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求菩提山・犬ヶ岳──生きている鬼神伝承

求菩提山
▲求菩提山

 八幡大神も大山積大神も、その祭祀には秦氏系氏族が深く関わっています。前者には秦氏系辛島氏、後者には徐福系秦氏ともいえる越智氏がいますが、越智─河野氏の家伝書(『水里玄義』)をみますと、その祖を「内伝」では秦徐福、「外伝」では神饒速日命としていて、二つの祖が同時に語られていて貴重です。これは、徐福系秦氏は、物部氏を構成していく可能性があることを告げています。
 なお、五世紀頃から渡来してくる加羅・新羅系秦氏がいて(大和岩雄『秦氏の研究』)、秦氏は、少なくとも二度の渡来のもとに渾然一体となって列島民化していくと考えられます。
 徐福の故国である斉[せい]は海人族の国家でもあり、新羅にしても海人族の国家といえますから、九州を中心とする古代倭国の海人族とは、いわば「親戚」みたいなものです。扶余族が支配層をなしていた百済・高句麗を滅ぼしたのが新羅ですが、この滅亡によって百済・高句麗の支配層は倭国に亡命してきて、倭国の支配層を補完あるいは構成しますから、『日本書紀』の創作史観のなかに「新羅憎し」の情念が込められることにもなります。『日本書紀』に端を発する反新羅観は、その後の社寺の縁起などで反復・増幅されていき、これはのちのちの差別・被差別問題にまで影を落としています。
 列島内では、「新羅」は禁忌語とみなされたかのようで、秦氏あるいは新羅系渡来民の居住地の地名・山名では新羅が「白木」と変更表示されるケースも多く、ひどいときは「白鬼」などと表示されることにもなります。
 出羽弘明『新羅の神々と古代日本』は、新羅の地名変遷の例を、以下のように紹介しています。

全国に多く存在している白木という地名のほとんどは、古代に新羅であったものの転訛である。したがって古くは新羅人の居住区であった。北は岩手県から福井県、石川県、三重県、大阪府、広島県、福岡県、熊本県など広く見られる。地名の変遷の一例として、福井県今庄町がある。『福井県南条郡誌』によれば、この地域は元々新羅系の人々が居住して地名も新羅と称されていたが、新羅→白城→今城→今庄と変わってきたという。また町を流れる「日野川」もかつては、「新羅川」、「信露貴川」あるいは「叔羅[しらき]川」と呼ばれたが、次第に「白鬼女川」、「白姫[しらき]川」などと表記が変わってきたという。埼玉県和光市や新座市にも同様なことが見られる。武蔵国に「新羅郡」が設置されたのは天平宝字二年(七五八)であるが、その後平安時代に「新座郡」に改めその後、「爾以久良[にいくら]郡」、「新座郷」、「新倉郷」、「志木郷」、「白子郷」などと変化してきた。現在の和光市にある白子川もかつては新羅川であった。これらの地名の変化は当然、神社名にも反映されている。

 福井県今庄町の日野川の川名変遷で、そこに「白鬼女川」「白姫[しらき]川」と女性名がみられるのは、川・水を司る白山の比神の信仰が投影されているゆえとみられます。白山が秦[はた]の泰澄によって「開山」されたのは養老元年(七一七)のことで、もしこの山の比神が「鬼女」神とみなされるとすれば、それは、皇祖神を列島の神まつりの中心に据えようとする朝廷の祭祀思想と、おそらく互角以上に対峙できる神威をもった神が白山の本源にはいたからなのでしょう。泰澄が秦氏(加羅・新羅系渡来民の末裔)であることをおもえば、彼が「鎮護国家法師」の名のもとに、つまり朝廷の意向によって白山本源の比神を十一面観音で封じたものの、彼の内心の苦衷は、美濃国・須原白山神社(須原神社)における、泰澄一人による比神(「秘榊の神」)の異様ともいえる十一月深夜の手厚い祭祀に表れています(菊池展明『円空と瀬織津姫』下巻)。
 出羽氏は、渡来系あるいは新羅系の神社祭祀にみられる受難について、次のように書いています。

 渡来系の神社とそれを祭る人々は、古代から現代までの千数百年の間に、神祇制度や祭政一致の政治、社会情勢によりさまざまな制約を受けてきた。
 新羅神社の呼称は「しんら」と「しらぎ」が混在しており、表記や発音も「白城」、「白木」、「白鬼」、「信露貴」、「志木」、「白井」、「白石」、「白鬚」、「白子」、「白浜」、「白磯」などと変化している。中には渡来系の神社であることを社号から全く消し「気多[けた]」「気比[けひ]」「出石[いずし]」などと呼ばれている神社もある。祭神についても同じことが言える。当初の神を抹消したり加神したりしている。また『記紀』の神話の神を同座させる操作も行なわれてきた。社号も祭神も共に変えたり、他の神社に合祀したものなどさまざまである。さらに、過去の記録では所在が確認されるが現在の存在は不明のものもある。

 ここで誤解のないように添えておきたいのは、日本の神社の全体からいって「渡来系の神社」はけっして少数派ではなかったということです。もっと正確にいえば、ほとんどが「渡来系の神社」だったといってもよく、にもかかわらず、日本固有の神まつりが別に存在していた印象をもたされるのは、それは、いつの時点かはさまざまですが、共通するのは、記紀神話に基づいた祭祀変更、つまり「日本化」がそこにあるからです。これは、出羽氏のことばでいえば「神祇制度や祭政一致の政治」に準じたもので、日本神話に登場してくる神をまつっているから日本固有の神社だというのは、とてつもない錯覚でしょう。
 少し乱暴にみえる物言いかもしれませんが、この「錯覚」の端的な一例を挙げれば、記紀神話のヒエラルキーの頂点に立つ皇祖神・アマテラスの祭祀は「神代」からのものではなく、具体的には、大濱八幡大神社の由緒がさりげなく主張していたように、天智天皇の時代にはまだ存在しなかったものです。
 七世紀末から八世紀初頭、天皇を中心とする日本の統一国家構想を本気で考えていた人物を一人挙げるならば、それは藤原不比等をおいてないでしょう。不比等の構想を具体化する人物として、本人を筆頭に、武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四人の子がいて、持統・元明・元正といった女帝たちが不比等の構想の実現を補佐するように存在しています。天平九年(七三七)に筑紫から東進した疱瘡(天然痘)の猛威によって全員が亡くなるとはいえ、武智麻呂は南家、房前は北家、宇合は式家、麻呂は京家の祖として、彼らの末裔は、いわゆる藤原四家のかたちで朝廷政治に深く関わっていきます。
 この不比等時代にあたりますが、『続日本紀』慶雲三年(七〇六)二月二十六日条には、各地の神社名を記録した『神祇官記』の存在が記されていて、これは、のちの『延喜式』神名帳の原型となるものです。『神祇官記』(斎部広成『古語拾遺』では「神帳」と記される)は、前世紀の末には伊勢に皇祖神をまつる神宮の創祀があり、大宝元年(七〇一)には大宝律令の制定がなされ、それなりに天皇制律令国家の体裁が整いつつある時代の産物です。『神祇官記』の内容詳細は不明であるものの、朝廷の役所(神祇官)が各地の神社祭祀を掌握するということは、各地豪族の朝廷支配への服属を伴っていたはずで、「王政復古」の名のもとに、全国の神社統制がなされた明治期の神祇施政は参考になりましょう。単なる神社の記録には収まらない意味を含んでいるのが『神祇官記』の存在です。
 しかし、朝廷の権力支配を拒む者は、新羅系渡来民か否かは別として、すべて「鬼」とみなされ、こういった朝廷支配に抵抗した者たち(鬼)が信奉していた神は「鬼神」とみなされることになります。その意味で、百済・高句麗系の朝廷支配層にとっては、「新羅」という語は、シンボリックな敵対的記号の意味を含んでいたといえるかもしれません。
 美濃国に、白山(別山)と共通する信仰をもつ、いわば「里山」、あるいは「遙拝」の山といってよい高賀[こうか]山があります。この山には「鬼神」がいるとして、藤原氏による討伐譚を語る縁起書が高賀神社に伝えられています。白山の祭祀が「開山」の名のもとに「改竄」された翌年の養老二年(七一八)、藤原広光による鬼神討伐がなされたとして、それを自社創祀と結びつけた縁起書が「粥川山虚空蔵縁起」です。縁起では、藤原広光は藤原宇合の嫡子とされ、しかし、宇合の嫡子ならば広嗣となり、そのあたりは少し怪しいのですが、鬼神討伐譚のあとに添えられた藤原広光の二首の歌がふるっています。

天下あらん限りは君が代に魔性変毛(化)すみ所なし
またも世にいてはかくそと思い知れ我が大君の代々はつきせし

 最初の一首は、「君が代」(天皇の代)に「魔性変化」(鬼神)の住む所はない、二首めは、また世に出てきたら、このように討伐されることを思い知れ、「我が大君」(天皇)の代々は永遠だといった内容です。
 高賀山には「君が代」「大君の代々」を受け入れない民がいて、それを討伐したというのが実態でしょうが、その民が信奉した神が、ここでは「魔性変化」(鬼神)とみなされています。江戸時代初期の修験僧・円空(一六三二~一六九五)は、この高賀山から全国の地神供養の彫像行脚の旅に出立しますが、彼は晩年、高賀山へもどってきて、高賀山の「鬼神」(地神)擁護のためにオリジナルの縁起書を創作してもいます(「粥川鵼縁起神祇大事」)。高賀山で「鬼神」とみなされた神は、神仏習合によって仏の背後に封印された白山の本源神と同体でしたから、円空の白山本源神への信奉とこだわりは半端ではありませんでした(『円空と瀬織津姫』上巻)。
 白山の本源神は、秦の泰澄によっても大切におもわれていた神で、高賀山から白山にまで信仰視野を広げてみるならば、そこには、新羅と縁深い神の存在がみえてきます。
 ところで、鎌倉時代末期に成るとみられる『宗像大菩薩御縁起』には、宗像大神に奉仕する「七戸大宮司」の名として、宗像滋光・物部福實・秦遠範・鳥取貞與・伴宮忠・蜂田種生・三家(宅…異本)国連と七人の名がみられます。この「七戸大宮司」の制がいつからのことか、また「大宮司」個々の関係は不明であるものの、宗像氏の単独祭祀ではなく、物部氏や秦氏も「大宮司」として宗像大神の祭祀に関わっていたことには注意がいきます。宗像大神は八幡神の初源祭祀に認められる比売大神と同体であり、それに京都の松尾大社・木嶋坐天照御魂神社(蚕養神社)や大三島の大山祇神社などを加えれば、列島における広範囲の神まつりに、秦氏あるいは秦・物部系氏族が関与していた可能性は認めざるをえないようです。
 ただし、朝廷の支配層の一翼を担う秦氏や物部氏がいた一方で、朝廷政治の圏外にいて活動した秦氏や物部氏もいたはずです。後者が、ときに朝廷支配に叛旗をひるがえすことがあったとしても、それなりの力量や民からの信奉、また信仰信条をもともともっていたはずですから、そういった行動にたとえ踏み切ったとしても不思議ではありません。
 七世紀初頭、豊前国には「秦王国」があったことを記していたのは『隋書』倭国伝でしたが、この秦王国の霊山に、香春[かわら]岳や彦山(英彦[ひこ]山と改称されるのは享保十四年〔一七二九〕のこと)、求菩提[くぼて]山があります。彦山と求菩提山の山中には、なぜか共通して鬼神社がまつられています。その由緒が比較的たどりやすいのは求菩提山の鬼神社ですが、それにしても、求菩提山の信仰全体に「鬼神」をみようとするには、少し複雑なプロセスを経る必要がありそうです。
 以下は、求菩提山信仰と鬼神についての新たな理解の試みとなります。
     *
 求菩提山信仰に関して、地元の伝承をもっとも詳しく拾い出し、また出土物などから歴史科学的な考察を加えているのが、重松敏美『豊求菩提山修験文化攷』(豊前市教育委員会)と『山伏まんだら』(NHKブックス)です。
 求菩提山が修験の霊山であることはいうまでもないのですが、この山がほかの修験の山と著しく異なっているのは、その背後(南)に犬ヶ岳の高峰があるにもかかわらず、この山を修験の霊場としていないことが挙げられます。『文化攷』は、「奥に一きわ高い犬ヶ岳(一一三〇)があり、手前に求菩提山(七八二)がそびえている。求菩提山は、犬ヶ岳を仰ぎ見る位置にある」と、その自然立地の説明をし、伝承面における両山のちがいを、次のように書いています。

 伝承的にみると、犬ヶ岳は山の神、鬼と結びつけられている。求菩提山は、二次的なものといえる。たとえば、縁起にも、求菩提山より前に犬ヶ岳に天神地祇を祀ったとある。そして、求菩提山に神が降臨している。開山伝承では、鬼が基本になっており、その鬼は犬ヶ岳に住んでいた。それを、法力で鎮めたのが覚魔(覚磨…引用者)である。村人の山の神崇拝は、むしろ求菩提山より犬ヶ岳に結びついている。覚魔は求菩提に登って祈るとあるが、犬ヶ岳を神聖化したものなのか、犬ヶ岳には登ったと伝えられていない、などである。

 犬ヶ岳の当初が禁足の絶対霊山であったことが伝わってきますが、これは、どうやら「鬼」の存在と関わりがあるようです。『文化攷』は「犬ヶ岳が神の山、求菩提山がそれを拝した山であろう」と推定していて、求菩提山は犬ヶ岳の遙拝山、つまり、犬ヶ岳は、求菩提山の奥宮的聖山とみなされているようです。『文化攷』には春・秋の「峯入りコース」の図が収録されていますが、それをみますと、いずれのコースも犬ヶ岳を周回するように回峯するだけで、犬ヶ岳そのものへの「峯入り」を避けています。犬ヶ岳は、絶対的な「神の山」という指摘は、たしかにおもわれます。
 山麓の民が畏怖の信仰感情で仰ぐどんな霊山でも、修験者は登攀・入山してそこに神仏をまつるというのが一般的イメージで、その修験者も入山をはばかるらしい犬ヶ岳とはただならぬ山というしかありません。絶対的な「神の山」は踏み込むことなく遙拝するものというのは、あるいは新羅的山岳信仰の表れというべきかもしれませんが、それにしても、この山の神が「鬼神」とみなされているには、それだけの理由がなくてはなりません。
 犬ヶ岳が、語られることを禁忌とする山であったらしいことは、この山を水源とする川の名称にも表れています。『文化攷』は、次のように書いています。

 水は、山に湧き、里に流れて、人々の生活があった。山は、水の神であるわけである。里に流れれば田の神である。〔中略〕
 現在、豊前市に流れている川を岩岳川と呼んでいる。本来、水源は犬ヶ岳であるが、これを犬ヶ岳川と言わない。岩岳川の呼び名は、求菩提山から起こっている。求菩提山名は、寺号の上につく山号の名前であって、求菩提山のことを地形名では、岩岳山と古くよんでいる。岩岳川の名はここから発している。

 岩岳川の水源は犬ヶ岳であるにもかかわらず「これを犬ヶ岳川と言わない」、川名は、遙拝山である求菩提山の地形名「岩岳山」にちなむという指摘です。
 以上の諸例からみえてくるのは、求菩提山信仰とはいいつつも、その奥・深山の犬ヶ岳信仰にこそ重大な意味が隠されているようです。岩岳川の水源神の祭祀にしても、犬ヶ岳を代替するように、求菩提山中に新たに設定されることになります。もっとも、この代替設定に耐えうる聖域が求菩提山にはたしかにあったようで、『文化攷』は次のように書いています。

 岩壁に神仏を現[うつ]したものの中に、普賢窟がある。多聞窟もそうであるが、この普賢窟のことを、三昧耶形[さんまやぎょう]とある。その意は他の器物で仏を象徴するかたちをいい、女陰の形をする岩壁の亀裂をさし、聖体化している。これを胎蔵窟ともいっている。
 この亀裂の中に地下水が湧き、流れている。眼には見えないが、その音は不可思議かのように響き、これを普賢三昧耶の梵音と称している。
 岩岳川の水の源はここにあって、水分神を祀ってあった。江戸期まで盛んに水神祭が行なわれている。

 普賢窟(胎蔵窟)は求菩提山五窟のうちの第二窟ですが、この窟が五窟のなかでも特別であったらしいことは、岩岳川の水源に見立てられていることに加え、平安期末の「銅板法華経」(国宝)がこの窟にのみ奉納されていたことにもうかがえます。『山伏まんだら』の説明を読んでみます。

 第二窟の胎蔵窟には、銅板法華経が埋納されていた。銅板経には法華経が刻まれ、法華経守護のため普賢菩薩が安置され、普賢窟の名はこのことからの名である。
 洞窟といっても洞穴[ほらあな]が大きくあるわけではない。岩壁に大きく亀裂した割れ目を洞窟とみなし、この割れ目に銅板経を埋納していたのである。割れ目は、母の胎内を想定してのことであろう。また、いつか生み出してくれることを、逆に祈ったのかも知れない。

0102◆求菩提山【普賢窟─祠と割れ目】 126
▲普賢窟と小堂

 現代の感覚からすると、いささかなまめかしいイメージではありますが、この窟の奥の「水」は岩岳川の水源でもあり、ここには求菩提山修験・山伏が抱く独特の世界観の投影があるとはいえそうです。
 ところで、この「銅板法華経」をここに奉納したのは、求菩提山中興の祖とされる厳[らいげん]上人でした。彼は、八幡祭祀に深く関わっている辛島氏の出身とされます。また、比叡山において、皇円(阿闍梨皇円)に学んだ篤学の人のようです(『山伏まんだら』)。いわば秦氏系の出自をもつ厳が、さらに皇円から教えを受けていたというのは、示唆することが多いです。普賢窟(胎蔵窟)は岩岳川の水源とみなされ、法華経守護を期待された神は、窟背後の水源神でもありましょう。普賢窟(胎蔵窟)には「水分神」がまつられ「水神祭」がさかんにおこなわれていたとありましたが、ここには、皇円ともゆかり深い神の名が記録されてもいます(後述)。
 このように、犬ヶ岳の遙拝山である求菩提山に、変遷はあるにしても聖域や祭祀施設が整備され、つまり、信仰の可視的形態が賑わうほどに、犬ヶ岳の存在感は一見希薄になっていきます。しかし、求菩提山が犬ヶ岳を忘却したわけでないことは、求菩提山中に犬ヶ岳の霊神をまつる鬼神社(明治期の前は「鬼神殿」)の存在にみることができます。

0103◆【求菩提山─国玉神社中宮─鬼神社】 068
▲鬼神社(鬼神殿)

 犬ヶ岳の鬼神とは何かはやはり気になるところです。試みに、『福岡県神社誌』をみてみますと、明治期に求菩提山中の「護国寺」が神社に転じたものが国玉神社なのですが、その境内社として鬼神社の名がみられるものの、祭神についての記載はありません。こういう場合は、地元の郷土史誌を洗うしかありません。
 求菩提山の神社祭祀に比較的多くのことばを費やしているのは、『築上郡史』下巻でしょうか。本書によれば、鬼神社の祭神は「大山祇神」ほか十柱の神々(神名省略)とされます。『郡史』は「明治の初年各所の小祠を合祀したので、かくも祭神が多い」と注していて、これらの合祀神を除けば、筆頭に記された大山祇神が鬼神社の主祭神です。ここでの大山祇神は、単純に「山の神」の意で選ばれた神名か、大山祇神を鬼神とみなす認識があったゆえに選択された神名かはわかりませんが、もし大山祇神を鬼神とみなすことに理があるとするならば、そこには、多くの考証が必要となることはいうまでもありません。
 日本の山神の母胎神ともいえる大山祇という神は、記紀神話自体が錯綜・矛盾を露呈していて、それを論ずるには、本稿での「鬼神」考から大きく迂回することになりますから、求菩提山で鬼神が大山祇神とみなされているのは、一応「方便」の神名表示として、ここでは無視することにします。
 求菩提山には、いずれも江戸期のものですが、『求菩提山縁起』・『求菩提山来歴略記』・『求菩提山雑記』の三つの縁起書が伝えられています。内容は大同小異というべきか、『築上郡史』下巻は、鬼神社の由緒説明に『求菩提山雑記』曰くとして、鬼神社由緒を引用しています(適宜句読点を補足して引用。文中〔 〕は割注を示す)。

鬼神社 本社〔四間四面西向也〕養老年中、行善和尚、此堂に五大尊明王を拝殿に安置す。故に五大尊堂ともいえり。鬼神は継体天皇の御宇、猛覚磨卜仙、異奴嶽の霊を甕尾に鎮め其霊を爰に祭る。此神は深秘の尊体にして、毎年正月八日丑の刻修法の時、千日入行の高壱人の外顕に拝する事なし。三宝荒神と同体にて霊徳不思議、勝て数へがたし。殊には武運兵道の守護神として衆人渇仰する所なり。

 犬ヶ岳は、ここでは「異奴嶽」と表記されています。その「異奴嶽の霊」が「鬼神」であり、さらに「此神は深秘の尊体」だとあります。また「三宝荒神と同体」だとあります。犬ヶ岳=異奴嶽の霊神がなぜ鬼神とみなされるのかが具体的に書かれていないものの、この神を忌避するのではなく、どうやら畏怖しつつも崇敬の対象とみているようです。
 三宝荒神と「同体」とされることについては、そもそも三宝荒神とは何かが諸説あって明確な定義を欠く怨みがあります。江戸期にまで下ると民間伝承神のカマド神と同体とみなされますが、その原像的な解釈をいえば、三宝は仏・法・僧のことで、この仏・法・僧を守護する「荒神」ということになります。そもそも縁起の作者は仏教徒といえますから、仏教に帰依して守護神と転じた犬ヶ岳=異奴嶽の神、しかも荒魂的な別格の神威をもった神を、ここでは「鬼神」と呼んでいると理解しておきます。
 なお、鬼神社は神仏習合時代には鬼神殿と呼ばれていましたが、その拝殿には「五大尊明王」を安置したため「五大尊堂」とも呼ばれたとあります。この五大尊明王とは、不動明王を中心とし、その眷属四明王(東方降三世、南方軍荼利、西方大威徳、北方金剛夜叉)の五つの明王をいったもので、宮城県松島の「五大堂」がよく知られます。求菩提山においては、拝殿の不動明王を拝むことが、本殿=鬼神殿の異奴嶽の霊神を拝むという信仰ラインをつくっていたことになります。この霊神が鬼神と呼ばれるも、それが「深秘の尊体」とみなされていたことはやはり重要におもわれます。
 求菩提山における行事のなかで鬼神祭祀が特別だったことは、神仏習合時代の「鬼会[おにえ]」にみることができます。先の引用では、継体天皇時代のこととして、「猛覚磨卜仙、異奴嶽の霊を甕尾に鎮め其霊を爰に祭る。此神は深秘の尊体にして、毎年正月八日丑の刻修法の時、千日入行の高壱人の外顕に拝する事なし」と書かれていましたが、「異奴嶽の霊」(鬼神)の封印が鬼会のルーツのようです。重松敏美『山伏まんだら』は、鬼会という神秘的行事をより具体的に、次のように説明しています。

 八日(正月八日…引用者)の鬼会をみてみよう。鬼会は七日の夜から、そして八日の丑三つ刻が行事の最高潮に達した時刻で、この時、鬼神殿[おにがみでん]に鬼の霊を封じてある深秘の壺を、千日行者が次の千日行者に壺の封を切って中の鬼神霊を拝させ、申し送るという修法が行なわれた。「丑の刻に至りて千日行者深秘の筥を開き、現に霊神を拝し」とある。
 そのあと、鬼に扮する山伏が壺を箱に納め、背におって鬼神殿から出て来て荒れるのである。最後には大勢の山伏が取りおさえ、八本の縄でからめとる。八本の縄は箱につけられていたもので、八鬼を意味するものである。豊前地方の鬼会、英彦山、等覚寺などにも八本の縄がつけられていた。

 引用の後半は、多分に儀式化された鬼神封じの行事の印象をあたえますが、しかし、「八鬼」云々は、これも求菩提山に伝わる縁起に拠るもののようです。『文化攷』からの孫引きとなりますが、以下は、犬ヶ岳の霊神・鬼神の性格を知る上でも参考となります。

同(継体天皇)御宇、深山威奴岳(犬ヶ岳)の霊強暴国家の害多し、卜仙是を降伏し威奴岳の絶頂に一つの甕を置、彼八鬼を駆って其霊を甕の中に封じ、奇災を攘て民家を安からしむ。

 威奴岳(犬ヶ岳)の霊神は「強暴」で「国家の害多し」とあります。一地方の山神が「国家」(天皇の国家)に害をもたらす神とみなされているというのは尋常ではありません。また、本来は、この霊神の眷属であっただろう「八鬼」をもって、この神を甕に封印したとあり、これは、猛覚磨卜仙の験力の強さを讃えたものとも読めますが、一神に対して「鬼」が八体でかからないと封印がかなわないわけですから、威奴岳(犬ヶ岳)の霊神の神威の強さが逆にみえてもきます。縁起は、「八鬼」が登場する鬼会の行事について、「則ち此神鎮祭の法を伝え、今に至るまで、正月八日鬼会の修法は卜仙の伝えし大事にて、鬼神を祭るは則ち威奴の霊神也」としています。
 鬼会は、威奴岳(犬ヶ岳)の霊神を「鎮祭」することに主旨があるわけですが、犬ヶ岳の鬼神霊を封じた「深秘の壺」を次の千日行者に申し送る(手渡す)ことに、現在の鬼会行事の外在的意味はあるのでしょう。
 また、部外にはみえない内在的意味があるとすれば、それは、先の引用では「深秘の尊体」と書かれていた鬼神霊の正体が、千日行をこなした「高壱人」(最高位にある千日行修験者一人)にのみ明かされるも、つまりは、この霊神の正体については、一般への口外は禁忌とされていることにあるようです。このことは、逆にいえば、求菩提山の修験者一般は知らずとも、山の修験組織の最高位にある者には、この霊神が何たるかは伝わっていたことを意味しましょう。これまでみてきたところでいえば、厳上人は少なくとも、この「深秘の尊体」とされる霊神の真相体を知っていたことになります。
 ところで、先に高賀山の伝承でみたように、日本では、天皇・朝廷への服属を拒んだ神はすべて「鬼神」とみなされます。この例を求菩提山の縁起にみようとするなら、犬ヶ岳霊神は強暴で国家に害をもたらす神とみなされていましたから、高賀山と同質の神の匂いがしてきます。求菩提山・犬ヶ岳における鬼神の出現が、継体天皇時代に設定されていたことは、やはり無視できません。
 継体天皇二十一年(五二七)から翌年にかけては、筑紫国造磐井と朝廷軍との激戦があり、『日本書紀』は、新羅と親密な関係を有する磐井について、「新羅、密に貨賂[まひなひ]を磐井に送る」と書いています。『書紀』は、高句麗・百済からの朝貢船を新羅が横領したため、近江毛野臣を六万の大軍とともに半島へ派遣しようとしたとき、新羅から「貨賂」(賄賂)をもらっていた磐井がこれを邪魔したとして、磐井討伐が決行されます。『書紀』は、激戦の末、大将軍・物部麁鹿火[あらかひ]が筑後国御井(三井)郡で磐井を斬ったとしています。しかし、磐井が実は死んでいなかったことを記していたのが『筑後国風土記』(逸文)です(以下の引用は岩波書店版「日本古典文学大系」本による)。

〔前略…筑紫君磐井が生前、上妻[かみつやめ]の縣[あがた](現在の福岡県八女郡)に造った、石人・石盾・石馬などを周囲に配した墓の記述がはいる〕古老の伝へて云へらく、雄大迹[をほど]の天皇(継体天皇)のみ世に当りて、筑紫君磐井、豪強[つよ]く暴虐[あら]くして、皇風[おもむけ]に偃[したが]はず。生平[い]けりし時、預[あらかじ]め此の墓を造りき。俄[にはか]にして官軍[みいくさ]動発[おこ]りて襲[う]たむとする間に、勢の勝つましじきを知りて、独自[ひとり]、豊前[とよくにのみちのくち]の国上膳[かみつみけ]の縣に遁[のが]れて、南の山の峻[さか]しき嶺の曲[くま]に終[みう]せき。ここに、官軍、追ひ尋[ま]ぎて蹤[あと]を失ひき。士[いくさびと]、怒[いかり]泄[や]まず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち墮[おと]しき。古老の伝へて云へらく、上妻[かみつやめ]の縣に多く篤き疾[やまひ]あるは、蓋[けだ]しくは玆[これ]に由[よ]るか。

 磐井は追っ手の官軍から逃れて、豊前国の「上膳[かみつみけ]の縣」、その「南の山の峻[さか]しき嶺」に逃げ込み、ついに追っ手を振り切ったようです。官軍の兵は怒りがおさまらず、磐井の生前の墓にあった石人・石馬の手や首を破壊した。「上妻[かみつやめ]の縣」に重い疾病が多くあるのは、この行為によるものか──といった内容です。
『風土記』の頭注は、磐井が逃げ込んだ豊前国上膳縣の「南の山」について、「豊前国の南境の山。豊前市の東南隅の求菩提山(七八二米)または犬ヶ岳(一一三一)に擬している」としています。地元の渡辺晴見『豊前地方誌』も、豊前国の「上膳[かみつみけ]の縣」は上毛郡、「南の山峻[さか]しき嶺」は犬ヶ岳または求菩提山一帯とし、「上毛郡に大和朝廷時代の伝承があるのはこの二山しかない」と断じています。
 渡辺氏は、以上のことを踏まえて「鬼神は磐井ではなかったろうか」と推定をしていて、さらに、犬ヶ岳・求菩提山を中心とする一帯の特徴について、次のように書いています。

 すなわち現在の豊前市の犬ヶ岳・求菩提及び岩屋の里は、七世紀位までは、土着先住民土蜘蛛と、五世紀前半に当地区に遁走した筑紫及び豊・火を勢力範囲とした筑紫の国造磐井とその後裔の住む里、鬼の里であったと考えられる。

 犬ヶ岳・求菩提山を中心とする地区には、景行天皇紀が記す土蜘蛛・耳垂[みみたれ]の伝承もあるらしく、『豊前地方誌』は、日本武尊に討伐される「耳垂という賊の住んでいるところは求菩提山の麓の犬ヶ窟[いぬがいわや]というところである」という『両豊記』の所伝も紹介しています。

求菩提山【岩洞窟─小堂】
▲岩洞窟(犬ヶ窟)

求菩提山【岩洞窟─湧水】
▲岩洞窟の湧水

 わたしは、『書紀』が記す土蜘蛛討伐譚にはかなりの作為・創作があるとみています。渡辺氏は、「七世紀位までは、土着先住民土蜘蛛」がこの地にいたとしていますが、七世紀の時点をいうならば、当地には秦氏(秦氏系氏族)がいたとみるべきでしょう。
 ここでいう秦氏は、「秦王国」を構成する加羅・新羅系渡来人としての秦氏のことですが、磐井が、この秦氏の地を最後の頼みとした理由としては、『書紀』は悪意に満ちて記していたものの、やはり新羅と磐井の親近性を指摘しておきたくおもいます。その理由は、磐井が生前造ったとされる墓がよく物語っているからです。『風土記』の頭注は、この磐井の墓について、「石人石馬を立てる新羅風の墓」と説明しています。磐井が新羅と共有する墓制あるいは文化をもっていたことから、磐井に象徴される九州の歴史・文化風土は「新羅的」とみてよく、九州には、そういった基層文化がもともとあったと想像してもさほどの誤差はないとおもいます。
 ところで、磐井は物部麁鹿火によって斬られたと書く『書紀』と、磐井は生きて逃げおおせたと書く『風土記』の、このくいちがいはどこからくるのでしょう。
『書紀』の頭注は「筑紫国造は孝元皇子大彦命の後」としていて、この大彦命については、孝元天皇記に「(孝元)天皇、穂積臣の祖、内色許男[うつしこを]命の妹、内色許売男[うつしこめ]命を娶して、生みませる御子、大毘古[おほびこ]命」とあり、磐井は穂積氏の系にあります。つまり、物部麁鹿火と磐井は、ともに神饒速日命を共通の大祖とする同族とみられます。麁鹿火は求菩提山・犬ヶ岳まで磐井を追い詰めたものの斬ることなく、同族の情も働いたか、あるいは朝廷に嘘の報告をした可能性もないとはいえません。
 さまざまに想像はふくらみますが、求菩提山・犬ヶ岳には物部氏も仰ぐ霊神がいて、麁鹿火は磐井の無事を見届けると、安んじて兵を引き上げたなどということもあったかもしれません。求菩提山の国玉神社境外社・豊照神社(明治期の前は毘沙門堂)は、その祭神を物部氏の祖「天照国照日子火明命(饒速日命)」としていて、求菩提山・犬ヶ岳が物部氏と縁無き山でなかったことはいえそうです。もっと大胆なことをいうことが許されるならば、求菩提山・犬ヶ岳には、物部氏にとっては、手出しのできようもない母系祖神がいたという仮説もありうるようにおもいます。
 さて、土蜘蛛伝承といい、磐井の命(首)を官軍に手渡さなかった伝承といい、この山の信仰圏域は、大和朝廷側からすると「皇風[おもむけ]」に従わないやっかいな風土というべきで、その意味で、たしかに「鬼の里」であったといえます。その上でいえるのは、磐井が逃げ込んだため、犬ヶ岳の鬼神は磐井のことだとする説も、正確に語り直す必要がありそうです。つまり、犬ヶ岳の霊神は、「鬼」ともなる磐井をかくまうことができる、いいかえれば、官軍も手出しができない絶対霊神であるゆえに、「鬼神」と呼ばれるということです。
 さほどの霊神がいる山が犬ヶ岳だとみますと、その遙拝山である求菩提山の信仰的意味も、別の角度からとらえなおす必要が出てきます。その象徴が、養老四年(七二〇)の白山権現の勧請・創祀です。『豊前地方誌』の記述を読んでみます。

 求菩提山麓岩屋町の古屋敷須佐神社では、隔年五月三日に清明楽が里人によりとり行われている。清明楽に「犬ヶ岳の悪鬼、四方に繁乱して、諸民、是がために悩まされ、時に求菩提山・行善大徳、丹誠ぬきんでて、権現に法を祈り、かのみょうじつ(妖術…引用者)を以て、狗岳(いぬたけ・犬ヶ岳)のいただきに封じ納めて、鬼神を祭る事、偏[ひとえ]に白山権現のれいげんいちじるしき所なり」とある。
 行善は元正天皇の養老四年(七二〇年)求菩提山に登り、神[かみ]覚磨聖[ひじり]卜仙に次いで実質求菩提山開基となった。

 養老四年(七二〇)、行善和尚によって勧請されたのが白山権現です。この権現の著しい霊験によって、犬ヶ岳の鬼神(悪鬼とも)を山頂に封じ、求菩提山に、この鬼神を鎮めまつるというのが「清明楽」の文言の骨子ですが、行善は、豊前国からはずいぶんと遠い加賀国(越国)から、なぜ、わざわざ白山権現を勧請したのかという問いは残ります(後述)。
 ところで、犬ヶ岳の異称には「異奴嶽」「威奴嶽」の名がありましたが、当初からこういった山名ではなかったようです。求菩提山に伝わる三つの縁起書ですが、その最古のものは、享保十二年(一七二七)に成る、求菩提山祐官坊祐舜の書写とされる『求菩提山縁起』です。縁起の最初の部分には、次のように書かれています。

考其濫觴最初号人星嶽。絶頂鎮覆紫雲金光夜之照衆峯朗然。都国感異光奇瑞不知幾何年矣。

 粗っぽい要約をするならば、その濫觴(はじまり)を考えると、最初、人々は星嶽と号した。この山の絶頂には紫雲がたなびき、夜には峯から金光を発する。この異光の奇瑞は都にも知れるもので、何年もつづいたといったところでしょうか。
 犬ヶ岳あるいは求菩提山が「星嶽」の名にはじまるというのは大きな意味があります。なぜなら、この霊山は、北辰・妙見信仰を秘めていたことがわかるからです。この信仰は、いうまでもなく新羅系秦氏と深く関わるもので、星嶽の霊神・鬼神は、北辰・妙見の神(女神)であり、妙見の本地仏は、のちに薬師如来とされるも古くは十一面観音でした(相原文二『渡来の女神・妙見』参照)。一方、中央の朝廷に伝わったのは百済系妙見信仰で、新羅系のそれと異なるのは、百済系妙見信仰では北辰・妙見の神は男神とみなされ(本地仏は薬師如来)、したがって、北辰=天帝=天皇というとらえ方で、天皇自身の信仰として受容されます(中西用康『妙見信仰の史的考察』参照)。妙見信仰の先行伝播は新羅系渡来民によるもので、これが九州北部の「秦王国」の信仰とみられます。求菩提山には五世紀頃とされる新羅系出土物がみられるとのことです(『山伏まんだら』)。
 星嶽(求菩提山・犬ヶ岳)に妙見神がいたことについては、求菩提山への登拝参拝路の途中にある岩洞窟[がんどうくつ](土蜘蛛・耳垂が住んでいた伝承がある狗(犬)ヶ岩屋)に、現在も妙見菩薩の石像が散見されることに、その痕跡をみることができます。

求菩提山【岩洞窟─妙見菩薩石像】
▲妙見菩薩石像(岩洞窟)

 また、岩岳川流域の嘯吹[うそぶき]八幡神社の特殊神事「山人[やまと]走りの神事」にも、犬ヶ岳と妙見信仰の関係が示唆されています。この特殊神事は、八幡大神の鎮座譚を再現したものですが、同社由緒から、まずは、この鎮座譚を抽出してみます(『福岡県神社誌』)。

 縁起曰く、人皇五十五代仁寿二壬申年、羽筈山左衛門尉吉武なる者有り。常に神徳を尊み、或夜夢に衣冠の老翁来告曰く、我は是れ八幡大神なり、汝我為めに奉祠せよ五穀豊登[ママ]の守護を成す可しと宣給ひ、枕辺に一個の扇を残し玉ふ。忽然として西南の山岳に至り発大光如車輪、吉武夢覚め驚き枕辺を尋ぬるに誠大扇あり。大に感喜して急き到視夢所樹林にして真闇也。不弁咫尺其内巨長なる楠木あり、其木にて口嘯を吹き居給へり則ち此所に一宇茅社を結ひ奉祠之。〔後略〕

 仁寿二年(八五二)、神への信心深い羽筈山吉武なる者の夢に現れた八幡大神は、自分をまつるならば五穀豊穣を約束すると託宣し、吉武の枕元に扇を置いて「西南の山岳」へと去り、そのとき、山からは車輪のごとき大光が発した──、吉武はここで夢から覚めます。しかし枕元には大扇があったため、これは正夢と感動し、夢に出てきた樹林を探索するも真っ暗闇でみえず、手探りで探すと大きな楠木があり、神は樹上から、ここだというように「口嘯」を吹いて居場所を教えたため、吉武は、この地に一宇の茅社を結んで祠とした──。
 この夢告譚で興味深いのは、託宣を終えた八幡大神が「西南の山岳」へと向かったことです。嘯吹八幡神社(の元社地)から西南の方角に聳えるのが求菩提山・犬ヶ岳です。

求菩提山【岩岳川と求菩提山・犬ヶ岳】
▲岩岳川と求菩提山(背後が犬ヶ岳)


『神社誌』は、「山人走りの神事」について「私祭秋祭(十一月二十七日)官祭々典後引続き行ふ」としていて、官祭ではなく「私祭」だと断っています。しかし、「由緒不詳」としていて、神事の内容については多く説明しようとしていないようです。
 この「山人走りの神事」の内容をもっとも詳しく紹介しているのは、『豊前市史』下巻です。その神事の細部については『市史』に譲りますが、神事の主旨を一言でいえば、八幡大神の元社地(初めて社殿を建立した地)への神幸祭に尽きるようです。「榊」に憑依した八幡大神は神人と一体となって、現在の社殿から元社地(年瀬)へと向かいます。『市史』の「年瀬」の説明を読んでみます。

年瀬(最初社殿建立地所)
 一宇の宝殿を建て八幡神を祀る。ここを年出とか、年越えの坂、年瀬の坂とも言う。年を出て(二年にわたり)次の湯の本に遷宮したためこのように呼ぶ。ここに七つの大石があり、礎石とも妙見信仰の遺物とも伝える。秋に行われる“山人走り”の神事のとき、本社を走り出た神人ヤマトは、この石上に正座し祝詞をあげる。この一件を見ても重要遺跡であることがわかる。

求菩提山【嘯吹八幡神社元社地─七ツ石】
▲七ツ石(八幡大神降臨伝承をもつ霊石)

 最初に八幡大神が降り立ったのは年瀬の「七つの大石」の上でした。この大石が妙見信仰における北斗七星を表していることは明らかです。北辰=北極星の神の乗り物として北斗七星はありますから、ここでの八幡大神は北辰=妙見の神と見立てられていることになります。それが、鬼神が住むとされる犬ヶ岳へと向かった(飛んだ)という伝承が示すことは何なのでしょう。
 嘯吹八幡神社は、神功皇后・仲哀天皇・応神天皇・天児屋根命・武内宿禰といった宇佐神宮にもまつられる諸神を祭神としていますが(『福岡県神社誌』)、ここで気づくのは、八幡大神としての比売大神のみ、なぜか、ここにはまつられていないということです。求菩提山・犬ヶ岳の妙見女神と、嘯吹八幡神社からスポイルされている比売大神とが、深い神縁で結ばれていることを語っているのが「山人走りの神事」です。
 求菩提山・犬ヶ岳の霊神・鬼神が、その実、北辰=妙見の女神であることがみえてきましたが、犬ヶ岳の遙拝山である求菩提山には、行善和尚によって白山権現が勧請されていました。『築上郡史』下巻は、『求菩提山雑記』曰くとして、次のような白山権現出現譚を記しています(適宜句読点を補足して引用。文中〔 〕は割注を示す)。

四十四代元正天皇養老四庚申年、白山大権現行善和尚に託して、此岳の霊石に影向し玉う。其来由は、此山の西北三里余の海浜に鬼ヶ洲と云所有、和尚其所に遊で一つの神剣を得、殆不思儀の思をなし、弥仏法の弘通を祈り、数日此処に住して十一面呪を誦し念力を砕く〔此所今号権現森〕。此時天女雲中より現じ、和尚に告て曰、善哉大徳、汝に妙法を授べし、我は是白山権現なり、汝が行化を助んため山海遙に来て神岳に至る、所護の法力を現すべし。五窟岳上、金胎全然[ママ]護国霊験我礼影嚮と微妙の音声雲に響き、岳に向つて去玉ふ云々。和尚、山の巓に至り霊石の上にて親ら白山権現本地の妙体十一面尊の霊像一体を感得し、恭敬礼拝して則地主神明と同じく山頭に崇座し奉り、両所の大権現と祭り奉れり。山の霊なるおもむきを奏聞あり、則勅許を蒙りて大講堂其外許多の堂社を建立し鎮護国家の道場を定玉ひ、勅して山を求菩提と号し寺を護国と名付られ、数ケの祭会を始め玉ひ、又供糧として山より東に六十町の地を寄付し玉へり云々。

 養老四年(七二〇)の求菩提山護国寺の創建は「勅許」によるものとありますが、この「勅許」はことばの綾というべきで、実質は「勅命」のことです。朝廷は求菩提山を、護国寺を中心に「大講堂其外許多[ここだく]の堂社を建立し鎮護国家の道場」と定めたとあり、その最大の契機は、縁起にあるように、白山天女こと白山権現の求菩提山への出現・鎮座の奇譚を、朝廷が聞き及んだこと(奏聞)にあります。朝廷と、求菩提山を「鎮護国家の道場」とすることの仲介・媒介者として行善和尚の名があるわけですが、それにしても、白山天女こと白山権現の夢幻的出現譚は、文学的にもかなりよくできていて、なかなか読ませます。
 養老四年の何月かは不明ですが、行善は(求菩提)山の「西北三里余の海浜」にある「鬼ヶ洲[しま]」(権現森)で遊行していると「神剣」を得た、彼はそこで「十一面呪」を誦していると、「天女雲中より現じ」て、自分は「白山権現なり、汝が行化を助んため山海遙に来て神岳に至る、所護の法力を現すべし」、「護国霊験」を表そうと託宣すると、白山天女は神岳(のちの求菩提山)へ去っていったとされます。
 この白山天女=白山権現の出現譚には、少なくとも三つの興味深い点がみられるようです。その一は、行善が遊行していた地が「鬼ヶ洲」であること、その二は、行善がこの「洲」で「神剣」を得るという偶然的不思議を記していること、その三は、この神剣の入手を機に「十一面呪」を唱えることで、白山天女の出現・託宣がなされたとされることです。
 行善が遊行した鬼ヶ洲の「鬼」は犬ヶ岳の鬼神の「鬼」と通じていて、つまりは、犬ヶ岳の霊神が最初に降り立つか上陸した地が、この鬼ヶ洲だったとみられます。そこで「神剣」を得たとされるのは、犬ヶ岳の霊神と縁深い「神剣」ゆえかと想像させますが、この神剣を手にした行善は、そこで犬ヶ岳に意識を向かわせるのでなく、「護国」の意識を優先させたものか、「十一面呪」を誦するという行為に出ます。この「呪」のために白山天女=白山権現が出現します。
 微細な分析かもしれませんが、この一連の話の展開が告げているのは、犬ヶ岳の霊神・鬼神を封ずるために白山権現の「霊験」を呼び寄せた行善がいるということ、あるいは、犬ヶ岳の霊神・鬼神と白山天女=白山権現とが縁無きものではないことを識知していた行善の心意でしょうか。越[こしの]国から豊前国という遠地に、白山天女=白山権現がさも自主的にやってきたかのごとくに語られていることを解釈するなら、以上のようになるかとおもいます。
 ところで、この「鬼ヶ洲」(権現森)について、『豊求菩提山修験文化攷』は、次のように説明しています。

記録に、「権現森、往古求菩提山遙拝所」とある(築上郡椎田町鬼ヶ洲〔島〕)。また、犬ヶ岳、求菩提、権現森(島)を結んだ、一直線上の極楽谷に門柱がある。

 鬼ヶ洲(権現森)・極楽谷の門柱・求菩提山・犬ヶ岳が一直線上に並んでいるという指摘です。鬼ヶ洲(権現森)は「往古求菩提山遙拝所」でもあったようですが、このレイラインは机上のモノサシによるものではなく可視的なものです。蛇足ながら、「求菩提山遙拝所」は、ここでも犬ヶ岳をスポイルしていて、もともとは犬ヶ岳遙拝所というのが正確なのでしょう。鬼ヶ洲の「鬼」は、求菩提山ではなく犬ヶ岳にこそ認められるからです。
 現在、鬼ヶ洲(権現森)は「鬼塚」と呼ばれ、案内板によれば、ここはもともと浮洲だったようです。ここには「浮殿」と呼ばれる小さな祠がみられ、国玉神社(求菩提山護国寺が明治期に神社化したもの)による浜降り神事における神幸先の地(社)とされます。犬ヶ岳の遙拝山である求菩提山には、養老四年から白山権現を中心とする神仏祭祀が大々的に展開されることになりますが、犬ヶ岳の霊神が初めて降り立った地・鬼ヶ洲を、求菩提山信仰がけっして忘却していないことがわかります。鬼神と称されるも、犬ヶ岳の霊神は、白山権現(白山天女神)や八幡大神(比売大神)を引き寄せるだけの親縁的神威を有する神であり、妙見神とも習合する神でした。

求菩提山【鬼ヶ洲─浮殿】
▲鬼ヶ洲の浮殿

求菩提山【鬼ヶ洲─鬼塚説明板】
▲鬼塚(鬼ヶ洲)の説明板

 以上は、神仏習合時代の縁起による解読ですが、明治期に求菩提山護国寺は国玉神社に変身します。つまり、仏教色を払拭するかたちで神道(正確には神社神道=国家神道)的由緒を新たにつくることになります。『福岡県神社誌』収録の国玉神社の項にみられる由緒は、江戸時代の神仏習合縁起から仏教色を消したかたちでつくられたものです。先の引用部分に対応する由緒を読んでみます。

元正天皇養老四庚申歳伊弉諾命伊弉册命の二柱の神を相殿として崇祭し給ふ。同御宇蒙古渡海にして天下大に驚動す。朝廷諸社に奉幣して彼の敵兵調伏の事を祈らしむるに当り、当社も亦勅宣を蒙り祈願の事を奉ず、事治るの後朝廷藤原朝臣武知麿を以て報賽せらる。其後宣旨を稟け鎮護国家の道場となし山を求菩提と改めたり。

 明治政府は「権現」を名乗ることを禁じましたから、白山権現の名はここにありません。その代わり、白山権現の垂迹神とされる伊弉諾命・伊弉册命を養老四年に勧請したとされ、継体天皇時代にまつられたとされる顕国霊神の「相殿」神とみなされているようです。
 本来の神を権現の名で封じ、しかし、その垂迹神が語られるとき、まったく異なる神が元々の神だったかのように現れてくるというのは、本家の白山においてもいえます(『円空と瀬織津姫』下巻)。ここには、巧妙な神の差し替えの問題がありますが、それはおくとしても、この由緒には、養老四年に「蒙古渡海にして天下大に驚動す」と書かれています。これは、『求菩提山縁起』がすでに書いていたことですが、養老四年の大乱とは、日向・大隅の隼人の蜂起のことでしょう。それが「蒙古渡海」とされているのは、隼人が新羅の援軍のもとに蜂起したと伝承されていて(中津市・古要神社由緒ほか)、ここでの「蒙古」は元寇のそれではなく、倭国とは不倶戴天の異敵国・新羅を意味しています。
 かつての筑紫国造磐井も、新羅と濃厚な関係を背景に、朝廷に叛旗を立てたことが想起されますが、養老四年の隼人の大乱の背後にも新羅の影があることは、朝廷にとっては由々しきことだったにちがいありません。また、養老四年には『日本書紀』が成り、その神話創作では、隼人は天皇への永遠の服属を誓ったと描写されていましたから、朝廷からすれば、このタイミングでの隼人の蜂起がどれほどの驚愕だったかは想像に余りあるというべきでしょう。
 磐井をかくまった犬ヶ岳の霊神は、もともと新羅とは親和的な関係を有する神であり、心情論理上、隼人にも守護・加勢の神威を示すことはじゅうぶん以上に考えられます。国玉神社に「敵兵調伏」を祈願し、それが功を奏したとして、隼人蜂起の平定がなったあと、「朝廷藤原朝臣武知麿を以て報賽せらる」とありました。ここに名がみられる「武知麿」は藤原武智麻呂のことでしょう。朝廷が不比等の子をわざわざ「報賽」(お礼)の使いとして派遣してきたのが史実としますと、逆に、それだけの謝恩と安堵が朝廷側の思想心情にあったと読めるというものです。
 犬ヶ岳の遙拝山である求菩提山は、もともと神仏習合という方法によって「鎮護国家の道場」、いいかえれば、犬ヶ岳の霊神を封ずることが「鎮護国家」の目的にかなうというように策定された「護国」至上の宗教空間でした。明治期(以降)、この神仏習合のダイナミズムを語ることが禁じられたなかで自社由緒を作成するのは、さぞかし難儀なことだったとおもわれます。由緒が記す「敵兵調伏の事を祈らしむる」対象は、厳密にいえば、まだ存在していない国玉神社ではなく、求菩提山護国寺でした。
 行善和尚が当山に白山権現を勧請した理由を、鎮護国家のための霊験を必要としたといった外的要因以外で考えますと、少なくとも二つの内的要因があったことを指摘できそうです。
 その一は、当山が「星嶽」の名称からはじまる、いわば妙見・北辰信仰の山であったことです。白山権現も妙見・北辰神も、ともに本地仏を十一面観音としていて、その親近的共通性がまず指摘できます。しかし、本地仏の共通性だけではなく、求菩提山の信仰においては、白山権現自身が北極星と見立てられていたということがあります。なお、本家の白山の縁起(「白山禅頂御本地垂迹之由来伝記」)においても、「本地十一面観世音。七星の中の破軍星是なり」という文言がみられ、この「七星」は北斗七星のこと、「破軍星」は北斗七星七番目の星のことですから、求菩提山の妙見・北辰信仰は白山と共有するものであったといえるかもしれません。
 求菩提山の妙見・北辰信仰について、『山伏まんだら』は、『求菩提山雑記』末流等覚寺条を引きながら、「上宮の白山妙理大権現は、中国の太白山に住む妙理符君星としているが、妙理符君星は北極星を意味する」と指摘していて、要するに、求菩提山信仰の内部では、白山権現は妙見神・北辰神とみなされていました。これらは、求菩提山・犬ヶ岳の霊神と白山権現に秘められた霊神が、同体とみなされていたことを告げるものといえそうです。
 その二は、求菩提山における最重要な霊窟として五窟の一つ・普賢窟(胎蔵窟)があったことに関わります。この霊窟の神は、神仏習合時代(近世末の「諸堂記」)には「普賢窟、小社、右岩瀧大明神安置、明神ト称号ス」と書かれていました。この普賢窟の小社には岩瀧大明神がまつられていたわけですが、明治期初頭の求菩提山に伝わる史料には、この岩瀧大明神の神名が、次のように書かれていました(『豊求菩提山修験文化攷』所収)。

岩瀧宮  瀬織津姫命

 求菩提山信仰の内部では、普賢窟(胎蔵窟)の霊神・岩瀧大明神が、滝神・水霊神を本質とする「瀬織津姫命」と伝えられていたことの意味は、とても大きいといわねばなりません。なぜなら、厳上人の師でもある阿闍梨皇円が、弥勒の世の到来(下生)まで、自分は眷属の龍神となって側にいることを誓って入定をとげた静岡県・桜ヶ池、その池神・水神こそ、この「瀬織津姫命」だったからです。さらにいえば、「その一」とも深く関わりますが、白山権現という権現称号の背後に秘められた霊神もまた、この「瀬織津姫命」でした(以上、『円空と瀬織津姫』)。
 日本の神道史で「深秘」とされる神の筆頭に、この瀬織津姫という神はいます。明治期初頭の神仏習合の禁止(明治五年の修験道の禁止)は、より具体的には「神仏分離」による神々の洗い出し、さらに正確にいえば、皇国・日本の神まつりにふさわしくない神々の洗い出しを伴うものでした。国内の全神社が、祭神・由緒書を国家へと提出させられ、そこで消去・差替の対象となる神々が洗い出されました。皇祖神の創作祭祀の秘密を、その存在によって証言してしまう瀬織津姫という神は、伊勢神宮を頂点とする国家神道の整備を意図する祭祀思想からしますと、もっとも過激な消去対象の神でした。このことは複数の事例がみられますが、求菩提山も例外ではなく、「明治十三年二月」の日付をもつ「神社明細書」からは、この神の名は消されることになります(『文化攷』)。
 途中、中世の動乱など盛衰があったにしろ、長きにわたって神仏習合を空気のような自然態の祭祀としてきた修験の霊山は、明治期初頭、例外なく未曾有の大混乱・大激動の渦中にありました。求菩提山側は、行善和尚から厳上人へと伝わる「深秘の尊体」とも関わる霊神の名を、そのままにしたためて国家に提出したものとおもわれます。
 その結果が岩瀧宮そのものの消去という結果とはなりましたが、明治期初頭の、ほんのわずかな時間とはいえ、この神の名が記録に残ったことは評価せざるをえません。また、朝廷の意向からすれば、この神の神威は天皇・朝廷の外に対してのみ向けられる必要がある、つまり、天皇・朝廷にふりかかる災いを祓う国家神(大祓神)としてのみ、その存在を許すとしていたのでしたが、求菩提山は、そういった朝廷の意向・思惑に準ずることなく、人々の生活の守護神でもある水源神としての祭祀を密かにつづけてきたことも、大きく評価できることといえます。
 最後に、瀬織津姫が「鬼神」とみなされる理由を挙げておきますと、記紀の神功皇后条が端的に語っていましたが、この神の荒ぶる心が発現すると、不徳・不信心の為政者ならば、容赦なく「死」を与えるといった神威の強さが朝廷側に認められていたことがありましょう。しかも、この神は、神宮の地主神(の一神)でもありました。『日本書紀』は、この神威別格の神の名を「天照大神荒魂」とも「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」とも記していました。求菩提山信仰においては、犬ヶ岳の鬼神は「深秘の尊体」というように、一方的な忌避・貶称の対象とはみなしていませんでした。行善から厳への、この神に対する逆説的な信仰は、地下流水のごとくに脈打つ伝統としてあったと認めてよいのではないかとおもいます。
 現在、白山天女神や八幡大神(比売大神)とともにいるだろう犬ヶ岳の霊神の眼には、自らの遙拝山である求菩提山における、朝廷側の一方的思惑による一連の動きは、どのように映っているのでしょう。鬼神と貶称されるも、犬ヶ岳の神が「鬼」に値する報復の祟りをなしたなどという話は一度も聞いたことがありません。この神を恐れる感情は、いつでも支配者側に限られるというのも特徴です。民心に対する懐の深さ・広さは、どうやら犬ヶ岳の霊神のほうに、今も沈黙をつづける鬼神のほうに、「ある」とみてよさそうです。求菩提山修験の真髄は、このことを告げているようにみえます。
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