国を中心に、おびただしい数の貴船神社の祭祀がみられますが、これは、岩岳川流域においても例外ではありませんでした。宗像大神も、それと同体の八幡比売大神も、その水神的神徳を自然に発現するような祭祀は封じられていて、その代替のように勧請されたのが貴船神社かとおもわれます。求菩提山の場合、その修験的性格から白山権現を山頂に勧請しましたが、これは国家鎮護を標榜するもので、白山神の水神的神徳は、一社の例外はあるものの、広く岩岳川流域には還元されなかったようです。
 明治四十三年、岩岳川流域の貴船神社五社を合祀したのが石清水八幡神社ですが(豊前市の「白籏之森鎮座」…社頭の石碑)、このうち、大字広瀬に鎮座していた貴船神社に、岩岳川の水源神の名がみられます。『築上郡史』下巻は、「諸社祭祀に云」として、次のような所伝を記しています。

貴船社祭所、瀬織津姫、高靇、素盞嗚尊也 一、瀬織津姫神は古時日向小戸原より御影向也、高靇、素盞嗚命者人王五十九代宇多天皇丁巳歳在神託同殿合祭也

1003◆石清水八幡神社─鳥居

1004◆石清水八幡神社─全景

1005◆石清水八幡神社─御由緒
▲石清水八幡神社

 ちなみに、昭和十九年発行『福岡県神社誌』は石清水八幡神社(当時は千束神社)の項で、「瀬織津姫命、高靇神、素盞嗚命は大字廣瀬字ワサ田村社貴船神社として祭祀ありしを同(明治)四十三年十月八日合併許可、高靇神は同一祭神に付合霊す」と書いています。
 いずれにしても、貴船神の古祭祀として瀬織津姫神の名がみられます。貴船神社の祭神は、現在、一般的にはタカオカミ・クラオカミといった名で語られることが圧倒的に多いです。しかし、石清水八幡神社のほかにも、たとえば、宗像大神の祭祀者である宗像大宮司が、かつて自身の守護神として私祭していた貴船神にも瀬織津姫神の名がみられますから、この神を古層あるいは本来の貴船神とみることに不都合なことはありません。
 明治期以降、求菩提山の表層祭祀からは消えた岩岳川の水源神の名を、貴船神として現在にまで伝えつづけている石清水八幡神社の存在は特記に値します。その気骨ある祭祀思想が見え隠れしているのは、当地がなるほど「鬼の里」(『豊前地方誌』)であったことを告げてもいるようです。
 ところで、岩岳川流域には「鬼木」という地名があります。ここは、広瀬の隣地区になるようですが、この「鬼木」という名は、犬ヶ岳の「鬼」に由来するもののようです。現地の案内板には、次のように書かれています。

楠にまつわる伝説
 昔、犬ヶ岳に棲む鬼が度々ふもとに降りてきて村人を苦しめていた。そこで求菩提の権現様が、鬼に、「求菩提の中宮から上宮へ登る道に一〇〇〇段の石段を、一夜のうちに積むことが出来たら犬ヶ岳に住むことを許すが、出来なければ追い出す」と。鬼はいわれた通り石積みを始めたが、なにしろ怪力の鬼の事、夜明けまでに完成しそうな勢いである。許せばまた村人を苦しめる事を知っている権現様は、一計を案じ、鶏をまねてばち傘を叩き、高らかに鳴いた。九九九段まで積み終えていた鬼は、朝が来たと思って一目散に海に向かって走った。途中鬼木のこの大楠にとりすがり「もう駄目だ」と大粒の涙を流して泣いたという。
 それ以後、この楠に今のような木瘤[きこぶ]ができるようになり、村人たちはこの老木を鬼木と呼ぶようになった。鬼はそのあと、ふらふらと椎田の海岸まで歩き、鬼塚という島に辿り着いたところで息が絶え、頭はこの島に、胴体は求菩提に埋められた。この島はその後、満潮には浮島となり、干潮には砂州となって水没することがなかった。しかし、昭和三〇年代の干拓事業で、陸地になってしまったが、形は当時のまま保存されている。

1006◆求菩提山─鬼の石段
▲鬼の石段

 ここで伝説的に語られている鬼が、定型通りに「村人を苦しめていた」とされるも、けっして性根が悪鬼でなかったことに注意する必要があります。「求菩提の権現様」とは白山権現のことですが、鬼は犬ヶ岳霊神の眷属といった関係にありましょう。鬼の石段積みと、その断念の話は全国各地にみられるものですが、山に住めなくなった豊前の鬼は「大楠」にとりすがって「大粒の涙を流して泣いた」とされます。

1007◆鬼木─大楠
▲鬼木

 鬼が最終的に息絶えたところは、椎田の海岸にある「鬼塚という島」「浮島」とされていて、この浮島は、犬ヶ岳霊神ゆかりの島ですし、求菩提山の縁起では白山権現が初めて出現した島でもありました。鬼は、母なる神ゆかりの島で息絶えたことになり、おもえば、鬼は、この母なる神ゆかりの岩岳川を下るように山を下りてきたのでした。
 鬼は、岩岳川沿いの「大楠」に、その足跡をのこしていて、なぜ「大楠」なのかという問いも生じてきます。ここで想起されるのが、瀬戸内海・大三島の大山祇神社における大楠伝承、つまり、大三島の水霊神は大楠に宿るという信仰があったことです。犬ヶ岳の山霊神は沈黙の水霊神でもありましたから、この神が宿る大楠に鬼がとりすがって泣いたというのは、大三島と同質の大楠伝承があったからだろうと想像されもします。
 この大楠ゆかりの神社が初河瀬神社で、これも明治期、貴船神社と同様に石清水八幡神社に合祀されています。『築上郡史』が記す由緒を、少し読みづらいところもありますが、書き出してみます。

元鬼木村社 初河瀬神社  
祭神 応神天皇、三女神、淀姫神、大国主神で字宮本に鎮座せしもの。
由緒 縁起に云「三女神、姫御神あがめ奉るは人皇三十代敏達天皇の御宇巳卯歳初瀬の辺に毎夜ひかりものし人おそれて行通う者なし、午未に当り岩崛の別当と云、八百歳の翁いかなる神のとがめかなと祈りしにふしぎなるかな一、七日のあけぼのに白旗四流ふり下り十歳斗の稚子とげんじ、我淀姫なりと御声を放ちけすが如くに失せ給う、即此神を祭る〔中略…このあと応神天皇の出現譚がはいる〕
宇佐より楠一本大神左近頭源治仲、中上坊衛林法師御供にて参る此時一の締鉾立と名付、村上に御休息若宮八幡宮とあがめ奉る、此木宮の内巳寅方に植神木と名付夫より翁岩屋にこもりすがたなし、庚寅六月二日此時より初河瀬三社八幡宮をあがめ奉る寅卯に当り広瀬と申五町ばかりの地八月十五日御幸、御祈禱有〔後略〕

 正確な解読が困難な箇所もありますが、縁起の最初部分を要約しますと──、「三女神、姫御神」をまつる当社(初河瀬神社)は、敏達天皇時代に「初瀬の辺」(岩岳川の辺)に毎夜光り物があり人は恐れて行き通う者がなかった、そのとき、「八百歳の翁」である「岩崛の別当」がどのような神のとがめ(祟り)かと神の出現を祈禱・祈念していると七日目の明け方に、「白旗四流」とともに十歳ばかりの稚子が現れ、「我は淀姫なり」と告げるとたちまち姿を消した、それで、この神をまつったのだ──。
 淀姫神と「三女神、姫御神」の関係が明瞭に語られていないうらみがありますが、縁起は、初河瀬神社の祭祀の中心に淀姫神がいることを告げています。その後、宇佐の「大神左近頭源治仲、中上坊衛林法師」がやってきて、神木の「楠一本」を植えて「若宮八幡宮」とし、さらに「初河瀬三社八幡宮」と称したようです。縁起は、のちに「鬼木」と称される大楠が、初河瀬神社の神木として、宇佐の神職たちによって植えられたものであることを語っています。
 初河瀬神社という社号は、淀姫神を河瀬神、つまり、川神・水神とみなしたことによるもので、当然ながら、岩岳川の水源神とは共通する性格をもっていたとみなせます。淀姫神の出現に、求菩提山の「岩崛の別当」が伝説的な媒介となっていたことも示唆的です。
 いや、もう少しはっきりいっておくならば、『築上郡史』の編者が指摘するように、淀姫神は豊姫神のことで、「肥前川上大明神」と同体です。『郡史』は、この指摘以上のことを書いていませんけれども、肥前国から川上大明神を勧請した、その名も川上神社(河上大明神)が紀伊国にあり(和歌山県田辺市上秋津)、同社主祭神は瀬織津姫神とされます。
 岩岳川流域にまつられる貴船神と初河瀬神、そして、水源の求菩提山普賢窟に、同じ神の名がみられることはきわめて重要です。今は語られる機会を逸しているにしても、瀬織津姫神は岩岳川の守護神でもあったとみてよかろうとおもいます。
 現在、鬼木(大楠)の近くに、つまり、初河瀬神社の旧社地には、八幡宮の刻碑の下に、向かって左に貴船神、右に初河瀬神の石祠が並んで建立されています。この石碑的祠は求菩提山・犬ヶ岳と対面するように建てられていて、それぞれの祠内には「貴船大明神」・「初河瀬八幡大神」と刻まれています。両神が岩岳川の水源神と関わるばかりでなく、八幡祭祀とも深く縁ある神であることを、静かに、しかし雄弁に語りかけているようです。

1008◆鬼木─貴船(左)・初河瀬(右)
▲左:貴船大明神、右:初河瀬八幡大神
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