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那智大滝から音無滝へ──熊野の滝姫神を訪ねる

 瀬織津姫[せおりつひめ]という神は、かつては熊野本宮(証誠殿)の神、つまり熊野大神こと熊野本宮神であり、かつ、熊野地方の滝神・水霊神でもあったことは、菊池展明『円空と瀬織津姫』によってすでに考証されていることです。詳細は同書に譲るとして、ここでは、別資料等をつかって、熊野における瀬織津姫という滝神に光をあててみたいとおもいます。

熊野神社【富士山と陽光】

熊野神社【白糸の滝】
▲富士山・白糸の滝

 富士山の西麓に「白糸の滝」という観光名所がありますが、この滝神をまつるのが熊野神社で(富士宮市上井出)、同社祭神は瀬織津姫神(命)とされます。ほかにも、たとえば、岩手県陸前高田市の気仙川流域には、瀬織津姫神を熊野の滝神としてまつる社が複数あります(四十八滝神社・滝神社・清滝神社・大滝神社など)。熊野の修験者は、不動尊と瀬織津姫神を一体とみなして各地に伝えたものとみられます。
 こういった祭祀事例を熊野の「外部」にみることはまだ可能なのですが、では熊野の「内部」はどうなのかということが気になって、駆け足でしたが、探索行を試みたことがあります。
 熊野は滝の宝庫で、なかでも著名なのは「那智大滝」です。少し観光案内的になりますが、現在「那智大滝」がどのように紹介されているかを、『那智詣』(熊野那智大社)に読んでみます。

 那智山の奥山、大雲取[おおくもとり]山から流れ出る本流に、西側の舟見峠から出る西谷の流れなど、いくつもの流れが重なり合いながら、そして「那智四十八滝」といわれるほどの沢山の滝を奥深い山中に残しながら、遂には高さ一三三メートルの断崖をいっきに落下しているのが「那智大滝」であります。四十八滝中の「一の滝」であり、銚子口(滝の落ち口)の岩盤に三つの切れ目があって、「三筋の滝」ともよばれています。
 幅十三米の銚子口に注連縄[しめなわ]が張られているのをあおぎみることができますが、ここにおまつりしている大己貴命の御神体としてこのお滝をうやまいあがめているあかしであります。毎年七月九日と十二月二十七日の二回、古来から神事にのっとって「御滝注連縄張替行事」が行なわれます。〔中略〕
 お滝壺は、昔は広く深かったと伝えられていますが、落下する岩石のためだんだん狭くなり、深さも十メートル程です。

熊野那智【那智大滝─遠景】

熊野那智【那智大滝─飛瀧神社拝所から】
▲那智大滝

 一三三メートルの落差をもつ「那智大滝」はたしかに壮観です。しかし、かつての大滝の壮観さは現在の比ではなかったようです。文化九年(一八一二)から嘉永四年(一八五一)にかけて成った『紀伊国名所図会』は、「熊野編巻之二」に、次のような記事を載せています。

那智瀑布
三国(日本、震旦、天竺)無双の名瀑にして、扶桑に於ても独立絶対のものなり、長さ三十丈に余り、幅四丈二尺、宛然天漢[あまのがは]を注下するが如し、而して三段に落下す、就中一の瀧最も大なり、俗伝によれば神躰は大己貴命にして飛龍権現と称す、障壁の如く屹立せし二ツの大巌石の間を迸り落つ、其の昔は中程に突出でたる岩ありて落下の水勢はこれに激し、一層の美観なりしも、宝永の大地震に遭ひて惜むべし崩壊し、今は其影も止めずさながら筧の水の如く銚子口より直下するのみ、されど其の白く潔きこと吹雪の如くまた素練の如し、落ち口に二個の岩あり故に三線に分れて落つ、中程より以下に至れば岩を打ちて飛び散るさま恰も雲霧に異ならず、衣襟おのづから湿ふ、暑熱の候と雖も瀧の辺りに居る時は快き寒冷を覚ふ、而してまた熊野灘を行く船中に於ても遠く望むを得べく実に天下の壮観たり。

 わたしたちが現在目にしている「那智大滝」は、「宝永の大地震」によって滝の中程に突出した岩が崩落したあとの姿だということになります。「宝永の大地震」というのは、宝永四年(一七〇七)十月四日に「諸国に大地震」と記録されているそれかとおもいますが(『日本文化総合年表』岩波書店)、前年の九月十三日には「江戸大地震」とあり、宝永三年から四年にかけて、各地を大地震が襲ったようです。これら一連の大地震との関連でしょう、宝永四年の十一月二十三日には「富士山大噴火」とも記録されています。
 ところで、『那智詣』もそうでしたが、『紀伊国名所図会』は「俗伝によれば神躰は大己貴命にして飛龍権現と称す」と記しています。「飛龍権現」は「飛瀧[ひろう]権現」と記されるのが一般ですが、那智大滝の滝神を「大己貴命」とするのは江戸期以前にさかのぼるもののようです。
 瀬織津姫神が熊野の要所の祭祀から消えたのはかなり「古い」とみられますが、それでも、熊野三山(熊野三社)の周縁には、その痕跡をみることができます。
 文献資料ということで、たとえば「熊野那智山結宮並滝本年中行事」(『熊野市史』上巻、所収)には、次のような記載がみられます。

三月二十一日  川中の神供、瀬織津姫ノ神を祭る、那智山滝ノ上の中津瀬にてみそぎ祓いの式典あり。
九月十三日   滝本河中神供三膳
〔注〕 滝行者身体を滝壺に入り、析板[へぎいた]の上に海の幸、洗米、畑物、山の物、神酒を乗せて押し流す作法。日天秘法ともいう。弁才天供養、竜神祭ともいう。
 夏中水に不自由せぬ水神に御礼の行事。また水や滝に感謝し敬う大事な祭典。

 那智においては、瀬織津姫神は「弁才天」とも習合していたようですが、この弁才天供養(日天秘法、竜神祭とも)の神事は「夏中水に不自由せぬ水神に御礼の行事。また水や滝に感謝し敬う大事な祭典」という認識がありました。『那智詣』も「水や滝に感謝し敬う」気持ちを捨てていないようで、たとえばこんな記述が目にとまります。

 命の根源である水が豊富にあふれ落ちる「那智大滝」を、この地方に住む原住民の人々も神武天皇御東征以前からすでに神としてうやまっていたとも伝えられていますが、いずれにいたしましても古代からこの大滝を「神」としてあがめ、そこに、国づくりの神である「大己貴命」(大国主命)をまつり、また、親神さまである「夫須美神」(伊弉冉尊)をおまつりしていたのであります。

 また、『熊野那智大社の信仰と歴史の道』(熊野那智大社)においても、那智大滝の「水」への信仰がいわれています。

 水は生命の母であります。この水はすべてのものをはぐくみ育てゝくれます。この水の霊力、霊感によって或は開運、延命幸福を感受したのであり、取りわけ今もこのお滝に詣で「滝のしぶき」に触れ延命長寿を受けようとする人が絶えません。

 那智大滝の「水」への信仰は、古文書にあった「川中の神(河中神)」である「瀬織津姫ノ神」への崇敬ではなく「国づくりの神である「大己貴命」(大国主命)」へのそれだといいかえられています。
 瀬織津姫神の名は、ほかの古文書にもみることができます。成書年は不明ですが、「熊野那智神宮創建」(『神道体系』神社編四十三「熊野三山」、所収)には、この神をまつる神社があったことが記されています(〔 〕は割注)。

一ノ瀧下流〔紀伊国神名帳授従四位瀧姫神也〕 瀬織津比神社

 那智関連文書の複数に、瀬織津姫神の祭祀があったことが記されていますので、那智大社側に、文書にある「瀬織津比神社」の祭祀地、また、もし廃社となっているのならそれはいつのことかと問い合わせてみましたが、いずれも「不明」という回答を繰り返すばかりでした。
 上記引用中、瀬織津姫神は「紀伊国神名帳授従四位(上)瀧姫神也」とあり、この神は「熊野那智神宮創建」時、「瀧姫神」でもあったのでしょう。このことは、「嘉永六丑年出セル柿園詠草ト題セル和哥山諸王ノ那智瀧ノ歌ニ」という詞書きをもつ、次のような一首とも関連しているはずです(「熊野那智山〔古文書古書社記抜書古歌集并絵図〕」『神道体系』、所収)。

瀧姫ノ御衣ノ白妙幅ヒロミサクイカツチヤオモヒカケゝン

 那智大社側の応答はけっして誠意あるものではありませんでしたが、那智大滝の「瀧姫」は、瀬織津姫神とはいわない(いえない)ものの、「大己貴命」(大国主命)とすることで、暗に出雲大神でもあることを示唆していると受け取っておくことにします。
 なお、那智に伝わる古歌集には、漂泊の歌人・西行の歌も収録されています。

  月照瀧            西行法師
雲キユル那智ノタカ子ニ月タチテ光ヲヌケルタキノ白糸
(雲消ゆる那智の高嶺に月立ちて光を抜ける瀧の白糸)

身ニツモル詞ノ罪モアラハレテ心スミヌルミカサ子ノタキ
(身に積もる詞の罪も顕れて心澄みぬる三重ねの瀧)

 二首めの歌の「三重ねの瀧」は、一の滝・二の滝・三の滝をまとめていうときの名称ですが、西行が「身に積もる詞の罪も顕れて心澄みぬる」と詠うとき、この滝に「詞の罪」の浄化(禊ぎ)の働きを感得していた西行の思いが表れています。これは、那智の滝神が禊祓の神でもあることを熟知した(悟った)上での一首と読めます。

熊野那智【熊野那智大社─社頭】

熊野那智【熊野那智大社─拝殿】

熊野那智【熊野那智大社─社殿配置】

熊野那智【熊野那智大社─右端が瀧宮】
▲熊野那智大社

 かつて飛瀧権現とよばれた那智大滝の神は、熊野那智大社においては第一殿の瀧宮にまつられてもいます。『那智詣』は「第一殿(滝宮)は鎮守社で、第四殿(西御前)におまつりしている熊野夫須美大神・伊弉冉尊が当社の御主神」と、滝神とは微妙に異質な祭祀を展開していることを主張していますが、熊野那智信仰が「那智大滝」からはじまることはいうまでもありません。
 仁徳天皇時代、この大滝に最初「観音」を感得したのはインドから流れ着いた僧・裸形上人とされ、その後、推古天皇の時代に大和から生仏上人がやってきて入山すると、彼は裸形作の観音を胎内に納めて如意輪観世音を安置し創建したのが、那智大社の東に隣接している青岸渡寺(のちの西国第一番札所)とされます。この青岸渡寺の付帯塔である三重塔には、那智大滝神(飛瀧権現)の本地仏・千手観音や修験者にとっては大滝神と同体といってよい不動尊が移管され展示されています。

熊野那智【青岸渡寺─本堂】
▲青岸渡寺(本堂)

熊野那智【青岸渡寺─三重塔】
▲三重塔

熊野那智【三重塔─千手観音】
▲千手観音

熊野那智【三重塔─不動尊】
▲不動尊

熊野那智【三重塔─不動尊解説】
▲不動尊(解説)

 秘められた神を露わにいうことなく神仏混淆・権現信仰に終始してきたのが熊野信仰の魅力の一つですが、その垂迹神として「大己貴命」(大国主命)がまことしやかに語られることに、瀬織津姫という神が今も抱える無言の苦衷があるようです。
 ところで、那智大社境内には、藤原秀衡の手植えとされる山桜が「白山桜」の名で現在もみられます。秀衡の白山信仰については多くの識者が指摘するところですが、白山(信仰)の本源には、ここにも瀬織津姫神がいたことを添えておきます(『円空と瀬織津姫』下巻)。

熊野那智【熊野那智大社─白山桜】
▲藤原秀衡ゆかりの白山桜

 かつては「一ノ瀧(那智大滝)下流」に「瀬織津比神社」の社殿を有してまつられていた瀬織津姫神でした。しかもこの神は「熊野那智神宮創建」に「紀伊国神名帳授従四位(上)瀧姫神也」とも記されるように「瀧姫神」、つまり、滝姫・滝神とみられていました。しかし、この「瀧姫神」の祭祀は那智ばかりでなく、熊野本宮においても拾うことができます。

熊野本宮【熊野本宮大社─社頭】

熊野本宮【熊野本宮大社─由緒】

熊野本宮【熊野本宮大社─楼門】

熊野本宮【熊野本宮大社─結宮・本宮・若宮】
▲熊野本宮大社

 篠原四郎『熊野大社』には熊野本宮大社の「境内の摂末社」が列挙されていて、そのなかに、「滝姫社」の名があります。しかし、祭神欄における滝姫社の項は空白となっていて、この空白は「祭神不詳」を一応いいたいのかもしれません。篠原氏は本の発刊時(昭和四十四年)、「熊野那智大社宮司」で、自社史料「熊野那智神宮創建」に目を通す機会はあったのではないかとおもわれますが、「瀧姫神」はなぜか空白のまま放置されています。
『熊野大社』が本宮の境内というときの「本宮」は、現在の社地に移転する前の、いわば元社地にあった本宮をいいます。『参拝の栞』(熊野本宮大社)は、本宮の「社地の移転」について、次のように書いています。

 太古より熊野牟婁郡音無里[おとなしのさと](本宮町本宮)大斎原[おおゆのはら]に鎮りましたが明治二十二年熊野川未曾有の大洪水の際、上中下各四社の内上四社を除く外非常なる災害を蒙り、明治二十四年三月現地に遷しまつり、従来の地を別社地と称し、其所に仮に石祠二殿を造営し、西方に中四社下四社、東方に本境内摂末社を合祀申上げて居ります。

熊野本宮【熊野本宮大社─大斎原─大鳥居と森】

熊野本宮【大斎原─西殿・東殿(摂末社)】

熊野本宮【大斎原─説明Ⅰ】

熊野本宮【大斎原─説明Ⅱ】
▲大斎原(熊野本宮旧社地)

 中古以降、熊野十二社権現とも呼ばれてきた「熊野権現」でしたが、明治二十四年に新社地に遷ったのは筆頭の四社「上四社」のみで、残りの八社にあたる「中四社下四社」、および「境内摂末社」は、東西の石祠に合祀されて旧社地(大斎原)に分離祭祀がなされているというのが、現在の熊野本宮大社の姿です。
 滝姫社は「境内摂末社」の一社ですが、現地の案内には「他」に含まれているようで、これでは大斎原に滝姫社がまつられていることなどだれも気づかないでしょう。
 しかし、『熊野大社』では不明とされるも、『参拝の栞』には、本宮の「摂末社十三社」の一覧表が掲載されていて、そこには滝姫社の名がみられます。『栞』の記載は、次のようになっています。

滝姫神社  湍津姫命[みづつひめのみこと]

 滝姫神は宗像三女神の中心神である「湍津姫[たぎつひめ]命」に変更され、しかし、訓みは「みづつひめのみこと」とあります。こういった異称の訓みを付すというのは、熊野の滝姫神と宗像のそれとは別神だと暗にいいたいのかもしれませんが、瀬織津姫神が「湍津姫命」と置き換わって祭神表示されるのは、たとえば、滋賀県野洲市比江に鎮座する長澤神社や鹿児島県出水市に鎮座する厳島神社にみられることです。また、岩手県八幡平市荒屋新町に鎮座する桜松神社は、公的な場面では「滝津姫命」と表示されるも(『岩手県神社名鑑』)、現場では「瀬織津姫命」としてまつられているといった例もあります。
 本宮大社の『参拝の栞』が滝姫神を瀬織津姫神ではなく「湍津姫命」と表示する史料根拠は、おそらく「熊野那智神宮創建」かとおもいます。そこには、那智大滝(一ノ瀧)下流における瀬織津姫祭祀を記すだけでなく、「本宮御鎮座」分として、さらに「又後」として、二つの「瀧姫社」の記述があります。

「本宮御鎮座」分
瀧姫社  瀬織津姫命
「又後」
瀧姫社  多岐都比売命

 多岐都比売命は『古事記』における表記で、『参拝の栞』の湍津姫命は『日本書紀』のそれですが、こういった史料をみますと、「みづつひめのみこと」という訓みにはかなり無理があることは明白です。
 なお、瀬織津姫神が熊野の滝姫神であったことは、他史料でも、たとえば「熊野那智神宮創艸畧記并熊野年代記」では「瀧姫ノ社 瀬織津姫命」、「熊野神廟記」では「瀧姫社  瀬織[ママ]姫[セヲリツヒメノ]命」とみえ(以上、『神道体系』神社編四十三「熊野三山」、所収)、これほど複数の史料が証言しているにもかかわらず、滝姫神を空白(不詳)としたり、多岐都比売命(湍津姫命)という宗像神に置換して瀬織津姫神に関する注記の一つもないというところに、熊野における、文字通りの「暗さ」が表れているといえそうです。ちなみに、瀬織津姫神は現在の本宮においては「祓戸大神」の石碑となったり、境内社「満山社」に「祓いの神」という名でまつられているようです。

熊野本宮【熊野本宮大社境内─祓戸大神】
▲祓戸大神の石碑

熊野本宮【熊野本宮大社─満山社】
▲満山社

熊野本宮【熊野本宮大社─社殿祭神─満山社】
▲満山社は「祓いの神」をまつる

 熊野本宮神(上四社、第三殿=証誠殿の神)、つまり、熊野大神としての瀬織津姫神がいたことを考証していた『円空と瀬織津姫』には、次のような記述もあります。

鳥井源之丞『熊野道中記』(享保七年)に、熊野参詣の途次、「瀬織津姫社」に立ち寄った記録がある。鳥井は、この瀬織津姫社は「社なし榊一本あり本宮より四町西にあり本宮末社也」と書いていて、瀬織津姫という神が、榊神、あるいは榊に憑依する神であることをよく伝えている。

 享保七年(一七二二)の時点、熊野本宮より「四町西」に「瀬織津姫社」があったとのことです。当時の一町は現在の約一〇九メートルで、四町とは約四三六メートルとなります。享保七年時点、すでに「社なし榊一本あり」と書かれていますので、これは、瀬織津姫神の社殿祭祀が消去されてゆく過渡の記録といえるかもしれません。
 また、似たような記録は、幕末に成る『紀伊国名所図会』(熊野編巻之二)にもあります。

瀧姫社  祭神は瀬織津姫命、小森村にあり
本国神名帳に云、従四位上瀧姫神、旧は本宮の乾、音無瀧の下に在り、今は社なくしてたゞ榊一株あるのみなり。

 熊野本宮は、「太古より熊野牟婁郡音無里[おとなしのさと](本宮町本宮)大斎原[おおゆのはら]に鎮りました」とされ、その「音無里」には音無川が流れ、この川の「音無瀧」の滝姫神としても「瀬織津姫命」はまつられていました。もっとも、ここも「今は社なくしてたゞ榊一株あるのみ」とあり、先の「瀬織津姫社」と同社かと一見おもえますが、よく読みますと、この「瀧姫社」は、「本宮の乾(北西)」「小森村にあり」とありますので、『熊野道中記』が記す「瀬織津姫社」とは別の祭祀だったようです。
『紀伊国名所図会』からは一五〇年ほど経っていますが、今はたとえ社はなくとも「音無瀧」は存在するだろうと訪ねてみました。
 しかし、「音無瀧」はすでに地元の人も知らない滝らしく、「幻の滝」だという人さえいます。手掛かりは「小森村にあり」だけです。天保十年(一八三九)に成る『紀伊続風土記』(巻之八十五)には、次のような記述もみられます。

○紅葉瀧  大谷瀧
小名小森領音無川筋にありしに本宮炎焼の年山崩れて今はなし

 かつての熊野本宮は音無川と熊野川(と岩田川)の合流部の中州(島)にありましたが、熊野本宮にとって、音無川はとても重要な川で、この認識は、北の大地(北海道)の駒ヶ岳の神をまつる内浦神社(砂原町)における駒形大神に奉納された歌にもよく表れていました。これも『円空と瀬織津姫』(上巻)が記すところです。

 内浦神社神官奉納の棟札にも「熊野路の音無川に水増して悪魔を流しくにを守らん」の一首が記されていて(『砂原町史』第二巻)、駒ヶ岳の神は、その神の原郷を熊野にみてよいのかもしれない。〔中略〕
 歌にある「音無川」は、熊野詣でにおける、俗界と熊野の霊地の境界の川であり、また禊の川でもあった。「熊野路」を歩いてきた参詣者は、この川で禊ぎをすることで、熊野本宮という絶対霊地に入ることができたのである。この歌には、内浦岳=駒ヶ岳の神が熊野の禊祓いの神であることが的確に詠みこまれている。

 ここに出てくる「駒ヶ岳の神」は瀬織津姫神のことですが、この神は熊野の地では音無川の川神・滝神としてありました。また「熊野三山年中行事」(『熊野大社』所収)の熊野本宮の項には、「六月晦日 大祓(音無川名越大祓)」とあり、瀬織津姫神は禊祓神としてもありました。この神が「熊野路の音無川に水増して悪魔を流しくにを守らん」と詠まれていることは重要です。
 さて、「音無瀧」ですが、この滝の現在を確かめるには本宮の乾(北西)にある「小森村」(本宮町小森地区)へ出向くしかないということで、中辺路を沿うように山間の細道を車で登っていきました。
「音無瀧」は音無川本流の滝で、小森地区にある(あった)というのが唯一の手掛かりでしたが、小森の住人のだれ一人、この滝名を聞いたことがないということでした。しかし、そのうちの一人が趣味でアマゴを滝壺に釣りに行くということで、小森の音無川の滝ならばそこしかないだろうとのことです。しかし、そこへ行くには陸路はなく、川を遡行するしか行けないところだとのことで、その用意はあるかと心配されもしましたが、ここまで訪ねてきて途中で引き返すわけにはいかないなということで、久しぶりの川歩きとなりました。
 最初は膝下くらいの緩やかな幅広い流れでしたが、四~五〇〇メートルほど遡上すると、大岩がごろごろと散乱する異様な景色となり、川幅が狭まってきます。大岩に隠れていてみえませんでしたが、先のほうでなにやら滝の音がかすかにしてきました。水かさは腰のあたりまできていましたが、大岩の横から覗くと、そこにはまさに「音無し」の静寂な滝がありました。崩落等で昔日の面影はないのかもしれませんが、小森地区の音無川本流の滝はここしかありませんから、たとえ本宮町の地元の人が「幻の滝」といおうとも、これが「音無瀧」であることを確信しました。

熊野本宮【音無川─音無の滝Ⅰ】

熊野本宮【音無川─音無の滝Ⅱ】
▲音無瀧

「音無瀧」の探索紀行のような話になりましたが、わたしがこの滝に強い関心をもったのは、実は、出雲国の熊野山(現在の天狗山)にも、同名の滝があるからです。
 宝暦十四年(一七六四)二月の日付をもつ「熊野大社并ニ村中諸末社荒神指出帳」は、幕府(→松江藩)の命によって出雲国意宇郡熊野村の祭祀を詳細に調べて提出したものですが、ここに音無滝の記述があります(『神道体系』神社編三十六「出雲・石見・隠岐国」、所収)。同「指出帳」は「出雲国比婆山熊野大社」(熊野大社内では、風土記時代の「熊野山」は「比婆山」とされていた)には「十一末社」があり、五合滝神社(祭神:立彦霊神)を記したあとに、次のような瀬織津姫祭祀の記録がみられます。

音無滝神社〔則比婆山ノ麓ニ有リ。亦ハ白滝トモ、シラヌタキトモ云。祭日九月八日、〕
 所祭神 瀬織津姫命
右之社、滝坪(壺)之右、山之内ニ御座候得共、大破仕、唯今ハ社跡斗御座候。川上ニ此音無滝在故、熊野川ノ流ヲ音無川ト申候。〔後略〕

 出雲国の熊野山の音無滝神社は、これも今は社がないようです。しかし、出雲と熊野双方に、瀬織津姫神の祭祀がかつてあったこと、このことを証言する記録があることは重要です。
 熊野本宮大社宮司・九鬼家隆(「鬼」の字は田の上のツノ(`)がないのが正字)『熊野信仰について』(熊野本宮大社)は、出雲国と紀伊国の出雲神祭祀の共通性について、「偶然の一致とみた方がよい」、「熊野は熊野として、出雲と直接の関係などなく、独自に発達して来た地とみるのがよい」としていますが、篠原四郎『熊野大社』は、「出雲の神と熊野の関係は、今一度考えなくてはならない」と指摘しています。むろん、後者の指摘を、わたしは是とするものです。
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